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●『大古事記展』
読を誰がどのようにしたのか、論文の内容がきわめて杜撰であることがわかって、STAP細胞はなかったものとされ、論文発表者に責任を取らせることになったが、今後も似たことは起こるかもしれない。



●『大古事記展』_d0053294_133654.jpgSTAP問題が出た時、筆者の大嫌いな評論家は、日本を妬む外国の陰謀で、STAP細胞の利益を横取りし、数兆円もの金を得るとTVで発言した。被害妄想が著しいその評論家は大阪の恥だと思うが、TVに出てなんぼのタレント同然なので、そのような想像を絶する意見を言うことも一種の創造で、また人を楽しませていると本人は思っているのかもしれない。本人はそのようなことを発言したことを忘れているかもしれないが、それならばさらに無責任で、道が違えば「STAPはあります」と言った研究者になっていたかもしれない。STAP問題が出た時、筆者はその研究者が逮捕されないのかとこのブログに書いた。そうならないのであれば、科学者は気楽な商売だ。STAP論文が疑問視されなかったのは、査読する人が門外漢であったのか、程度が低かったのか、あるいは外部に漏れることを恐れて誰かに読ませなかったのか、あまりにおそまつな話だ。世の中には常に何かについて研究し、考えを公表する人がいる。先の評論家のように、口からでまかせで金を儲ける連中はまともな文章が書けず、したがって誰もそれを査読する必要がない。言論の自由ということだ。だが、国費を使って研究するのであれば、念には念を入れて論文を世界に向けて発表せねばならない。ところが、大学教授でもネットから適当に文章を集め、つきはぎして論文の体裁となしたものを発表する時代で、査読は死語同然になっているかもしれない。さて、今日はあまり気が進まないが、去年12月中旬に奈良県立美術館で見た展覧会について書く。副題は「語り継ぐココロとコトバ 五感で味わう、愛と創造の物語」で、いかにも古事記をわかりやく、若者にも知ってもらいたいという思いが見える。本展は天皇皇后両陛下の御来館を得て、そのことが奈良では知れわたったようで、筆者が訪れた日は、この美術館としては超満員であった。また、後日TVで館長が出ていたが、この美術館に来館者が増えるような展覧会を今後は意欲的に開催するといった話で、それはそれでとてもいいことだが、何となく右寄りの姿勢が見えるようで、その点は関心しなかった。美術館の宣伝として天皇皇后両陛下を迎えることは、超一級で、それは館長の手柄なのだろう。この美術館はかなり古びていて、館内を一巡された天皇皇后両陛下が同じことを実感したのではないかと想像すると、もうそろそろ建て替えてもいいのではないかと、よけいなことを思う。本展を開くのはこの奈良の美術館以外にはあり得ない。奈良国立博物館でもよかったと思うが、それが無理であった理由は何かとまたよけいな詮索をしたくなる。副題にあるように、内容は若者でも興味が持てるものを目指している。つまり、国立博物館では無理な展示作品を並べることが出来る。その利点を優先したのだろう。その作品とは、コンピュータを使った映像作品で、子どもが遊びで参加出来るゲーム型だ。最近はそうした作品ばかりを集めて夏休みなど、子どもが出かけやすい時期に展覧会を開催することが流行っている。本展はそれを少し拝借して観客動員を増やそうと考えられた。だが、1階にあったその展示も天皇皇后両陛下がご覧になられた姿を想像すると、多少顔が赤らむ気がする。エグザイルとかいう男性グループが両陛下の前で歌う時代なので、筆者の考えは古いだろうが、本展のそのコンピュータを使った作品は筆者はよさがわからなかった。両陛下も同じではなかったか。
