睨みが効く顔でなければ刑事は務まらない。警察官や刑事が覆面をするのが義務であれば、より睨みが効くと市民から思われるだろうか。今日取り上げる映画のDVDのケース裏面には、主役の刑事を演じるニコラス・ケイジが獲物を睨もつけるような動物的な顔をしている。
彼の演技はあまり記憶にないが、たぶんこの映画が初めてかもしれない。イタリア系の顔をしていて、実際は体格がどうなのか、本作では肩幅がとても広く、だぶだぶに見えるベージュ色のスーツを着て、かなり大柄に見えた。それも睨み効果を考えてのことで、実際はさほど大男ではないように思う。本作はドイツの監督ヴェルナー・ヘルツォークが2009年に撮ったもので、封切りは知らなかった。ヘルツォークの映画は全部見たいので、DVDを去年買った。ファスビンダーならば似合うが、ヘルツォークがこのようなアメリカの刑事ものを撮るのはとても意外だ。それでなおさら興味深く見たが、ヘルツォークらしい味つけがあって、面白かった。どんな映画を撮っても、これまでの自分の作品との関連づけといったことを忘れない。本作のみ見る人にはそれがわからないかと言えば、そうではないが、この監督の他の作品を見て来たひとならなお楽しめる。作品は、それそのものを楽しむことのほかに、俳優や監督の経歴を一方で思い起こして作品を支えている裏側を垣間見るという味わい方もある。これは映画に限らない。作品と言えるものはすべて作者があり、作品とともに作者に思いを馳せる。話は変わる。今朝イスラム国が日本人をまた殺害したというニュースを先に目覚めた家内がTVで見ていたその音声で起こされた。殺害者はいつも同じ黒づくめの男で、覆面をしている。彼らはなぜ顔を見せないのだろう。睨みの問題ではなく、顔が世界に知れわたるとまずいと思っているのだろう。流暢な英語を話すので、西欧人とされるが、30か国ほどの人種が集まるとされるイスラム国は金目当ての傭兵の集まりか。それに、首切りの快感に中毒になっている連中か。日本も怨まれたようだが、オバマ大統領の発言は、やくざ撲滅の警察の正義という印象がある。一方、やくざと目されたイスラム国の連中は反対にアメリカをやくざ国家とみなしているだろう。それはさておき、本作の題名は直訳すると「悪徳補佐官」だが、「BAD」と断っているのが、内容がわかりやすい反面、客寄せのためのサービスで、もう少しいい題名がなかったかと思う。この題名だけでどういう内容かおおよそわかってしまう。筆者は『レオン』に出て来た麻薬中毒の刑事を思い出したが、その想像は当たっている。全く同じタイプというのではないが、本作のニコラス・ケイジが演じる刑事テレンス・マクドノーは麻薬に目がない。その点はなかなか日本ではピンと来ないが、アメリカでは麻薬を取り締まるべき役割の警察までもがそれに汚染されているということだ。だが、ヘルツォークはそのことをさして大きな問題とはみない。日本では危険薬物を飲んで人に危害を加える若者の事件が起こっているので、たとえば本作の刑事は同じようなことをするのではないかと思ってしまうが、薬物を所持している若いカップルと睨むや否や彼らに詰め寄ってそれをせしめる程度で、もっと大きな悪を罰しようという態度がある。小さな悪は見逃し、大きな悪に立ち向かうという考えで、大きな悪とは殺人だ。これだけは許せない。些細な犯罪まで含めて全部警察が検挙することは不可能だ。それで優先順位があるのは仕方がないだろう。それほどアメリカでは犯罪が多いということで、刑事が動くべきは、何人もの人が殺される凶悪事件であるべきで、本作はそのことを描いている。つまり、テレンスは麻薬好きだが、刑事が果たすべき大きな事件を解決する。それで「BAD」と形容されては割りに合わない気分だろうが、やはり麻薬中毒はよくないということで「BAD」がついている。聖人ではないということで、また刑事がそうである必要はないという考えだ。
