人気ブログランキング | 話題のタグを見る

●『炎のランナー』
宅とは何坪ほどの土地に建つ家のことを言うのだろう。数日前、夜8時頃に恩師から電話があった。嵯峨で宿泊中とのことで、直線距離にして300メートルほどだろう。30分ほど話したが、先生は一泊で京都市内の非公開寺院を6か所ほど巡り歩くとのことで、さすが趣味が違う。



もう何年も泉大津のお宅にお邪魔していないが、年内か来年中には行きますと約束して電話を切った。話の中で最近筆者が庭に少しは関心が出て来たことを伝え、先生の家には石灯籠がありましたかと訊ねると、3つあるとのことで、これもさすがは何代も続く、泉大津を代表する旧家だとうなずいた。何年も前に先生から酒井抱一がとてもよいと知らされて、少々返答に困った。筆者はあまり好きではないからだ。江戸琳派を築き上げたのはいいとして、光悦や宗達のおおらかさとは別物で、どこかなよっといたところを感じる。今回の電話でもまた同じ画家の名前を挙げられたが、思い当たることがあった。そのことを今日取り上げる映画と絡めて放そうかと思っているが、書き進むうちにどうなるかわからない。先生の好きな日本の文学者は三島由紀夫で、そのことからもどう言えばいいか、性格、生活、趣味といったものがわかるが、そこに酒井抱一が重なると、なおさらそれらが鮮明化する。断っておくが、そのことを筆者は否定するのでは全くない。ただ、筆者は別のものが好きというだけのことで、個人の好みの問題だ。その好みは生まれ育った環境や血というものによって異なる。そうとも限らない場合もあるが、まずはだいたいはそうだろう。家に1冊の本もなく、親が子どもに教養とはどういうことかを教えず、金儲けだけを強いると、おおよそ子どもは親に似た大人になる。それは仕方のないことだ。万にひとりくらいは、親に反発して猛烈に勉強して金儲けばかりを考えない大人に育つが、そういう場合でも何代にもわたる旧家育ちとは違って、どこか粗雑と言うか、育った環境ゆえのどうしようもない垢のようなものがどこかに蓄積され、それが本人があまり気づかないうちに、ふっと人前で出たりする。筆者はそういう部類で、筆者の身内にはひとりとして筆者の関心事を心行くまで話せる人物がいないが、そうであるためか、恩師のような教養豊かな人物と話す機会があれば、それこそ何時間でも没入出来る。だが、前述のように、筆者と恩師とでは育ちが全く違う。あまりにも違い過ぎて、ごくたまにしろ、先生が筆者と連絡を取ろうとされることを改めて考えれば、もったいないと言うか、身にあまることと言えばいいか、ま、不思議な気がする。一方、最近あることをよく思い出す。もう随分会っていないが、友人が40年ほど前に、親類たちが大勢集まる何かの式に参加した後、居並ぶ年配者たちがどれも俗物に見えたと言った。なかなか辛辣な言葉で、その時筆者はそれ以上は考えず、田舎から出て来た人たちの顔を想像して、何となく友人の言葉が理解出来る気がした。友人は両親はいたが、金持ち育ちではない。筆者ほどの貧乏育ちではなかったが、世間で言えば普通より下であったろう。友人が親類の年配者たちを見て俗物と思ったのは、もうそういう見方が出来るほどに大人になっていたからだが、それを言えば、小学生でもわかる者はわかる。人間は不思議なもので、一瞬で相手を値踏みする。喝破すると言い代えてもよい。そして、自分と考えが合う、つまり話が出来る相手を求めて生きて行くが、その時には生まれ育ちは関係があまりなく、貧乏育ちが金持ちと仲よくなることもある。女の場合はどうか知らないが、男はそうだ。それで、恩師は筆者が随分年下だが、話をして面白いと昔から感じていて、今なお交流がある。俗物に話を戻すと、筆者はその友人にかなり遅れて、身内の俗物性がわかるようになって来た。だが、それはそれであって、たまに会う時はどうでもいい話で和んだ時間を保つほどには筆者は心が優しいしと思っているし、またそういう時間が好きだ。というのは、俗物を避けると、この世は生きて行きにくい。俗物と会うのも辛いが、いなければまたさびしい。さらに断っておくと、IQが高く、高収入であるから俗物でないというのでは全くない。貧乏な俗物はかわいらしいが、金持ちで知識人と思っている俗物ほど醜いものはない。
