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●『二楽荘と大谷探検隊―シルクロード研究の原点と隊員たちの思い―』
員という言葉を聞くと物騒な武器を持つ集団を思う。「探検隊」という表現は今も使うのかどうか知らないが、戦前の言葉ではないだろうか。



●『二楽荘と大谷探検隊―シルクロード研究の原点と隊員たちの思い―』_d0053294_1233544.jpg学生のクラブなどで、どこか遊び感覚を交えて「探検隊」と呼ぶことはあるだろうが、大きな組織が戦後「探検隊」を組織した話は聞いたことがない。もはや探検する場所が地上には残っていないからで、今もあるのは「発掘」だ。それをたとえばエジプトに遠征に行く場合、「発掘隊」と呼ぶだろうか。日本は規則正しいことが好きなので、ひょっとすれば今も「発掘隊」と呼ぶかもしれないが、「発掘部」がいいのではないだろうか。隊列を組むといった表現は1964年の東京オリンピックまでなら違和感なく使われたと思うが、今は一般には「隊」という文字に馴染みがないように思う。それはさておき、今日取り上げる展覧会を去年の11月に見た。去年の春に同じ龍谷ミュージアムで『チベット仏教の世界 もうひとつの大谷探検隊』を見た時、秋の企画展が本展だという告知があった。ぜひ見ようと思い、そして見て来た。感想が今頃になるのはさして理由があるからではないが、多少思うところがある。ところで、二楽荘という変わった建物が神戸の山手にあったということを知ったのはいつであったか。また何で知ったかも忘れたが、「かつてあった」ということはよほどその対象に関心を持たない限り、進んで調べることにはならない。そのきっかけがあればいいが、大谷探検隊や西本願寺に強い関心がない限り、そのきっかけは訪れない。それで本展のように、資料をたくさん集めた展覧会が開かれるのはありがたい。こういう展覧会がなければ、筆者は二楽荘の名前だけ知る状態のままであった。会場で展示出品目録を一部もらって来たが、最後の謝辞に並ぶ130名ほどの名前や60近い寺院、そして30の機関の一覧を見ると、ひとつの展覧会が開催されるのにどれほど多くの人たちの協力が必要かを思う。個人のコレクションを借りて並べるだけの展覧会はその個人の収集の労力が絶大であることに負っていて、本展のような大勢の人々から少しずつ資料を借りたものとは違って、かなり安易と言える。本展はおそらくたくさんの資料を集め、取捨選択するために費やした期間がそうとう長期にわたったであろう。では国立の博物館が手がけるべきであったかと言えば、そうではない。二楽荘は大谷光瑞の別荘で、建築的、美術的価値はあるとしても、その紹介だけでは場が持たないし、また一仏教機関の私的な業務となれば、公的な博物館が紹介することは難しい。それで龍谷ミュージアムとしては、ぜひとも一度は資料をわかりやすく整理して、展覧会という形で一般公開することを義務と考えたに違いない。ほかの博物館が取り上げないならば、自前でするしかないし、またそれをするだけの大きな組織と経済基盤を持っている。自前でコレクションを公開したい機関や人はたくさんあるはずだが、それを公的機関に寄贈しない限り、展覧会は開催されない。あるいは寄贈を受けつけてもらえないことが多く、また許可されても展覧会が開催されるのは一度だけという場合が多い。収集した人はどの品にも愛着はあるが、寄贈を受ける方はそんな思い入れはまずほとんどない。それに寄贈してもらっても収蔵する場所がないし、あっても経費がかかる。本展にしても前述のように多くの人たちや機関から資料を借りたのであって、同ミュージアムがそれらを全部手元に置くということはないだろう。つまり、企画展はごくわずかな期間の二度と実現しないお祭りで、それから考えると、個人が一生かかって集めたコレクションをどこかの機関に寄贈しても、それが一度だけ展覧会で飾られることに納得が行く。常設展示をしたいのであれば、自前でその場所を用意すればいい。それが無理なら、コレクションはいずれ散逸するし、またそれでいい。
