腎臓と肺はふたつずつあるが、心臓と肝臓はひとつであるから、脳死状態の人から臓器移植する場合、6人に与えることが出来るが、今日取り上げるドラマでは7人と言っていた。
それで考えたところ、肝臓はふたりに分け与えられるのではないか。そうすれば7人となる。本作は今朝最終回であった。それを知らなかったが、昨日に続いてうまい具合に韓国ドラマの感想を書くことが出来る。30分ものを土日を除いて毎日2話を続けて放送し、全140話弱のホーム・ドラマだ。現実にはあり得ない設定に突っ込みどころ満載で、特別印象に残るというほどではなかった。悪役の女性のあまりの憎々しい演技に毎日辟易させられながら、いつ彼女の化けの皮が剥がれるかと待つことにある。必ずその機会はやって来るが、だいたい最終回の数話前だ。そしてその悪役が心を入れ替えると、何だかものさびしく、その調子でドラマが終わってしまう。本作ではイ・へインという筆者は初めて見る女性がイ・イェリンという名前で登場し、放送局のアナウンサーとして勤務している。背が高く、スリムな女性で、筆者は全く美人とは思わないが、ドラマの中ではそういう設定だ。彼女は陰湿ないじめや悪行の限りをもうひとりのヒロインであるチェ・セヨンにし続ける。彼女も初めて見るが、パク・セヨンが芸名だ。彼女は純粋な心を持っているが、疑うことを全く知らず、イェリンの謀略に何度も引っかかる。それが本作の4分の3を占めている。つまり、イェリンのセヨンに対する攻撃を手変え品変え描き続けると、本作は200話でも300話でも続けられる。さすがそれでは視聴者は呆れ果ててしまうので、その想いが頂点に達したところで最終話に残すところ数話というところに持って行く。セヨンの純粋さは失笑もので、そのことを筆者は家内に言うと、現実にはそのように疑うことを知らないひとはたくさんいるものだと意見される。そうかもしれないが、筆者にはセヨンが馬鹿に見えて仕方がなかった。うっかりミスが多く、社会人としては失格だ。逆にイェリンは誰も見ていないと知るや、てきぱきと悪さをし、いつもそれが成功する。何も知らないセヨンは追い込まれてばかりだ。だがそれではドラマが展開しないから、イェリンの行動を見抜いている人物が必要だ。それが放送局に下請けとして勤務する若い男性のアン・ジョンヒョで、彼は目立たない風貌で、どこにでもいる雰囲気だ。韓国ドラマでも最も地味な男優の部類に属する。彼は下請けであるから、目立たない人柄でぴったりだが、そういう性質になったのは理由がある。孤児院で育ったのだ。この設定は韓国ドラマの定石だ。ほかにないのかと思うほど、どのドラマにも施設育ちの人物が登場する。現実にそれだけ孤児が多いのだろうか。日本のドラマではまず取り上げられないのではないか。それはともかく、ジョンヒョはイェリンと同じ施設で幼い頃から育った。そして彼は放送局で出会ってからは彼女のことを愛し、そのことを彼女にほのめかすが、彼女は有能で、年上の彼を無視する。ジョンヒョは孤児のまま大人になったが、イェリンは子どもの頃に養母に育てられた。その養母は放送局の有名はキャスターで、局長でもある。そのような優秀は母親であるから、イェリンもそれなりに学をつけ、放送局に就職した。そういう彼女が金もない、下請けの男を相手にするはずがない。韓国ドラマは必ず若い男女が2組登場する。本作も当然そうで、もうひとりの女性が前述の純粋なセヨンだ。彼女はしがないパン屋の娘だが、やはり孤児であった。そしてそのことをイェリンのようにひた隠しにはしない。もうひとりの男性は放送局に勤務する金持ちの坊ちゃんのハン・ジュソンだ。イェリンはジュソンと結婚したがる。家柄も釣り合うし、ふたりさえよければ結婚は問題ないはずなのに、イェリンの悪い性格が次第に明らかになるにつれ、ジュソンは想いが冷めて行く。ジュソンの母も昔は放送局に勤めていて、イェリンの母とはライヴァルであったが、10数代も続く名家に嫁ぎ、専業主婦になった。一方、イェリンを育てた母はキャリア・ウーマンで、夫はいない。ただし、実子の長男夫婦と同居している。