 本作は先日録画した。昔ビデオに録画したものがどこかにあるはすで、去年それを思い出して探したが、見つけられなかった。音楽があまりに有名で、どんな映画かずっと興味があった。それをようやく見たが、思っていた映画とは全く違った。名作と称されているであろうし、実際そう言ってよいが、描かれていることが日本でそのまますべて理解されているだろうか。ひとつの作品は多面性を持っていて、味わい方がいろいろあるのは当然だが、本作はどうも高貴過ぎてピンと来ないところがあると思う人が日本では多いのではないか。あるいはイギリスでもそうかもしれない。であるからこそ、本作を撮る意味もあったということだろうか。本作は男の友情が最大のテーマで、またそれはケンブリッジ大学という、賢くて金持ちしか入ることが出来ない有名大学での話だ。イギリスの中でも最も高貴さを代表するような場所における、男たちの目指す夢を描き、それは時代が変われば形が違い、本作が描く第1次世界大戦後では、スポーツということになっていた。イギリスはあらゆるスポーツを生んだが、その自負が本作には込められているだろう。そして、イギリスのスポーツはアマチュアリズムを大切にするが、本作のクライマックスに描かれるオリンピックもそうであり、本作は1980年頃のオリンピックのあり方を皮肉っているところがある。話が脱線する。先日ネット・ニュースで、今度の東京オリンピックまでに投下される選手強化のための費用のランクづけが、フィギア・スケートがCに落ち、スキーの滑り台ジャンプがAになったと読んだ。有望選手の有無で、政府が出す費用が変わる。現金なものだが、税金を投入するからには、メダルが有望視出来る選手のいる競技となるのはやむを得まい。だが、現在のオリンピックはそこまで金と密接につながり、個人の努力でメダルを取るということはもはや夢物語となっている。そういうオリンピックが公平で、また見て面白いものかと言えば、4年に一度であるから見るようなもので、もともとスポーツ好きでない筆者はほとんど関心がない。金をいくら費やしても才能と努力は別物で、メダル獲得は保証されないのは確かだが、どの競技もそうかと言えば、違うだろう。国によってオリンピック選手への金のかけ方が大幅に異なり、メダルを目指すのであれば、国籍を変えてまでというのがもはや常識化していて、そこにアマチュア精神があるだろうか。本作にはそのような問題が描かれる。主役はふたりの男性で、ひとりはユダヤ人でケンブリッジ大学生のハロルド・エイブラハムズ、もうひとりはスコットランド生まれの宣教師で、ふたりは最後にパリ・オリンピックで顔を合わせる。ハロルドは学友3人と仲がよく、4人とも走者としていい成績を上げるようになるが、ハロルドはユダヤ人であることに無言の圧力を校内で感じていて、それを見返すためにもトップ・ランナーになることを目指す。それは見方によれば悲しいことだが、そのような不屈の精神があればこそ、ユダヤ人はあらゆる分野で有名人を輩出して来たということだろう。だが、本作はどこまでもユダヤ人を心から認めてはいないように描かれているように思える。まず、ハロルド役を演じた俳優だが、はっきり言って悪役の顔だ。4人仲間のうち、ブロンド・ヘアのとても美しい顔をした人物がいて、彼の邸宅が映るが、まるで王宮級で、芝生の庭を彼はガウン姿の裸足で歩く。何代も続く大金持ちの子息で、そういう人物にありがちな気高さ、あるいは柔和さ、あるいは女性っぽさが全身から溢れ出ている。それに比べてハロルドは、何かに憑かれたかのように常に目をぎょろつかせている。だが、そういう彼であるからか、学生の中ではとても目立ったのだろう、学生たちの憧れの的である美しい舞台女優とたちまち恋仲になる。ま、女優であるから、当時としては身分は釣り合っていたのだろう。何代も続く名家の子息は女優とは遊んでも嫁には迎えない。今でもそうだろう。成金男と女優はお似合いで、そのことを本作はほのめかしている。ハロルドがケンブリッジに入学出来たのは、頭がよいことのほかに金持ちであるからで、その金をハロルドの親は世間から思われているユダヤ人の天性から稼いだ。そのことは描かれないが、それは描く必要がないほどに当然であるからだ。またそのことをハロルドは知っているだけに、大学で疎外感を味わい、それをばねにして有名になろうとする。
