崇拝の「崇」と祟り神の「祟」はどちらもあまり使わない漢字で、同じと思っている人が多いだろう。筆者も長年その口であったが、崇拝する対象が祟りをもたらすのはおかしなことだ。
それはさておき、今朝のネット・ニュースで宮崎駿がラジオ番組で発言したことを知った。他国の人たちが崇拝している神を、よその国の者が風刺するのはいかがなものかとの意見で、それに続く表現に大笑いした。風刺の対象は政治家だろうというのだ。まさにそのとおりで、ザッパが生涯政治家をおちょくったことを思い出した。それとは別の話題として、昨日のTVの芸能ニュースで、ジュリーが近年ステージで政治的な発言をよくしているとあった。そのことは最近のネット・ニュースで知っていたが、長年のファンに対し、ジュリーが自分の話が聞けないなら帰れと怒鳴ったそうだ。ジュリーのような年齢になると、誰でもいっぱしの政治談議が出来る用意がある。床屋談義という言葉があるが、それと同じで、ジュリーが今の政治に文句があって、それをステージで長々と述べるのは、それだけ老けたということだろう。それはそれでまともな姿で筆者はいいと思うが、またザッパと比較すると、ザッパは長年のファンを大事にした。ジュリーはどこへコンサートに行っても最前列に同じ顔が占めることに嫌気が差しているらしいが、それは若い頃の自分をファンが懐かしがって、現在の自分の等身大の姿を見てくれないからだろう。どちらの思いもわかるが、政治談議を嫌がられるとすれば、それは若い頃からしていなかったからだ。つまり、ザッパのように、デビュー頃から政治的であればよかった。一本筋が通っているという表現があるが、ザッパはそうであった。ジュリーがどうであるかと言えば、現在のステージでも政治談議をタイガースの頃にやっていれば、つくファンが違ったはずで、現在のジュリーは固定ファンに対して「帰れ」などとは発言しなかっただろう。では現在のジュリーの政治的な態度は眉唾ものかと言えば、それは筆者にはわからない。日本の若きアイドルが政治的発言をして人気を得るなどということは、まずあり得ない。第一、レコード会社や放送局が無視する。日本には言論の自由がないのだ。では現在のジュリーは果敢にそのことに対して自分のステージで不満をぶつけているのだろうか。たぶんそうだと思うが、若い頃からザッパの音楽を聴いて来た筆者からすれば、ジュリーがもっと若い頃から現在のような政治的発言をしてほしかった。それが望みうすなところが、日本の限界でもあり、また別の見方をすれば平和ということだ。強いて現在の政治に不満な発言をしなくても、誰もが腹いっぱい食べることは出来る。そう言う飽食の国では国民は文句をあまり言わない。ところが、日本が戦争に巻き込まれるなど、不満が増大すればどうだろう。他国のように暴動は怒らず、牙も骨も抜かれた国民は内心しぶしぶでも政府の言うことにしたがうのではないか。そういう国であってはならじと、幸徳秋水らが明治政府のやり方に異を唱えたが、獄中死の憂き目に遭っている。その頃と現在の日本がどう変わったかと言えば、筆者はほとんど変わっていないように思う。
宮武外骨は明治天皇を骸骨の姿に描いて逮捕され、獄入りした。不敬罪だ。今もそれはあるのではないだろうか。明治時代は天皇が神であったが、今もそう思っている人は半分はいるだろう。それで、天皇を風刺するなど、日本では絶対にあってはならないことで、その暗黙の了解のうちに、誰も天皇について込み入った話はしない。ジュリーにしても皮肉るのは政治家であるはずで、それは正しい姿であり、またそれならいくらやってもらってもいいという気分が日本にもある。数か月前、日本の若い女性タレントが、天皇はお飾りといったような発言をして物議を醸した。不敬罪で逮捕された人がいたことを知らなかったか、あるいは知ってそうしたのか、とにかくすぐに彼女の話題は消え、やはり天皇はタブーであると納得した。天皇は外国からどう思われているかと言えば、わかりやすく言えば王様だ。王様は神様より地位が低いから、日本としては王様ではないと抗議したいはずで、実際右翼は天皇は王とは全く違うと言っている。では神とすれば、ムハマンドのように外国人から風刺されることもあるだろう。そういう時、日本は抗議し、また場合によってはその国の人間を捉えて首を斬るか。そのようにいきり立つ右翼もいるだろう。何が言いたいかと言えば、どの国でも崇める対象、神があるから、その実情を知らないのに、尻馬に乗ったような軽はずみは風刺はするなということだ。今朝宮崎駿の意見を読んだからそう言うのではない。筆者はイスラム国が日本のジャーナリストの首を斬った時からそうブログに書いた。