扇風機の古い小型の鉄製のものは今でも使っている人があると思うが、伯母の家にもあって、10年ほど前まで使っているのを見たことがある。その後どうなったかと思うが、あの扇風機は東京オリンピック前のものであったと思う。
半世紀以上も使用に耐えるのでは家電メーカーは商売上がったりだが、その後に造られた扇風機は長時間回しっ放しにしていて火を吹く事件が近年よく起こり、使えるからと言ってもかなりの危険を伴うことが喧伝されている。扇風機は今は3000円程度でも新品が買えるので、あまりに古いものを使うこともないが、高齢になると、新品を買うのが面倒で、ついそのまま家にあるものを使い続ける。筆者はもうとっくにそういう状態になっている。そう言えば、今月15日でわが家が加入しているケーブルTVは「デジアナ変換放送」が終了し、アナログTVでは番組を見られなくなる。2階の寝室には14型のブラウン管のテレビデオがあって、家内は目覚めの時に時刻確認のためにそのスイッチを入れる。その程度しか見ないので、パネル型の液晶TVに買い変えることもないかと思っていた。ところが、映らなくなるのであれば対処しなければならない。15日になってから慌てると家内がうるさいので、2週間ほど前からどうしようかと考え始めた。液晶画面の小さなものを買ってもいいが、アナログTVはまだまだ新しい方で、数年程度は使用出来るだろう。それで世の中が地上デジタル放送に一斉に切り替わった時にホームセンターで山積みされていた地デジ・チューナーを買うことにした。それならば液晶TVの10分の1程度の出費で済む。早速1台入手し、小1時間ほど悪戦苦闘してまともに地デジ放送が見られるように設定を終えたが、驚いたことに、画面が以前のデジアナ放送より格段によい。以前は画質が粗く、文字は滲んでほとんど見えなかった。それが新品のTVのように、何もかもがくっきりで、そのように鮮明な画面になることがわかっていたならば、地デジ放送に切り替わった数年前にそのチューナーを買っておけばよかった。デジアナ放送でもどうにか地デジ放送が見られるとケチな根性を出していたため、せっかくの高画質を数年もの間、楽しむことが出来るとは知らなかった。どうせ地デジ・チューナーが必要なら、さっさと買っておけばよかったのだ。先の扇風機でも同じことが言えるだろう。古いものでもまだ使えると思っている老人は、扇風機をかけて眠っている間に焼死する確率が高い。電化製品は寿命が来る前に買い替えるのがよいということだ。ガス器具もそうで、新品に替えると、少しは気持ちも若返る気分になれるだろう。さて、今日取り上げる映画を一昨日見た。衛星放送でしていたものを家内が録画した。溝口健二の作品ということで興味を持ったのだ。主演は木暮実千代と若尾文子で、後者は18歳であったが、1953年の本作では16歳の舞妓を演じる。液晶TVの横長画面で見ると、どうも若尾文子がずんぐりとした体つきで、若いせいかと思っていたが、封切り当時の画面の縦横比ではないことに気づき、画面のサイズをノーマルに設定してもう一度見た。すると、若尾の体もすっきりとして、違和感がなくなったが、昔の映画は前述の筆者のアナログのTVと同じで、正方形に近い画面で、それはそれで別に不自由を感じなかったことを思う。それはさておき、1953年は筆者が2歳で、その頃すでにたまに親に連れられて京都に出かけていたが、当然記憶がない。それに、本作の舞台となる祇園の街には行ってないので、当時小中学生であっても、本作に映るあちこちの場所が懐かしくは感じない。にもかかわらず、明らかに筆者がまだ1,2歳頃の世界であると感じるから、不思議なもので、また映画での記録は貴重な文化遺産と思う。封切り当時では誰もそのようなことを思わなかった。それが年々映画の中の世界が現在から遠のくため、監督や俳優が予想しなかった価値を獲得して行く。
本作で言えば、それはたとえば最初に書いた扇風機だ。確か別々の場所で2台が映ったが、それは伯母の家にあった黒の小型とは違い、白かベージュの、しかも形が違って、もっと高価に見える。文字ではどのような形か伝えることが出来ないが、回転する羽の下に直方体の箱のような土台がある。その形は筆者は初めて見る。ということは、筆者が小中学生になる前に、製造されなくなったのだろう。つまり、当時から電化製品の寿命は今と同じく、6,7年であったのではないか。本作の物語とはほとんど何の関係もないことに固執しているようだが、古い映画では衣装や小道具、風景を見ることが楽しい。それらは今ではもう見ることが出来ない。特に言えるのは街並みだ。祇園はまだ古いままに残されているが、それでも本作に登場するのと同じ場所に立つと、その変わり様に驚くだろう。祇園のほかに西陣が少し映った。