本作の舞台となったのは、2005年のハリケーンの被害に見舞われたルイジアナ州のニューオリンズだ。南部の香りで思い出す刑事が活躍する映画は『夜の大捜査線』だが、同作では黒人刑事のシドニー・ポアチエは真面目の代表者を演じたが、40年後の本作では刑事像がまるで違っている。真面目な刑事はもはや虚像ということかもしれない。あるいは黒人と白人の違いかもしれない。60年代では黒人の刑事を悪徳として描けば猛反発が黒人の間から湧き起こったであろう。同作では地元の白人警察官をロッド・スタイガーが黒人差別主義者で仕事に無能な人間として描かれたが、それは黒人刑事の真面目ぶりを強調するのにより効果的であった。代わって本作では黒人を麻薬の売買で金を得るやくざ集団として描いている。そのことが黒人社会から反発を食らったかどうか知らないが、おそらくそんなことはなかったはずで、特定の人種をよく描くことは時代遅れになっているのだろう。本作に描かれるように、アフリカからの不法移民がニューオリンズに今もあって、彼らが麻薬の売買に手を染め、古くからいるやくざと抗争があるのだろうか。どの国でも似たことはあるはずで、日本でもそうだろう。テレンスは殺された家族の母親か親族かの激しい態度に接し、殺人者を見つけて獄中に送り込むことを決める。それは顔つきだけの演技で示されるが、詰め寄る母親の前で言葉がないテレンスは、刑事としての真面目で怖い顔を終始向ける。子どもまで含めて一家5人ととても許せることではないとの思いで、そういう凄惨な事件はアメリカでも稀なのだろう。刑事としてもまともな部分は、本作の冒頭部分から示される。ハリケーンの到来によって刑務所が水浸しになり、鉄格子の内部は水深が天井まで届くように水嵩が増えて来る。それをテレンスは同僚と笑いながら見物し、服役者が溺れ死んでもかまわないと思っている。哀願し続ける若い男の声が琴線に触れたのか、急にテレンスは上着を脱いで水中に飛び込み、彼を助ける。そのことで補佐官に昇格するが、助けられた男は映画の終盤でまた登場する。それは、テレンスが麻薬で酩酊状態になっているところにその男が現われ、かつて命を助けてもらった礼を述べるのだが、ふたりが並ぶ場面はテレンスが弱者で若い男が聖人に見える。そのことをテレンスは恥じたのか、あるいは客観視したのか、それはわからないものの、一家を殺した黒人のやくざ集団を撲滅することを再確認する。だが、たったひとりでどのようにして彼らを陥れるか。そこにはやくざを上回る知恵と度胸が必要だが、役に立ったのは麻薬だ。麻薬の吸引を彼らの前で示し、また警察の捜査情報を報せて信頼を得る。よくある手と言えばそれまでだが、アメリカ映画では、また刑事ものではそのような筋立ては歓迎される。つまり、刑事はやくざの上手を行く切れ者であり、恐いもの知らずという設定だ。それには正義感のほかにもうひとつ理由づけがされている。テレンスは博打も好きで、ある人物を介してフットボールの試合にいつも金を賭けているが、負けが込み、大きな借金を背負っている。借りのある人物の娘の交通違反を見逃す代わりに借金をちゃらにする約束を交わすのに、交通取締り官はテレンスの願いを聞き入れない。それで借金を返さねばならなくなるが、それを一家を殺したやくざから巻き上げる計画を立てる。その一方で、ある若い男から麻薬を取り上げるつもりで所持品検査をするが、運が悪いことにその男は街の有力者で、男から仕返しするぞとの言葉を浴びせられる。相手にしないテレンスだが、やがて有力者は警察に圧力をかけ、テレンスは銃を取り上げられる。万事休すとなった感のあるテレンスだが、一家殺害のやくざに接近して麻薬の売買の分け前をもらいながら、物事が好転して行く。それは街の有力者が抱えるイタリア系らしきやくざが、その黒人やくざの家を訪れた時に一気に起こる。やくざ同士の縄張り争いで、イタリア系やくざは事務所内部で皆殺しにされる。そのことを知った有力者の息子はテレンスの前に現われ、以前のことはなかったことにすると言って、尻尾を巻いて逃げ去る。テレンスにすればイタリア系やくざは関係ないので、彼らがどうなろうと知ったことではなく、それよりも黒人やくざを全員検挙せねばならない。それには殺人を犯した証拠が必要で、また証人となってくれる唯一の目撃車である黒人少年を口説く必要があるが、ついにその双方がかなうことになる。とんとん拍子に何もかもがうまく行くテレンスで、おまけに難しい殺人事件を粘り強く解決したことで、また表彰され、昇格する。うまく出来過ぎている感があるが、後味はよい。