それはともかく、天皇の存在によって日本が独特の国であるのは、筆者のような年齢になると、あれこれと考える。ジュリーの政治談議と同じだ。老いると経験の蓄積があるうえ、さびしさも手伝って、身辺の細々としたことよりも、政治という大きなものと考えていることに意見を差し挟みたくなるのだ。だが、天皇は政治問題とは言えないし、また政治と絡めるのはよくない。筆者は天皇について考えることはほとんどないが、前述したように、不敬なことを発言すれば獄中に放り込まれるという漠然とした恐怖もあって、話題にしないようにしている。そう言えば、今まで天皇についてあれこれと意見した人物には出会ったことがない。それは天皇は空気のような存在で、心を煩わせられないという利用もあるのではないか。とすれば、天皇の存在は日本の平和の基礎を担っているということも言える。誰もが触らぬ神に祟りなしという思いで天皇を見つめているとすれば、それはそれで日本の神としてきわめてよく機能し、平和が保たれる。王様がいなくなった韓国は、誰でも国を代表する人物になれる可能性がある。日本でも誰でも総理大臣になり得るが、天皇には絶対になれない。そこの違いが、日韓でどのようにここ100年の間に起こって来たかと言えば、現在の両国を比較すればよい。どっちの国がいいかは一概に言えないとしても、韓国では天皇がいない分、恐れる存在をほかに求めてキリスト教や仏教があるが、その一方で、誰でも国の代表者になれるという、その競争への思いが、教育への超過熱、政治家の汚職といった負の面につながり、国のまとまりがつきにくい気がする。つまり、大統領も政治家であり、反対者は「うまいことして成り上がった」と思うであろうし、誰もが足の引っ張り合いをしかねない。そこに誰もが絶対になれない天皇がいれば、国民の限りない欲に抑制が効くのではないか。日本も貧富の差が増大しているそうだが、中国のようには国民は欲に限りがないということはないように思う。それは国土が狭く、大きな城のような家に住むことは出来ないからでもあるし、また国土が狭ければ、傍に気を使う必要があり、国民は団栗の背比べのようになりやすい。和を以って尊しとなすの聖徳太子はそのことをわかっていた。狭い国土であるから、みんなが和の思いを持たねば、人々はとんでもなく荒んでしまう。そこをわかっていて、日本は天皇を大事にし、まとまろうとして来たのだろう。その一方でたとえば鎖国が続くと、狭い国土で血は淀んで行くから、動物として常に若返るには多民族の血を混ぜる必要も知っていて、それが戦後の欧米崇拝の源になっていると考えることも出来る。だが、多少は欧米あるいはさらに別の民族の血を混ぜるのはいいが、混ぜ過ぎてブラジルのように、元の民族がわからなくなってしまうという道を日本は断固拒否している。それは、恐れがあるからだ。今まで和を作って来られたが、それが分裂してしまうのではないかとの恐怖だ。
えらく前置きが長くなっているが、今日取り上げる展覧会の話をするのに必要と思うからだ。キティのキャラクターは生誕40周年で、それを記念しての本展であった。梅田阪急で1月下旬に見たが、ぜひとも見たかったのではなく、梅田に出たついでだ。以前に書いたことがあるが、筆者は息子が2,3歳の頃、京都高島屋の家具売り場で見かけたキティの形をしたテーブル・ランプをかわいいと思って、何度か通ってついに買った。30年近く前のことで、当時5000円ほどであった。それを家に飾るのではなく、妹の息子たちにプレゼントした。男子であるから喜ばないことはわかっているのに、そういうかわいい置物が部屋にあれば、兄弟が優しい気持ちになって仲よくすると思ったのだ。だが、予想に反し、そのランプはやがてサッカー・ボールのように扱われ、ゴミと化した。それはさておき、今から四半世紀もっと前に、筆者はキティのキャラクターをかわいいと思ったが、ランプを買ってからはその魅力から解放された。当時からキティは人気があったが、現在のような世界的なものではなかった。それに、当時筆者のような大人の男性がかわいく思って、それなりに高い商品を買うなどということは、たぶんとても珍しかった。キティグッズは商売の手法がうまく行って、現在の空前のブームを作り上げ、それで本展のような回顧展が大手の百貨店で有料で開催される。キティの顔はデザインとしては平凡だろう。あまりに単純で、個性と言えるものがほとんどない。だが、そのことが個性で、またそれが世界的に認められたのは、日本文化の成熟のお蔭だ。キティの顔は、猫にあるまじき無抵抗の表情だ。「わたしはいつも服従します」という表情で、よく言えば赤ん坊の本能、悪く言えば赤ん坊らしさを装えば相手から絶対にかわいがられるという計算だ。