家並みの背後にとても高い木が鬱蒼と生い茂り、どこかの寺の境内なのだろうが、家の前が地道で、それも今の西陣ではあり得ない。それに背景の木立も今はもっと少なくなっているかもしれない。面白かったのは木暮が演じる美代春という芸妓の住まいだ。その台所が映る場面がある。竈の上の棚には黒光りした伏見人形の布袋像が小さなものから順に大きなものへと7体並べられていた。その左手の通路間口上の壁には太秦の牛祭りで有名な紙の仮面が2種並んで架けられ、京都の古い風習が当時の祇園にはまだ残っていたことを示す。今では布袋像も牛祭りの仮面も飾る家はほとんどないだろう。竈がなくなったからだ。あれこれ思い出しては書くが、若尾が演じる美代栄が家の庭にあるヤツデに如雨露で水をやる場面がある。ヤツデは今ではあまり見かけないが、半世紀前は大阪でもどこにでもあった。筆者が最初に覚えた植物は母に名前を訊ねて教えてもらったヤツデだ。きれいな花が咲かない、いわば観葉植物だが、丈夫なのでどこにでもよく植えられた。そのヤツデを見ても、本作が古いとわかる。だが、今とあまり変わらないものもあるだろう。それは舞妓の美代栄が着るキモノや帯だ。それらにもそれなりの流行はあるだろうが、本作の中で踊りや生け花、三味線を指導する女の先生が言っていたように、当時でも舞妓はもはや京都の貴重な文化遺産で、それをどうにかして守り抜こうという思いが関係者にはあった。今は地方から舞妓になりたいという若い女性が集まるそうだが、本作ではまだ京都で賄うことが出来たようだ。そして、今の地方の若い女性が舞妓に憧れるのとは違って、本作では舞妓や芸妓の立場は、金に縛られた悲しい存在で、売春婦とさして変わらない見方がなされていたことがわかる。溝口健二は世間で虐げられる女性に同情し、そうした人物を主役にした映画をよく撮った。田中絹代がたいていは主演を務めたが、本作ではもっと色気のある女優の新旧世代が必要と考えたようで、木暮と若尾が抜擢された。このふたりは新旧世代を代表し、1953年が「戦後」のドライな時代であったことをほのめかす。
若尾は二号さんの子で、母はかつて祇園の芸妓でしかも美代春の姉さん格であった。木暮の世代はまだ義理人情に厚く、母を失い、また没落した父のもとにはいられない美代栄が舞妓になりたいと言って転がり込んで来たのを受け入れる。美代栄の父はメリヤスを扱う大きな仕事をしていて、祇園の茶屋遊びで美代栄の母と親しくなった。ところが、商売に失敗し、また病気を患ってからは、美代栄の面倒を見ることが出来ず、美代春が美代栄を舞妓として家に住まわせて育てるのに保証人になってほしいと頼むと、自分にはもうそのような力がないので、好きにしてくれと答える。それで美代栄は暑い夏から丸1年、舞妓としての修業を積む。そしていよいよ舞妓デビューの段になり、お茶屋の女将に相談に行く。女将は浪花千栄子で、もうそれだけでどういう人物を演じるかがわかるが、想像どおり、金の力の前には芸妓や舞妓は屈するしかないという現実をほのめかし、また諭し続ける。美代栄が舞妓になって客からお呼びがかかるには、まず衣装だ。それが最低でも30万ほど必要だ。今で言えば300万かもっと上だろう。舞妓のキモノは当然手描き友禅であるし、また帯は西陣製で、しかも髪を整え、また簪やこっぽりなどを買うとなると、当時の30万は納得出来る金額だ。それに、金持ちの客でなくても、金がかかった豪華な衣装かそうでないかはわかる。それは舞妓がたくさん居並ぶからで、ひとりだけ粗末なものを着ていると、浮き上がってしまう。衣装にはそういうところがあるのは誰でも知っている。大物政治家がいかにも生地がよく、仕立ても一級のものを着ていることはTVからでも明らかで、大学の非常勤講師の吊りスーツとは雲泥の差がある。男でもそうであるから、衣装できれいに見せる舞妓ではまず何よりも金をかけたキモノや帯が必要だ。美代春は女将に金を借りて美代栄の舞妓姿を整える。そして茶屋に呼ばれるが、すぐに目をつける男がいた。ある会社の専務で、お茶屋を接待場所に使っている。それは現在も同じだろうが、本作当時に比べると祇園は社用族が減り、そのために一見の客にも利用してもらおうとあの手この手を尽くしている。専務は何歳くらいだろう。40半ばといったところか。彼は美代栄に好感を抱き、機会あらば物にしようと考える。もちろんそれは女将に美代栄に旦那がまだいないことを確認してのことだ。ある夜、専務は仕事の関係で役人をひとり連れて茶屋にやって来る。その時、その役人は美代春に一目惚れする。専務にすれば役人に美代春を一晩あてがえば、2億円もの大きな仕事が受注出来ると踏み、その機会を設ける。それは美代春と美代栄を東京に呼ぶことだ。寝台列車で東京に向かうふたりだが、借金のために東京に行く美代栄の父が同じ列車に乗っていて、美代春のもとへあいさつにやって来る。