長丁場のドラマであるので、家庭の激変がいくつも描かれる。まずは映画製作会社を持っているジュソンの父親だ。祖父と一緒に大きな屋敷で暮らしているが、年に20回近くも法事があり、親類一堂が集まって会食する習わしがある。それはジュソンの母親が料理などを用意し、おまけに歌までみんなの前で歌わされるなど、いくら名家とはいえ、嫁は大変は苦労があると描かれる。これは現在の韓国でも実際そうなのだろう。昨日も書いたが、韓国は血縁を何よりも大切にする。そして男社会で、女は嫁いでも姓が変わらない。それはいつでも離縁出来るようにという男の考えによると聞いたことがある。かつて放送局で華々しく活躍していたジュソンの母は、かつてのライヴァルが今は局長となり、養女を同じ道を歩ませていることが内心羨ましい。経済的には何ひとつ不自由がないので、それは欲張り過ぎというものだが、韓国でも自立したい女性が増えているということだ。イェリンは自分がその家に嫁ぐことを夢想しているが、そうなれば嫁としてどういう暮らしが待っているかは明らかで、そのためにジュソンの母が席を外した時に、自分の代になれば法事など一切しないなどと文句を言う。そこにも現在の韓国の若い女性の実態がある。名家に嫁ぐことが夢ではないということだ。若い夫婦が独立して生活する方がよほど気楽で、そのことは本作の台詞に出て来る。名家は名家同士で結婚するかと思うと、さほどでもないのだろう。ジュソンの母の実家は描かれないが、名家ではないはずだ。ただ才色兼備であることが買われたのだろう。ならば、イェリンをジュソンの嫁にもらってもいいということで、ジュソンの家では実権を握っている祖父がイェリンと孫のジュソンの結婚を早くさせたがっている。そこにセヨンは放送局に就職して来なければ、イェリンは悪い考えを起こさず、そのまま名家に嫁いだはずだ。それではドラマにならないので、パン屋の娘を放送局に勤務させる筋立てとなっている。ではなぜセヨンがアナウンサーになりたいか。それは施設で育つ前、かすかな記憶として母が放送局に勤務していて、自分もいつか同じ道を歩みたいと思ったのだ。ここまで書けばわかるように、セヨンの実母はイェリンを育てた母だ。彼女は有能なキャリア・ウーマンだが、ただひとつ後悔していることがある。それは若い頃にセヨンを施設に預けたことだ。すぐに迎えに来るつもりであったのに、施設を再訪した時にはすでに養子に出された後であった。それで代わりにイェリンをもらって来て育てた。昨日も書いたように、幼い頃の因縁が長じても続くという設定をどの韓国ドラマでも用いる。イェリンの養母はかつて捨てたも同然の娘が今どこでどう暮らしているかを忘れたことはないが、かといって、積極的に調べたことはなく、せいぜい遺伝子登録をしているだけだ。日本ではない制度だが、たとえばセヨンも同じ登録をすれば、すぐに親娘関係が判明する。セヨンは優しいパン屋の家族に育てられ、今さら実母を探す気はない。ところがいよいよ放送局に勤務するようになり、その晴れ姿を実母に見せるべきという周囲の意見もあって遺伝子登録をする。そうなればすぐに母子はお互いそれとわかるはずだが、いち早くそのことを察知したイェリンは妨害をする。彼女は今まで優秀な母をひとり占めして来た。それがセヨンの登場で崩れる。それが我慢ならない。突如出現した素人のセヨンに何もかも持って行かれるかもしれないと思うと、何が何でも親子関係をふたりに知らせてはならない。ところがそうした企みはいつもジョンヒョがたまたま見て知ってしまう。ところがイェリンはジョンヒョが自分に好意を抱いていることを手に取って、口封じをする。またそれにしたがうジョンヒョで、ドラマの最初から3分の1ほどはジョンヒョはしぶしぶながら、イェリンの悪行を黙認し、そのことを一番に明かすべきセヨンには何も言わない。それは同じ孤児として育ったイェリンがかわいそうと思うからだが、イェリンはジョンヒョのことを何とも思っていない。
イェリンの性格の悪さはどうしてか。イェリンの実母が登場する。彼女はかつてエロ映画で名を成した女優で、今は場末で女性を集めて飲み屋を経営している。ところが借金だらけでやくざに追われる始末だ。彼女は自分の娘がイェリンであることを知るや、彼女に接近し、また養母から金をせびろうとする。イェリンはそんな母親は真っ平で、実母と知ってもいつも冷たくあしらう。その後も実母はパン屋のすぐ近くに引っ越すなど、ドラマの展開に多少の役割を演じるが、最後から3分の1くらいになると登場しなくなる。イェリンの冷たい態度に母として接することを諦めるという形だ。そうそう、彼女がイェリンに接近したのは借金だけのためではない。肺か腎臓であったか、末期癌で、臓器移植せねば1か月ほどしか寿命がないと宣告されたのだ。それには適合する臓器の持ち主が必要で、イェリンは養母に諭され、臓器移植手術をして実母を助ける。それはしぶしぶであって、臓器を与えた後はきっぱりと縁を切りたいと口にする。養母とは違って元エロ女優というのが嫌でたまらないのだ。さて、セヨンが入社してからも実母は彼女が自分の娘とは知らず、イェリンの策略に乗せられてむしろセヨンを辞めさせようとする。