 大谷探検隊は隊長の大谷光瑞がいたからその名前がある。また、浄土真宗の門徒は隊列を連想させるほど日本各地にたくさんいて、また一致団結している。その頂点に大谷光瑞がいたが、本展ではその肖像写真が何点も展示され、さすがに他の隊員たちとは違って、育ちのよさや鷹揚な人柄を感じさせる。賢いお坊ちゃんといった感じで、そういう人物はスケールの大きなことをよくする。言葉を変えれば、無茶をする。光瑞が西域のシルクロード探検隊を思い描き、実行したのは、ロンドン留学中にイギリスやスウェーデンの探検隊の仏教遺跡発掘の成果を知ったからだ。キリスト教の国の人間が東洋人よりも先に仏教遺跡を探検することに歯ぎしりしたというのが正直なところだろう。それほどに明治の若者は考えが大きく、また光瑞や同世代の僧たちはすぐに実行する活力があった。それにはもちろん経済力も必要で、光瑞にはそれらが揃っていた。早速ロンドンからの帰途に自ら探検隊を組織して西域を訪れるが、ヨーロッパの探検隊と違ったのは、仏教を中心に据えたことだ。仏教発祥の地からどのようにそれが伝播して日本に来たかという、その道筋を探検を通して明らかにするということは、浄土真宗こそが、伝播して来た仏教の本流であるということを理由づける意味もあったのだろう。明治の浄土真宗が国家とどのように関係して日露戦争の勝利を導いたかについて何年も前に本を読んだことがあるが、現在では考えられないほどに、国との結びつきが大きく、また国の命運を真宗が左右したと言ってもよい。それほど力を持っていた教団の頂点にいた光瑞が、大谷探検隊をその後も活動させ続け、その間の30歳前に神戸の岡本の山中に二楽荘を建てたというのであるから、もうそのようなスケールの大きな人物を日本は生み得ないだろう。金持ちは多くても、ただ金持ちというだけで、壮大な文化事業を計画し、実行するような人物はいない。そういう思いを現在の真宗が持っているので、自前のミュージアムで本展を開催するのかと言えば、そういう思いもあるだろう。先に無茶と書いたが、後世の語り草になる壮大なことをするにはそれは欠かせない。狂気と言えば聞こえが悪いが、凡人が考えるようなことに留まっていては無理だ。エジプトの何千年も前のピラミッドを今でも誰でも知るのは、それが途方もない無茶、狂気じみた産物であるからで、人間は無茶を喜び、尊ぶところがある。その無茶によって大勢の人が苦しめられることが多いが、後世に与える価値に比べると、充分にお釣りがあると思われる。つまり、無茶ゆえの壮大な夢と行為は、必ず功罪が半ばするが、功の方があまりに輝くため、罪はあまり問われない。光瑞の場合は、ましてや自分の趣味ということに打ち込んだのではなく、仏教徒であるという立場を忘れなかった。信仰の前では無茶という言葉はかき消される。逆に、信心が集合して強大になると、無茶は増幅され、大きな寺院や仏像が期待される。ピラミッドもそのようにして出来た。現在の新興宗教が立派な寺院を建立するのも同じ理由で、教団が大きいほどに、壮大な無茶が実行される。光瑞の場合、それは大谷探検隊と二楽荘で、後者は前者の発掘の成果を整理、研究する施設ともなり、またその一方で仏教中学を開校し、印刷所や気象観測所を建てたり、マスクメロンを栽培したりするなど、多角的な活動をした。本展では仏教中学校の生徒が居並ぶ集合写真が展示されたが、明治30年代にそのような学校があったことの自由な気風に驚く。それは信仰を仲立ちとしているからこそ可能で、今も宗教法人が学校を作ることはよくあるとはいえ、光瑞の仏教中学はもっとひたむきな心を感じさせる。それは光瑞のアウラの大きさ、カリスマ性で説明出来るかもしれない。光瑞を教祖と呼ぶのは間違いだが、それほどに目立ち、またアイデアが豊かで、実行力もあった。だが、40歳になる前、大谷家の負債は巨額になる。それまでの無茶のせいだ。法主を辞任し、その後の人生は探検隊の資料の散逸や二楽荘の焼失など、精彩を欠く。大谷家の負債は、家財の売立を招き、当時の売立目録はたくさん作られた。それほどに宝物を所有していて、若冲の初期の名品は何点もあったし、またまだ行方不明の作品もある。それらがそのまま大谷家にあれば、龍谷ミュージアムは仏教にあまり関係のない美術品もたくさん展示することが出来たが、今は売立目録の写真図版でそれらを偲ぶしかない。
●『二楽荘と大谷探検隊―シルクロード研究の原点と隊員たちの思い―』_d0053294_123157.jpg