DVDにはメイキング映像がおまけでついている。浸水で囚人が溺れそうになる場面では、濁流の茶色を出すためにヘルツォークは俳優にも環境にも優しいもので水を色づけようとし、ノン・カフェインのコーヒーを2000数百本使ったという。そういうことは言われなければわからない。漠然と見ている映像でも、作者の思いが反映し、また金もかかっている。ネットで調べると、ニコラス・ケイジはニューオリンズ在住で、また金使いがあらく、借金だらけであったそうで、本作の刑事役は実像に近いところがあった。そういうことを知ってニコラスを起用したのかどうかは知らないが、ニコラスはヘルツォークの作品を全部見て、自分と同じ気質と言ったそうだ。それに対してヘルツォークは返事しなかったらしいが、監督はニコラスの狂気はさほどでもないと思ったのではないか。本作は刑事対やくざの戦いを描いたものである一方、麻薬による幻覚が重要な位置を占めている。それはテレンスが見るもので、それほどに麻薬に冒されているということだが、その代表的場面は、黒人やくざの事務所にやって来たイタリア系やくざが皆殺しされた場面だ。銃で撃たれて全員床に倒れているのに、テレンスは笑顔でもう一発撃てと親分に命じる。テレンスには、殺されたひとりがブレイクダンスを踊っているのが見えていて、それを「魂が踊っている」と叫ぶ。その言葉に促されて一発放たれると、踊っていた男は床に倒れ込む。「魂が踊っている」とはなかなか芸術的な表現だが、麻薬でそのような幻覚を見ることは、昨日書いた宗教における法悦と同じようなもので、人が銃殺される時にそれを覚えたことは物騒は話だ。そこを深読みすると、麻薬の恐さ、刑事がそれに冒されている恐さを思う。つまり、テレンスはヒーローのように思われがちだが、綱わたり的な生き方をしていて、決して笑い事ではないということだ。まともなのは、前述した服役してまともに働いている男で、テレンスはそのままではいつか破滅することが予想される。それを逃れるには麻薬と縁を切らねばならない。そしてそういう人物が本作では描かれる。テレンスの友人家族で、友人の男は断酒会に通っている。その妻も酒に冒され、また娘はテレンスと同じように麻薬中毒だが、映画の最後でテレンスが昇格した時には、その一家はみな中毒から脱し、娘はテレンスと結婚するというハッピーエンドだ。つまり、酒や麻薬はその気になれば断つことが出来るということを描いているし、またそのことでまともな人生が訪れるとも結論づけている。だが、テレンスが本当に麻薬を手放すことが出来るかどうかはわからない。麻薬がなければとても命をかけた捜査など出来ないかもしれず、テレンスが破滅しようがしまいが、刑事としての仕事をこなせばいいではないかと読み取ればいいだろう。テレンスが見る幻影はほかにもある。イグアナが登場することだ。それに鰐も出て来るが、それらの動物は物語の中からは浮いているだけに印象深い。合理的に進行する話の筋に、突如意味不明の異物が差し挟まれる。ヘルツォークの若い頃の作品でとても目立つのは小人の起用だが、本作でもひとり姿を見せる。ほんの2,3秒、歩道をこちら側に向かって歩いて来る場面で、それは現実の光景として不自然を何ら感じさせないものでありながら、監督の恣意的な場面であることをファンは知っている。鰐やイグアナもそうだ。鰐については本作の後に撮られた作品
_『世界最古の洞窟壁画 忘れられた夢の記憶』の最後に語られる。ヘルツォークはその異物的な短いカットがなければ本作は意味がないとまで言っているが、それは普通の刑事映画とは違うという自負というよりも、麻薬による幻覚や狂気を観客に垣間見せるのに必要と考えたからだろう。そして麻薬を批判も肯定もしておらず、本作に教訓的なところはない。ただ、殺人は許されないという刑事の信念は強く描かれていて、それはアメリカだけではなく、人間の普遍的な価値観であろう。だが、それは戦争その他の機会でしばしば忘れ去られる。あるいは肯定される。麻薬がよくもわるくないとすれば、殺人もそうか。アメリカはイラク戦争の時に大量殺戮のための武器を持っているからとの理由で爆撃したが、それは事実ではなかった。そのことは、爆撃された側にとっては怨念となるだろう。それがたとえばイスラム国に成長したとすれば、アメリカの言うように彼らの絶滅は不可能ではないか。一刑事が担当区域の殺人事件を解決するのと違って、国が対処すべき問題は、何が正義か立場によって異なる。だが、罪のない一般人の首を切って世界中のその画像をばら撒くことが信心深いと主張する人間に許されるのか。宗教は麻薬と同じかもしれない。そこには幻覚も狂気もある。