聳えるハルカスと通天閣、それに市立大学病院がやけに目につく夜の天王寺公園の中、青や赤、緑やピンクなどのイルミネーションが真冬の寒さの中に点滅する。それは天王寺にはふさわしいかもしれない。
難波は道頓堀に世界一派手な電飾看板群があるし、梅田は天王寺よりはるかに聳えるビルの数は多い。1週間ぶりに2月1日に天王寺公園で見たイルミナージュの続きを書くが、最初に今日の写真を説明しておくと、3枚とも市立美術館付近で撮った。この美術館は正面玄関が通天閣のある西を向いている。玄関前はすぐに下る階段があって、下り切ったところが新世界と呼ばれる区域で、「新」とついていることから想像出来るように、昔に新しく造られた歓楽街だ。美術館のある辺りは上町台地の西端に相当する。その下は大昔は海であった。それを埋め立てて作った土地であるから「新」がつく。これを普通は「新地」と呼んで大阪には数か所そういう街があるが、どれも埋め立てて出来たというのはない。新世界の南は飛田新地と呼ばれる遊郭だが、そこが海であったのはどれほど大昔か知らない。埋め立てて新地と呼ばれるようになったのではなく、遊郭として区域を整えたためにそう呼ばれるようになったのではないか。何年か前に家内と通天閣より南のややこしい商店街を歩いていると、飛田新地に入り込んだ。そのことはブログに書いたと思うが、なぜ足が向いたかと言えば、死んだ先輩が昔西成に住んでいて、一緒に飲んだ後、筆者はたまにその狭いアパートで一緒に寝たが、そこに向かうまでの道のりをおぼろげに覚えていたためだ。飛田新地のすぐ近くの安アパートで、もうとっくになくなったと思うが、ひょっとすればその界隈はまだ再開発が行なわれず、そのままあるかもしれない。そのアパートがどこにあったかは、もう永遠にわからない。場所がわかったからといって出かけて見るつもりはないが、わからないことは知りたい性分だ。それはそうと、先ほど思い出してチラシを1枚取り出した。1982年3月22日の月曜日の午後2時からと6時からの二回、「阿倍野銀座西入る大杉薬局ななめ向かい」のマントヒヒというジャズ喫茶で、ザッパの『200モーテルズ』のヴィデオ上映会があった。そのチラシを京都三条の十字屋で見つけたと思うが、筆者はひとりで出かけた。当時『200モーテルズ』はまだ日本ではほとんど見た人がいなかったと思う。ドリンク別で700円というから、割りに高い気がするが、見たことのないザッパの映画はぜひとも見に行かねばならない。阿倍野銀座の表は現在はQズ・モールになっている。82年は今から33年前だが、それだけ月日が経つと街も変わる。筆者も変わったか。老けたのは間違いないが、それはさておき、阿倍野銀座はあべの筋に面してアーケードの口が開いていて、その上部中央に阿倍野銀座の表示があったと思う。それを西に入って100メートルほどか、突き当りになるので今度は左すなわち南に向かうが、もうアーケードはなく、またなだらかな下り坂になっていた。両側は大阪ならではの下町だが、家の半分ほどは空家になっていたのではないだろうか。アーケード内の店も閉まっているところが目立ち、閑散としていた。そんな状態では山手に住む上品な人は歩くのを嫌がるだろうが、大阪ではあまりそういう人はいないのではないか。前述した通天閣より南を歩いて行き当たる飛田新地には、そのなだらかな道を先にある。直角三角形で言えば、阿倍野銀座を西に入って下がって行く坂は斜辺に相当し、美術館の正面玄関から通天閣に至り、そこを南に向かうルートは直角を挟む二辺だ。つまり、飛田に向かうには、Qズ・モール沿いの北の道を西に入り、先に書いたように100メートルほどで突き当たるので、今度は左手の道を下って行けばよい。こう書きながら、筆者は33年前以来その道を歩いていない。道は変わっていないが、拡幅されたのは当然で、また道の両側はすっかり再開発されて昔の面影はないはずだ。