 古事記と言えば、乞食を思い出すと言えば、小学生レベルだが、上田秋成もそう言った。本展は当然本居宣長の古事記研究をそれなりに詳しく紹介した。そして秋成との論争については説明がなかったが、その点は物足りなかった。秋成は宣長の研究に歯が立たなかったとされているようだが、宣長の考えに反論するのは、論文の査読の態度と言え、宣長にしても、秋成のような考えを持った人物がいたことは研究を客観視するにはつごうがよかったと思うが、実際は秋成にすれば取り着く島がなく、その挙句に弟子を日本中に大勢抱えて授業料を徴っていた宣長を、古事記になぞらえて乞食呼ばわりする。宣長が世わたり上手で、秋成は人に何かを教えて金をもらうことが出来ないタイプだが、筆者は秋成が大阪人であることもあって、秋成の悔しさに全く同情する。前にも書いたが、最晩年に宣長研究をした小林秀雄は著作を吉田秀和に贈ったところ、吉田はさっぱり理解出来ないと書いた。西洋人の奥さんを持ち、またヨーロッパのクラシック音楽を研究した吉田には古事記などどうでもよかったかと言えば、そうではないだろう。宣長に酔ったような小林の姿が嫌であったのだと思う。古事記は和銅5年(712)に献上され、平成24年(2012)で1300年を迎えた。そのために本展が企画された。全国的に古事記ブームが起こっていると、会場でもらった目録の解説には書いてあるが、筆者はそのことを初めて知った。それから引くと、「『古事記』は一部の人の興味の対象という位置づけで時は移り、ようやくその価値が認められるのは、江戸時代後半の国学者・本居宣長の研究によってでした。近代に入り、第二次世界大戦中になされた読まれ方の反動で、戦後はあまり顧みられなくなってしまっていた『古事記』ですが、昨今の「古事記ブーム」では『古事記』が本来もつ豊かさにスポットが当てられ、多くの人の関心を集めることになりました」とあって、古事記が国粋主義に果たした役割がほのめかされる。秋成が宣長に質問したことに中に、日本という小さな島国の神(天皇)がなぜ全人類のそれに当たるのかというものがあったが、宣長はそういう質問をすること自体、もはや日本人とは言えないといったようなことを伝えた。これは、問答無用であり、お前は馬鹿だという答えだが、そう返されれば、秋成が怒るのはもっともだろう。当時は地球儀によって、日本が世界のどこにあってどれくらいの大きさかもわかっていたが、秋成は大坂人らしく、視野を広げ、合理的に物事を考えた。ま、その一方で秋成は天皇のいる日本をありがたいと思っていたし、また幻想文学を書いていたから、宣長が右翼で秋成が左翼といった見方は出来ないが、秋成にすれば、古事記に書かれることは神話であって、それをどのように読み解いても、そこから出て来るのは曖昧なことでしかないと思っていたのではないか。筆者は今後も古事記や宣長の著作を読むことはないが、神話を精緻に読み解いても、結局は想像に終わると思っている。聖書に書かれていることがすべて現実にあったことで、その各出来事の場所を探す研究が今も行なわれているはずだが、それは聖書が意図する内容とはほとんど関係のないことで、また、詳しく知ろうとすればするほどに、辻褄の合わないことに遭遇し、それを合理的に解こうと、とんでもない飛躍した想像を持ち出すことがあるだろう。宣長の古事記の読み解きにもそのようなことが混じっていると筆者は思っている。だが、そういう「トンデモ本」的な解読はいつの時代でも心酔する人が大勢いる。ましてや日本が世界のどこにもない、ありがたい神の国であると言われると、それだけで勇気をもらったと思う人は多い。秋成は宣長を新興宗教の教祖のように見ていたのではないか。秋成はそういう人物を嫌ったが、時代は宣長の考えを持ち上げる方向に進んだ。明治になって列強に伍する思いに駆られていた日本は、神の国であるから戦争に負けるはずがないといった考えを国民に植えつけ、その挙句にどうなったか誰でも知っている。だが、古事記1300年の節目とは関係なく、戦前と同じ考えを持つ人はいるし、むしろ増えているだろう。つまり、宣長は日本という国がある限り永遠だ。秋成がそういう立場を自分で作った宣長を卑怯な乞食と思ったとして、宣長が愛国者で秋成が非国民とは全く言えない。今でも日本の政治その他に対して、国側に立たない意見は売国奴とよく叩かれる。だが、どんな意見に対しても、それを査読するように、おかしいところを突く立場は必要だ。そうでなければ、「STAPはあります」を鵜呑みにし、反論には「他国の謀略だ」と口走ってしまう。
