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●『うた・ものがたりのデザイン』
葉達磨と呼べばいいのだろう。伏見人形に葦の葉に乗る達磨像がある。これを10年ほど前、伏偶舎を初めて訪れた後、今は亡き館長の奥村さんは、無名の人形職人も学があったと笑顔で説明してくれた。



●『うた・ものがたりのデザイン』_d0053294_1534187.jpg達磨は揚子江をわたるのに葦の葉に乗ったという伝説がある。その時の姿を人形で表現した原型を作った人物は、それなりの教養があったのだろう。今ではその人形を手に取っても、足の下にわずかに表現されるものが葦の葉だとわからない人が多いはずで、時代とともに求められる教養も変化する。今なら英語を話す人が教養人の代表者のように見られるが、英語を話すといってもそのレベルはさまざまで、教養の乏しい人では結局英語圏で出会う人も限られる。そこを忘れて日本は小学生から英語を学ばせることになったが、その分、ますます教養が身につかない可能性がある。だが、それでもいいのだろう。なぜなら時代とともに教養がどういうものを指すかは考えが変わるからだ。達磨が葦の葉に乗って川を越えたなどという知識を持っていても、何の役にも立たない。そのことは、伏見人形はもはや現代人の理解が及ばないものになりつつあることを意味する。そのことがさびしいかと言えば、そう思う人はごく少数派で、伏見人形がこの世から消えても全く困らない人の方がはるかに多い。教養という言葉自体が今はありがたがられず、毎日笑っておいしいものが食べられればそれで幸福と考える人が大部分だろう。大きな家に本が1冊も家にない、また生涯に1冊も自分で買ったことがないのに、年収1億近い人物がいる。中卒の彼は自分が成功者で、また自分にはわからないことが何ひとつなく、この世に怖いものは何もないと思っているが、そういう人物を前にすると、価値観の違いを感じるという前に、「教養のないことはさびしいこと」を思って内心憐れむしかない。だが、彼は自分に関心のないことはこの世に存在するとは思えないし、教養という言葉の意味を知らなくても、全く困らない。いつの時代でもそのような人物はいる。そういう人物と同席するのは筆者には耐え難い苦痛で、また侮辱だが、実際彼は貧しい筆者を侮辱する。賢い人と思っている人がなぜ金儲け出来ないのかという考えだ。世の中のすべては金に換算出来る、つまり教養も金があれば何とかなると考えている。そこには一理あるが、金があっても時間がなければ教養は身につかない。確かに金があれば、他人のその時間を買うことは出来る。他人が時間を費やして作った物を買うことが出来るからだ。だが、それは物を所有しただけで、その物が意味することを理解したこととにはならない。葦葉達磨の伏見人形は数千円で買えるが、そこに表現される葦にどういう意味があるかは、それなりの時間と意欲がなければわからない。だが、教養などどうでもいいと思っているからには、凡人が羨ましがる高架な物を買えばいいのであって、伏見人形といった好事家が興味を抱くものなど、存在しないも同然だ。以上は極端な話で、またいかにも筆者が教養のある賢い人物であるかのように思われかねないが、大学教授や博士号を持っている人は筆者と同席することを耐え難い侮辱と思うはずで、世の中はランクというものがある。さて、最初に「葦」を書いたのは、パスカルの言葉を思い出したからで、「考える葦」という表現の意味するところはよくはわからないが、人間が葦のように頼りないものであることはわかる。昨夜、自爆テロに巻き込まれて若くして死んだ医師のことをTVで見た。それが心に残っていたのか、今朝は夢の中で人間がスルメのようにぺしゃんこになり得る立体であることを思った。つまり、スティングの曲「FRAGILE」を思い出すまでもないが、内部が空洞の葦のように、簡単に壊れる存在だ。形あるものはいつか消えるという、昨夜書いた「無常」から、「考える葦」を連想したかもしれない。大事なことは、確かに脆い存在だが、「考える」ということだ。それは教養につながっている。