マントヒヒでは東京から着くはずのヴィデオが1時間ほど遅れた。筆者をふくめて10人ほどであったと思うが、ザッパの音楽は当時の阿倍野銀座の雰囲気にぴったりと思われていたのだろう。猥雑なイメージで、それは当たっているところがある。マントヒヒが閉店したのはいつか知らないが、それがあった場所は市立大学医学部の南端辺りで、そこから200メートルほど先を行くと飛田新地がある。同医学部の病院が建て変わったのはいつだろう。まだ20年にはならないと思うが、それが建って間もない頃に家内の上の姉の旦那さんが入院したので家内と見舞いに行ったことがある。真冬であった。その時のことはよく覚えている。10階辺りの部屋に入院中で、窓からは東方面が見えた。その眺めは大きな底といった感じで、基礎工事をしていた。そこにQズ・モールが建った。病院の中には随所に写真が飾ってあった。絵画より安いということと、またいい写真であったので採用されたのだろう。奈良の明日香を撮ったものばかりであった気がするが、絵はがきのような写真ではなく、車の赤いライトが小さく写っていたりして、現在の景色を隠そうとしていなかった。それが好感が持てた。どの写真も早春の季節感があり、懐かしく、またきれいに撮れていた。病人は元気そうに見えた。北新地でよく遊んだ人で、そういう夜遊びが出来ないことをどう思っていたかと思う。当時まだ60になっていなかったのではなかったか。それから1,2年後に亡くなった。その病院の全室の灯りが点っているのは天王寺公園からすれば巨大な照明塔のようなものだ。今日の最初の写真は美術館の正面玄関を背にして通天閣を見たものだが、筆者が90度左を向くと、通天閣までと同じほどの距離にある市大病院の全景が見える。しかも通天閣のように細くなく、壁状であるので灯りの合計ルクスは何倍も大きいだろう。家内は言った。「あっちは撮らなくていいの」。筆者は無言でうなずいた。病院の方を向いて撮ってもイルミナージュの様子はよくわかるのだが、何となく撮る気になれなかった。それで少し角度をずらし、美術館の向こうにハルカスが入るような角度を選んだ。それが2枚目だ。写真の右端のもう少し右にその病院がある。壁が青く光っているのは美術館だ。その前で若い大道芸人がバスケット・ボールを操る芸をしていた。大きなマイクの音で始まりを告げる宣伝があったものの、イルミナージュに訪れる人が少ないので、写真のように脚はまばらであった。それでもディスコ調の曲を鳴らし、お祭り気分はあった。3枚目は同じ立ち位置で美術館の北を向いた。壁が赤くなっているが、これは秒単位で七色に変わり、好きな色の時に写すことが出来るかどうかは運次第だ。反応の遅い筆者のカメラではそうだ。だが、運よく、青と赤の2枚を撮ることが出来た。これだけのイルミネーションを見るために出かけたのかと思われそうだが、一番の見物は美術館の西と北にあって、次回はその写真を載せる。阿倍野の再開発はもう終わったのかどうか、天王寺公園の中は天王寺博覧会で新しくなってまだ30年経っていないので、当分は現状のままと思うが、天王寺動物園の人気がなくなると、その区画が狭められることがあるかもしれない。動物園は地方が頑張っているが、天王寺公園は動物が自由に動き回ることが出来るような自然動物園的に改造されて以降はあまり目立った評判を聞かない。美術館を訪れる人が動物園に行くには正面玄関前を下まで降り切らねばならず、少し不便だ。夜の灯りは動物のためにあまりよくないだろうが、イルミナージュは動物園より高台でのことで、また木立に隠れて動物たちは見えないだろう。美術館くらいはイルミナージュの期間だけではなく、年中七色で灯せばいいと思うが、『賑やかなのは新世界だけでよく、客を天王寺公園に取られてはたまらない』と、新世界の店が反対するか。