 ハロルドは世界一の走者になるためには金を惜しまない。そしてオリンピックのためにイタリア人のコーチを雇う。そのことを大学の教授たちは快く思わない。なぜなら、スポーツやオリンピックはアマチュアであるべきで、金を払ってコーチをつけることはそれに反するという理屈だ。そこには一理ある。そして第1次大戦後にそのことが崩れ始めたこともわかる。その延長上に現在があるが、コーチなしでメダルを取るなどということはもはやあり得ない。ハロルドは聞く耳を持たずに、コーチを雇い続け、オリンピックで優勝する。だがそれは、同じ100メートル走にハロルドよりも速いリデルが参加しなかったからとも言える。リデルは100メートル走が日曜日に実施されることを知り、安息日であるその日は走らないことにし、400メートル走で優勝を目指した。そして金メダルを取るが、先に金メダルを取っていたハロルドは、ついに世界をものにしたといったようには喜びを見せない。そのことを4人組のひとりが理解し、他の仲間にハロルドをそっとしておいてやれと忠告する。ハロルドは本当は夢がかなったので嬉しくてたまらないはずだが、優勝を争うはずであったリデルが出場しなかったことに、周囲から儲けたなと思われることを感じたのかもしれない。だが、金メダルだ。誰にも文句は言わせない。そういう複雑な思いがハロルドの内面に渦巻いているように、俳優は演じた。それはリデルとはあまりに対照的で、本作はハロルドが矮小化され、リデルが神のように描かれている。そこに、アングロ・サクソンのユダヤに対する根深い思いが見えそうで、筆者は何となく後味悪く思った。リデルは妹とともに中国で布教していたが、オリンピックで優勝することは神を讃えることに等しいと考え、妹とは気まずくなりつつも、オリンピックに出場した。そして優勝し、また妹と一緒に中国に行ったが、走ることの意味がハロルドとリデルとでは大きな開きがある。どちらも走ることを愛するのは同じでも、ハロルドは自分個人、あるいはもっと広げてもユダヤ人のためだが、リデルは神のためだ。そしてリデルは100メートル走をハロルドに譲るほどの優しさも持ち合わせている。本作の最後は1978年で、ハロルドの追悼ミサだ。本作は実在した彼が亡くなったので撮影出来たのだろう。ミサで流れる音楽は『エルサレム』という曲らしいが、その選曲はハロルドの出自と関係があろう。ミサ会場からふたりの老人が出て来る。ひとりはかつてハロルドと一緒に練習に励んだブロンドの貴族で、彼は「ハロルドは勝った」と言う。その一言でハロルドが金メダル獲得後、どのように人生をまっとうしたかがわかる。かつての学友と交際し続け、打ち解け合っていたのだろう。それに例の女優と結婚し、成功と言える人生であった。また、その言葉を発するのは貴族の家柄であり、いわばイギリスを代表している。そのため、その言葉は、イギリスはユダヤなど、血で人を差別しない高貴さを持ち合わせているということを示すのに役立つ。リデルのその後はどうか。ミサ会場からふたりの老人が話し合いながら出て来る場面に、ハロルドとリデルのオリンピック以降の人生が簡単に字幕となって流れる。ハロルドは大学に残ってランナーを育てる役となり、リデルは若くして中国で殺された。布教の場所で死んだリデルが憐れかと言えば、神に捧げた人生であったので、それも満足すべきだ。映画の冒頭と最後は同じ映像で、ヴァンゲリスのタイトル音楽が流れる中、学生たちは練習で海辺を走る。ケンブリッジ大学という、選ばれた学生たちが学ぶところでは、本作に描かれるような高貴さがあるということだろうか。リデルは学生ではなく、宣教師であったから、そうとも言えない。学生の間に夢を持ち、全力で走らねば、人生に勝つことはないということを教えていると読み解くのもよい。それが無理なら神に命を捧げる生き方をするか。そうしていると思っているのが、今のイスラム国で、本作をNHKが放送したのは、そういうところを考えてのことかもしれない。
by uuuzen | 2015-02-19 23:59 | ●その他の映画など
●健気な冬薔薇 >> << ●松尾駅の駐輪場、その19

時々ドキドキよき予告

S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28
以前の記事/カテゴリー/リンク
記事ランキング
画像一覧
ブログジャンル
ブログパーツ
最新のコメント
言ったでしょう?母親の面..
by インカの道 at 16:43
最新のトラックバック
http://venus..
from http://venusha..
ファン
ブログトップ
 
  UUUZEN ― FLOGGING BLOGGING GO-GOING  ? Copyright 2023 Kohjitsu Ohyama. All Rights Reserved.
  👽💬💌?🏼🌞💞🌜ーーーーー💩😍😡🤣🤪😱🤮 💔??🌋🏳🆘😈 👻🕷👴?💉🛌💐 🕵🔪🔫🔥📿🙏?