 そうそう、今日はTVで落語家の桂ざこばが、フランスの経済学者ピケティの大著を手に取りながら、「こんなもん読まんでも、一般人がどうして金儲け出来るかわかりやすく説明してほしい」と言っていた。庶民はそのような専門書を読んでも金には縁遠いし、むしろそのような本を買うより、おしいものを買う方がいいと思うのは正直な話で、教養など、ごく一部の人だけが得ようとすればいいものだ。そこでまた思うのは、最初に書いた葦葉達磨だ。安価な土人形に、なぜ教養を示す必要があるのか。それは先に書いたように、江戸時代では達磨は葦の葉と結びつけて考えられるほどに、達磨の生涯は庶民に馴染みがあって、それは教養とは思われていなかったのかもしれない。先日、張子の人形を作っている人と話をした。伏見人形で有名な「饅頭食い」の人形を模した大きな作を見せてもらったが、伏見人形では童子のキモノに散らされる色紙文様の内部に和歌が書かれているのに、その人は字数が多いので俳句にしたと言っていた。色紙に和歌は似合うが、俳句を書いてそれをキモノの文様とすることは聞いたことがない。目上であるので感想は言わなかったが、連想したことは「教養」という言葉だ。和歌を嗜むことは江戸時代でも教養に関心のある人であったろう。その和歌がさりげなく伏見人形に散りばめられているのは、やはり教養は豊かでありたいという作り手の願いだ。「こんなもん書いても誰もわかるかいな」とは思わなかったのだ。そのため、和歌を書くのが面倒、ないしどういう和歌を書いていいかわからないので、下手な字で俳句にするというのは、現在に即した人形かもしれないが、それはさびしいことだ。知識がないならば、得れば済む。それをしないことが教養のなさだ。筆者は教養のない、あるいは教養に関心のない人が作品を作ることには賛成しない。作品は人となりを示す。そして1万人にひとりいるかいないような目の肥えた鑑賞者のことを念頭に置くべきで、手で物を作るということは、それほどに尊く、またいい加減な思いですることではない。とはいえ、現実は全くそうではない考えで物作りが行なわれていて、大半の物は大事にされずに消えて行く。そろそろ本論に入る。今日取り上げる展覧会を去年12月に見た。副題は「日本工芸に見る「優雅」の伝統」で、漆芸や小袖、陶磁器、刀などが並んだ。国宝や重文を含み、9割は筆者はかつて見たことがあるものと思う。題名にあるように、日本のここ1000年ほどの工芸品が歌や物語に題材を取ったものが多いことを紹介する。つまり、簡単に言えば、文学的教養だ。それが日本の工芸と分かち難く結びついている。葦葉達磨もそうで、いかに日本の工芸品は昔から伝わる物語に因むことを伝統として来たかを改めて知る。「うた・ものがたり」と平仮名で書かれているのは、平安時代の伊勢物語や源氏物語、和歌を指すからで、まずは基本となる伊勢物語程度はその内容を知っておかねば話にならない。ところが、本展はどうも外国人観光客も視野に入れたものではなかったか。会場には西洋人が目立った。彼らは作品の前に座り込んで、じっくりと蒔絵や小袖を見ていた。当然、そこに表現されている「うた」や「ものがたり」については知識がない。だが、簡単な説明でも文学と美術が結びついていることを理解するだろう。また、その文学に関する知識がなくても、手仕事の精緻さに感嘆し、日本がいかに細やかな造形をあらゆる工芸で行なって来たかを実感し、その伝統が現在の文化につながっていることにも思いを馳せるだろう。そうなれば本展を大成功だ。題名に「デザイン」という言葉を使っているところからもそういう若者を対象にしていると言ってよい。それに見る人の教養度に応じて見え方も違うから、西洋人が見ることは国際交流につながる。美術展の意義は大きいと言わねばならない。筆者は伊勢物語も源氏物語も読んだことがなく、また和歌は苦手で、本展の出品作をどれほど理解したかは疑わしい。そこでまた思うのは葦葉達磨の伏見人形だ。それを作るのに携わった人たちは、達磨が葦に乗って川をわたったことは知っていたが、それ以上のことに関心を抱いたかどうかはわからない。たぶん関心はなかったであろう。達磨は関東では張子が有名で、東北では木地で作られる。そうした達磨は手も足もなく、葦葉の伝説とも無関係だ。そして、そういう達磨の方を庶民は達磨像の姿だと思っている。伏見人形にも葦葉とは関係のない、手足のない達磨像もあるが、葦葉達磨像はさすが雅の京都と言うべきで、本展の副題にある「優雅」を想起させる。