●『大古事記展』_d0053294_1322525.jpg 本展を取り上げる気になったのは、チケットに印刷される堂本印象の絵による。昨夜は堂本印象の名前を出した。そのつながりというのでもないが、チケットの絵が久しぶりに見られるかと思ったところ、展示されていなかった。展示替えのためだ。それはいいとして、この麗しい女性を描いた絵は「木華開耶媛」(このはなのさくやひめ)で、昭和4年(1929)に描かれた。当時はとてもいい時代であったと聞いたことがある。花咲く桜の木の下で長い黒髪の大柄な女性が何かを見ている。印象好みの女性顔なのだろう。現代的な顔をしている。古事記や日本書紀に登場する女神で、どのように描いてもいいから、画家は好みの美女をモデルにする。印象はハイカラな画風で、晩年は抽象絵画に手を染めたが、達者な技術を持ち、何でもどのようにでも描ける才能があった。こうした神話上の人物画は珍しいが、マリア像も描いていて、国学に強い関心があるのではなかった。先ほど本展の目録を探していると、印象美術館のチラシが重なっていた。そこに印刷されるのが「木華開耶媛」で、ついでなのでその部分図も載せておく。古事記に登場する神々を描いた日本画はたくさんある。そうした絵だけで展覧会が出来るほどだが、本展では第1章「古代の人々が紡いだ物語」にまとめられた。浮世絵から新しいところでは奈良生まれの絹谷幸二まで多彩で、初めて見る作品もあって筆者はこの章が最も楽しかった。目録を見て残念なのは、鈴木松年野「八岐大蛇退治図」がなかったことだ。百年松年の父子には多少関心がある。この章で最も多く作品が並べられたのは安田靫彦で、7点だが、筆者が訪れた時は4点のみであった。それでもこの画家の清らかな画風は堪能出来た。靫彦が描く神話の神像は堂本印象のようにモダンではなく、小林古径に似て、鋭くまた少ない線で穢れのない表情を作り、もうそのような絵を描く日本画家は生まれないと思う。菊池容斎、松本楓湖も1点ずつ展示されたが、前者は特に歴史画家として有名で、今後再評価されることがあるのだろうか。それを言えば松年もそうで、明治時代の国粋的な感じのする作は見ていてあまり気分がいいものではない。そこで思うのは、古事記に書かれる時代、人々がどのようか顔し、どのような物を食べて、どのような家に住んでいたかだ。それは日本画家としては誰しも関心があり、また描く際には突きつけられることだ。
 以前書いた大亦観風は万葉集に絵をつけたが、それは印象のハイカラでも、靫彦の居住まいを正したくなるような絵でもなく、おおらかで気取っていない。それもまた昭和時代の画家が考える記紀万葉の時代と言ってしまえばそれまでだが、厳めしく力強い、技術力を誇示したような容斎や松年の絵に比べて、見て寛げる。それはさておき、記紀に登場する神々を日本の画家はさまざまに描いて来て、神話はそれを読んだことのない人にも理解されるようになっている。そのことは一昨日取り上げた『うた・ものがたりのデザイン』展と同じで、本展は同展よりさらに古い「ものがたり」を扱ったものだ。さて、第2章は「古事記の1300年」で、前述した本居宣長の紹介や、古事記の写本、そして現代の出版物などが展示された。このコーナーの最初は「天皇」の文字が書かれた檜の木簡の複製で、本物は7世紀のものらしい。古事記の献上前のもので、遅くてもこの頃から天皇という言葉が使われるようになったことを示すのだろう。古事記は写本で伝わって来て、真福寺本と猪熊本があるようだが、前者の方が古いようで、本展に並べられたのは14世紀のものだ。それより古いものはないのだろうか。2種あることは、内容が多少違っているのだろうが、原本を何度も写して行く途中でそういうことが生じるのは仕方がない。第3章「古事記に登場するアイテムたち」は、「アイテム」という言葉からしてゲーム世代を意識している。神が使った勾玉や鏡、刀が今見ても格好いいと思わせるためであろう。小林秀雄は骨董に強い関心を抱きながら、最後は勾玉に集中した。そこにも古事記の世界に関心を抱いたことがわかるが、筆者も勾玉の造形は不思議でまた美しいと思う。動物の胎児の形をしていて、古代の人たちは胎児を見ていたのだろう。第4章「身近に今も息づく古事記」は、古事記に登場する大神神社や石上神宮、古事記の神を祀る春日大社に伝わる御神宝の展示で、出土した勾玉や七支刀、そして個人蔵の高千穂神楽の仮面など、国立博物館向きの内容であった。ついでながら、序章は平安時代や室町の木造彩色の神像6体で、終章はタイトルが「現代アート」となっていて、作者名のみ書かれている。第2章ではコンピュタ・グラフィックスの画面で世界の神々には共通点があることを紹介していたが、聖書やコーランのほかにインドの神も言及されていたであろうか。
by uuuzen | 2015-02-10 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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