これは同じことを意味しているとも言える。どんな動物でも赤ちゃんはかわいい。それはかわいさをまとうことで、攻撃されにくいことを本能が知っているからと考えることも出来る。それはさておき、キティ以降、似たような表情のキャラクターは続出している。「ゆるキャラ」ブームを見てもそれはわかる。そうしたキャラクターはすべて「かわいい」という、国際語になった表現で形容することが出来るが、「かわいい」すなわち「無抵抗」で「平和」と連想が働き、戦後の平和な日本が「かわいい」文化を生んだのは当然だ。「無抵抗」は戦後兵力を持たない国になったことから説明出来るが、それよりも天皇と関係がある。戦後の天皇は象徴になった。誰にも害を加えない平和な象徴で、「無抵抗」の言葉がよく似合っている。「王様」は武力で権力を獲得した存在で、頭の上には剣がぶら下がっていて、いつ誰かと交代するかわからないという恐怖を抱えている。だが日本は天皇はどんな武士でも一目置いた。したがって、天皇が政治と関係しない限り、日本では内乱は生じないはずで、外敵が襲って来ない限りは平和が保たれる。もちろんそれは表向きであって、人々はそれなりに不満を抱えて行くが、それは天皇に向けられることはない。的にされるのは政治家で、宮崎駿はそのことを言った。
キティは顔や体など、基本は40年前と変わらない。それを流行に後れないようにするには、あるいは流行を先取りするには、毎年ヴァリエーションを生み出すことだ。ぱっと見は変わらぬキティだが、どこか新しいと思わせるデザインを常に考え続ける。これはこれでとても大変なことで、それをサンリオは40年もし続けて来た。40年前と現在とでは会社の規模に格段の差があるから、世界で支持される新デザインを編み出すことはさほど難しくないだろう。話は変わるが、最近マクドナルドの人気が衰え始めている。会社の慢心が理由か。それもあるだろうが、時代の大きな変わり目にうまく対処出来なくなっているからだろう。どんな大きな知名度を誇る存在も、いわば生き物であるから、成長期も衰退期もある。キティは今はどこにあるか。キティに代わる人気キャラクターが登場すればそれまでで、そんな時代は絶対に訪れる。そうなった時、「よくぞ今まで人気があったな」と人々は思うかもしれない。落ち目になった存在に対して人は冷たい。それで老人はますます孤独になり、饒舌にもなって政治談議を長々とやる。ジュリーがステージでファンに怒鳴ったことは、無抵抗や和を保つこととは開きがあるが、本当に権力に物申したいのであれば、タイガースの頃から政治的発言をしているべきであった。それがそうでなかったのは、日本が平和で、「かわいい」文化を熱心に培っていたからで、そのためにもタイガースの人気があった。禅寺の節分祭でも「ゆるキャラ」を登場させる時代で、老いたジュリーも政治に熱を上げるより、ステージで自分をキャラクター化した着ぐるみに入って歌うサービスをする方がよい。これはジュリーを茶化しているのではなく、本気だ。筆者も自分になぞらえたキャラクターを作り上げ、その人形をこのブログに登場させて来たし、今もこの画面の最上部からひとつ下の黒字の横長タイトル・バナーに描いている。さて、少しは本展の感想を書かねばならない。そうそう、会場で質問が3つあり、それに全部正解すると、別の階でステッカーがもらえた。キティの血液型や生まれた場所、それともう1問で、家内が答えを全部知っていた。それで2枚ステッカーをもらったが、それがどこにあるか今は探せない。その写真を今日載せるつもりであったの、少し惜しい。会場で最も印象に残ったのは、キティを生んだデザイナーの女性が描いたキティを描いた油彩画だ。それが2,30点はあったと思う。どれも100号はあって、現代美術作品に見えた。大きな立体作品もあって、草間弥生を思い出したが、作者はそれを意識しているだろう。というのは、100年、200年後に作品を見てもらうことを思って製作していると説明に書いてあったからで、かなりの自信だ。それは、キティが忘れ去られても、絵や彫刻として見応えがあるものを作ろうという意欲ゆえで、もっと言い換えれば、「かわいい」日本文化の代表格を目指すという意気だ。すぐ近くにキティ・グッズがたくさん展示されていたので、それらの「アート」は全体に安っぽく見えたが、天井の高い、展示面積が大きい国立国際美術館に飾れば、美術通も唸るかもしれない。また、100年後にはそのような評価を受けているかもしれない。これも茶化しているのではなく、本気だ。キティ崇拝者の祟りが恐いから言うのではない。