 それはさておき、葦葉達磨の由来をさして思わずに機械的に手を動かしてその像を作る人を無教養であると言っていいかとなると、人物としてはそうであるかもしれないが、作品はそうとは言えない。それと同じことは本展に並んだどの作品にも言える。これは、作り手の教養はさほど問われず、作られた物に教養が込められていればよいという考えで、それは人に見てもらう作品には教養が必要であるとの考えで、またその教養は大昔からあたりまえのように引き継がれて来た古典を引用することで、日本文化の根本的な価値観に変化がなかったことを示す。ところが、伊勢物語や源氏物語をよく知らない人が増えて来ると、本展の出品作に見られる意匠の意味がわからず、「優雅」は文学を除いた造形性だけに感じることになる。それに、蒔絵の箱や刀、小袖などはもはや現代の生活には不要で、展示ケースのガラス越しにしか見る機会がない。極論すれば、本展の出品作はどれも死んだもので、現代の生活とは縁が限りなく切れている。そうなれば、そういう作品を見る価値がどこにあるかということになる。百貨店に行って、ブランドものの貴金属を見ている方が楽しいという人も多いだろう。そういった商品もそれなりに独自の物語を持っていて、歴史を蓄積し始めている。本展の出品作のような、手の込んだ、しかも古めかしいものは、優雅かもしれないが、所有していた人の人生が妙な形でまとわりついているようにも感じられて、大金を出してまで買うつもりはさらさないという人がほとんどだろう。時代が変わると美の形も変わる。戦前までなら、どうにか本展の出品作をどれも美しいと感じた人が大多数で会ったと思うが、今は「古くていいもの」と思うより、「いいものかもしれないが古い」と感じてあたりまえではないか。それに、「確かに手仕事としてはとんでもない時間と労力をかけているが、それがどうした」と思う人もいるに違いない。機械文明が美術の見方も変えた。こう書いてまた思うのは、戦後になって日本が欧米化したとして、それで戦前の文化をすっかり忘れたかどうかということだ。小袖には葦手文様と呼ばれる、文字を散らして元の和歌や物語を連想させるものがある。本展にはそうした小袖がたくさん並んだ。今ではその崩し字を見て、どの歌や物語を引用しているかわからない人ばかりだと思うが、教養の質が変わったのでそれは仕方がないとして、昔はそういう遊び心を小袖の文様に表わしていたことを一旦知ると、それが新たな教養の片鱗となって、そこから新たな発想が生まれて来るかもしれない。葦手文様の小袖は実際そのような文化のつながりから発生して来たものであろうし、元の歌や物語の深いところまで知悉しなくても、葦手文様を模倣するだけで、一気に過去の文化遺産につながり得るという便利さが、日本の工芸の文様の世界にはある。工芸だけに限らない。絵画もそうだ。過去の教養の蓄積があって、そのごくわずかなものを引用するだけで、「優雅」を表現出来る。これは歴史と伝統の長さの賜物で、日本の文化遺産だ。若い世代は本展で初めて蒔絵の文箱や鍋島の色鮮やかな文様や、小袖の散らされた文字に目を留めるだろう。そして、同じような文様がたとえば和菓子やポチ袋といったものに見られることに気づいて、出品作への親近感をわずかでも覚えるかもしれない。そのわずかが重要で、それほどに日本の工芸で使用される文様は、瞬時に理解され得るもので、そこからいくらでも奥深く進むことも出来る。たとえば、葦手文様を見てそれがどういう和歌を意味しているかに関心を抱くと、伊勢物語について多少は知ってみたいと思うだろう。伏見人形の葦葉達磨を製作した人たちもそれと同じような思いではなかったか。元の深い意味を知らずとも、ただ文様を引用して描けば、そこに「優雅」立ち現れる。そのいかにも安易なような考えは、親鸞の教えとつながっている。難しいお経を全部覚える必要はない。題目をただ唱えるだけで仏に通じている。伊勢物語は異本がいろいろあって、厳格な形をしたものではない。それに不明なことが多く、それらは今後も明らかにされることはない。にもかかわらず、それはあまりに有名で、あらゆる工芸品に物語の場面を想像させるように意匠が工夫されて来た。曖昧なものの上に曖昧さがどんどん蓄積して来た日本文化で、それを味わうには筆者のように、伊勢物語や源氏物語を読破せず、何となくわかったような気になったままの方がいいのかもしれない。それに人間は葦のように脆いもので、考えることも多く、日本の古典文学だけに集中することは出来ない。いつまでも教養が身につかない者の言い訳だが。
by uuuzen | 2015-02-08 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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