父は金策がうまく行かねば、首をくくるしかないとの覚悟だが、その後描かれるのは、金の工面が出来ず、美代春に泣きついて来る場面だ。心優しい美代春は、商売道具の装身具をかき集めて手わたす。かつては祇園で豪勢に遊んだ商売人が今では芸妓に無心に来る。祇園はそういう人生の浮き沈みが繰り広げられる場所で、そのことを女将が美代春に言う場面がある。祇園通いで出世する者もあれば零落する者もある。だがそれは芸妓も同じであろう。いい旦那に囲われると、金の苦労をせずに済むが、そうでなければいつかは用済みとなる。16歳で舞妓になる世界であるから、女の賞味期限は短い。16であってもさっさといい旦那を見つけるべきと考えるのが女将だ。だが、美代春はまだ初な美代栄を中年の男の自由にさせたくないと思っている。
東京に呼ばれたふたりだが、専務は美代春に対して、隣りの部屋にいる役人と一晩を明かしてほしいと頼み込む。そういうことならば東京には来なかったと考える美代春で、役人の前でキモノを脱ごうとしない。一方、ひとりになった美代栄の前に専務は戻り、手込めにしようとする。その豹変ぶりに驚いた美代栄は美代春を呼ぶ。その叫び声に美代栄のもとに行くと、専務はもがき苦しんでいて、放心した美代春の口元は血糊でべっとりしている。男の舌を噛み切ったのだ。入院する専務の元へ女将が謝罪に行き、また美代春と美代栄に仕事が回らないように画策する。たちまち収入の道を閉ざされたふたりで、もはや芸妓商売をやめようかというところまで行く。1か月か、退院した専務は女将に相談に行く。どうしても役人は美代春をものにしたいと言っているので、最後の機会として、もう一度美代春を説得してほしい。何しろ2億の受注が出来るかどうかの瀬戸際で、それが無理なら会社は倒産する。専務は必死だ。それに舞妓に怪我を負わせられたとの評判が立つとまずいので、美代栄のしたことには目をつむる。話を聞いた女将は美代春のもとに行き、彼女を説得する。今度はもう逃れられない。ようやく役人は美代春と床に入ることが出来、そして美代栄は以前のようにお茶屋に頻繁に呼ばれるようになる。金が入った美代春は、お手伝いさんに手土産、美代栄には夏帯などを買って来る。美代栄はどのようにしてその金が得られたこを察知している。そして舞妓をやめたいと言うが、美代春はそれが不可能なことを諭し、ふたりで祇園祭りの宵山を見に行く。「アプレ」と呼ばれる美代栄だが、美代春が身を挺して丸く事を収めたことを理解したのだ。美代春は好きでない男と寝ることをそれまで拒否して来た。それが美代栄の衣装代やまた美代栄の父の困窮ぶりの前には考えを変えねばならないことを女将にきつく言われる。そこにも美代春と美代栄との間にある世代の差が見られるだろう。「アプレ・ゲール」(戦後)というフランス語は当時流行ったが、いつの時代でも年配者は若者をつかまえて、情がないとか、考えがわからないとか言っている。その普遍的な関係も本作には描かれている。話を戻して、好きでない男とは寝ないなどと言う美代春に対して女将は、それは金を持っている芸妓の言葉で、30万円さえ返せないでは男を選ぶ資格がないと言う。いかにも浪花千栄子らしいが、それまで嫌というほど金の力を見て来た女将の本音だ。舞妓になり立ての頃の美代栄は、同世代の舞妓から困り事を打ち明けられる場面がある。それは早くも旦那が出来たが、62歳の爺さんで、それが嫌だというものだ。16歳程度で62歳はまさに爺だが、祇園ではそういう関係もあったのだろう。今もあるかもしれない。専務もその部類で、若い女性に目がない。だが、役人は「ぼくは年増が好きでね」と女の好みを口にし、美代春にねっとりした眼差しを送る。本作当時木暮が何歳であったかを今調べると、35歳だ。終始キモノ姿なので、もう少し上のように見えるが、役人が40歳くらいであるから、いくら年増がいいと言っても30代半ばまでだろう。役人の声ひとつで2億、今で言えば20億ほどの仕事が転がり込むのであるから、会社経営者は祇園の茶屋を利用し、女を用意して儲けようということだ。今なら高級クラブだろうが、そこでの男女の関係は変わらない。本作は60年前の今はないさまざまな物を見せてくれるが、女の性が男の社会の中で利用されることには普遍性があると言いたいのだろう。だが、芸妓や舞妓は芸を身につけるし、それは日本の誇るべき文化のひとつでもあって、同じように酒と色を提供するクラブとは格が違うかもしれない。本作を高級クラブを舞台にして描くと、味も素っ気もないものになったであろう。若尾の舞妓姿は美しかった。だらり帯がまともに見える後ろ姿も実に洗練されていて、キモノの美を再確認する。それにしても、7月の真夏は60年前はどうであったのか。舞妓姿では汗まみれになると思うが、小さな扇風機があるだけで、誰ひとりとして汗を拭うことはなかった。