 二楽荘はどこにあったか。本展ではその正確な場所を記す地図が展示されたであろうか。現在の海側から山側を撮った大きな写真が導入部に飾られていて、最も手前すなわち最も下に阪急電車が走っているのが見えた。そして目をずっと上に向けて行くと、山の中腹に二楽荘の写真が嵌め込まれていた。その写真の撮影位置がどこかわからないが、先ほど二楽荘のあった場所をヤフーの地図で調べた。阪急神戸線の特急が停まる岡本駅から東北へ700メートルほどだ。筆者は岡本駅には下り立ったことがないが、神戸線は半世紀前から利用しているから、今度岡本駅を過ぎて三宮に向かう時は、山手を見るつもりでいる。明治時代とは違って現在は岡本の山手は二楽荘があった付近までマンションが建っている。その開発は、二楽荘が建った明治38年に始まったと言ってよい。1世紀経った今からもう1世紀経つと、どれほどその山手が変貌していることだろう。二楽荘は昭和7年にホームレスが侵入して火を出したことによって焼けてしまったとされるが、かつてあったその建物を中心とした展覧会が開催されるほどに、今後1世紀の間に夢のある建物が実現するだろうか。それには誰かが無茶をしなければならない。そしてそういう無茶は今はなかなか許されないし、無茶をする人物の夢が下衆で、せっかく巨費を投じても、醜悪なものが出来るだけということになるだろう。日本は戦後金持ちにはなったが、誰もが小粒になり過ぎて途方のなさということに夢を思い描かない。そしてそういうことを感じさせるのが本展であったとも言えるが、一方で突きつけるのは、大谷探検隊の多くのメンバーたちのひたむきな活動だ。本展はそのことに大きな展示を割いていた。学僧であるからにはあたりまえと言ってよいが、それでも光瑞の周囲に集った若き僧たちの顔は、どれも今では見かけないもので、明治時代は現在の日本人とは別の人種かと思わせるほどだ。自分の役割を自覚した者は強い。まっしぐらにその目的に向かって突き進むからだ。そういう生き方は今は難しい。迷いに迷って結局何者にもなれないという人がほとんどで、水の泡のようにこの世から消えて行く。その反面、大谷探検隊の参加者は、本展でたくさん肖像写真が展示され、今後もそれなりにその業績が伝えられて行くだろう。それは組織に所属した者の強みでもあり、しかも真宗という大集団であるからなおさらだ。そのため、本展はたとえば門徒や龍谷大学の教授は筆者が持ち得ない栄光の眼差しで見たのではないか。同じ宗教を信心する者たちの思いの強みというものは確かにあるだろう。たとえは悪いかもしれないが、イスラム国の戦士たちがそうだ。だが、隊となった彼らが繰り広げる無茶はどこに着陸するのか。破戒や殺戮のイメージと結びつき、どのように理想的な国家を築き上げようとするのか。それはさておき、本展は二楽荘の外観や内部をさまざま角度から撮影した写真が展示され、それらを元に復元出来ると思えるほどだが、今はその土地を真宗が所有しておらず、また復元する意義も金もないのだろう。建物の内部がどのように部屋割りされ、どういう家具調度があったかもおおよそ判明していて、明治末期と考えると、その贅と趣向を凝らした様式に驚きを禁じ得ない。外観をインドのタージマハール風にしたのは、光瑞が現地を訪れたことと仏教発祥の地であるということで説明出来るとして、各部屋は中国やアラビア、イギリスなど、シルクロードの東西を結ぶ一帯を視野に入れたことがわかる。その多国籍趣味はまるで万博のパビリオン風と言ってよく、いかにも光瑞の大人物ぶりを示している。それが一夜にして燃え落ちたのであるから、仏教で言う無常を感じずにはいられない。イスラムにもその考えがあるのかどうか、イスラム国の行為を見る限り、無情であって、また彼らの代表者がいつか贅を凝らした別荘を建てた時、そこに日本やインド、中国様式の部屋を設けるとはとうてい考えられない。二楽荘のアラビア様式の部屋は、イスラム圏から来客があった場合に歓待することを意図されたのかどうか知らないが、光瑞がその文化に敬意を表していたことはわかる。イスラム国に寛容の言葉があるだろうか。とはいえ、今の日本も非寛容や不敬が増殖しているように思える。
by uuuzen | 2015-02-06 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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