つまり、仕事では優秀だが、自分の娘が目の前にいてもさっぱりわからないという鈍感さを持ち合わせている。そして、周囲の者たちが、セヨンとイェリンの養母があまりにも似ていると言ってもなお、気づかない。ではふたりがお互い親子であることを知ればこのドラマは最終回を迎えるかと言えば、それでは月並み過ぎる。全話の半分がまだ来ないうちに、親子であることをお互い知る。そして感動的な場面があるかと言えば、全くそうではない。それは、セヨンは養子にもらわれて幸福に暮らして来たことと、イェリンと一緒に実母の家で暮らしても、イェリンが攻撃し続けるからだ。そして実母はセヨンが見つかったからといって、イェリン以上に大事にするということがない。そこはかなり冷めた性格と言うべきかもしれない。キャリア・ウーマンでしかも国中に顔が売れている有名人ではそういうこともあるだろう。セヨンはせっかく実母と暮らすのに、すぐにまたパン屋に戻ってしまう。そこには長じてから本当の親がわかっても、心はどこか冷めているという現実を描いている。大人になってから親が「お前の親だよ」と言って現われても、子は嬉しさよりもまごついてしまう。子育ては小さな時こそが大変で、また重要だ。幼い頃に親がいなくてさびしい思いをすると、それは大人になってからの性格に影響するだろう。その意味で本作で一番かわいそうなのは、親を知らないジョンヒョだ。彼はジュソンのように都会のセンスを持たず、影のような存在だ。そしてジュソンは家柄も性格もよく、本作はジュソンとセヨンが結婚するものとばかり思わせるが、早々とジュソンの存在感はなくなって行く。最初からそのような脚本であったのだろうか。そうではないような気がする。そしてそうだとすればジュソンを演じた俳優は少しかわいそうだ。結局彼はイェリンを振り、最終回近くでまたよりを戻そうとするが、それは実現しない。それもそうだが、10数代続いたジュソンの家が、祖父が死んだ途端、倒産する。そのあまりにも呆気ない展開に、やっぱり韓国ドラマと思うが、そのことを家内に言うと、現実はそのようなもので、一流企業でも倒産すると意見された。ジュソンの父はお調子者として描かれ、倒産は予想される展開と言ってよい。そして、その一方で人柄がいいので、そのまま貧困にはならないという設定だ。そのことを説明すると話がかなりややこしくなるが、イェリンとセヨン、そしてジュソンやジョンヒョの四角関係だけで本作が成り立っているのではなく、パン屋家族、ジュソンの家族が関係することのほかに、親に捨てられて育った若い男性ドンウクとその実母が重要な役割を演じる。ドンウクは刑務所にいたが、出所後にパン屋に拾われ、そこで働く。母親はアメリカで財を成した大金持ちで、韓国には仕事でやって来た。そしてドンウクを見つけるが、母子の関係はぎくしゃくする。その一方、その母親はジュソンの父の映画会社を買収し、社長に収まる。それより以前、たまたまジュソンの妹はドンウクに一目惚れし、つきまとう。これも誰しも予想出来るように、ふたりが結婚することで、ジュソンの会社は持ち直すという寸法だ。そんなうまい具合に進むはずがないが、本作はイェリンの悪行の毒を中和させる意味で、喜劇的な要素がふんだんに盛られる。それがジュソンの両親やパン屋の家族だ。
予想を覆す展開は、セヨンとジョンヒョが接近し始めることだ。セヨンは最初は就職した放送局でジュソンと出会い、相思相愛になる。それをイェリンが邪魔するのは言うまでもない。そこでセヨンは身を引き、その隙にジョンヒョが割り込むという形だ。だが、ジョンヒョは下請けであり、何ひとつ誇るべきものがない。それではセヨンと結婚しても負い目を感じるだけだろう。現実にはそういう結婚は多いが、熱が冷めると離婚するというのもまた多いだろう。嫁さんの方がばりばり仕事をし、収入がいいとなれば、旦那は立つ瀬がない。そこを脚本家は心配したのだろう。そしていつもどおりのシンデレラ・ストーリーを用意する。つまり、ジョンヒョは親には捨てられたが、彼にも立派な親がいたという展開だ。その父親をトッコ・ヨンジェが演じる。彼は貫禄ある風貌で、どのような役かは想像出来る。放送局の新しい社長としてアメリカから赴任して来たのだ。最初に出会うのはセヨンだ。彼女はバスの中で支払いに困っていた様子を見て助ける。ごく普通のおじさんと思うセヨンだが、第一印象をとてもよくした社長は自分の正体を明かさずに、その後も放送局で出会う。社長はやがてジョンヒョが実の子と知り、下請けではなく、正社員として雇おうとするが、そういう父の態度をジョンヒョは受け入れない。それほど遠慮深いということと、周囲の目もあるということだ。それに急に目の前に現われて父親面されることが嫌なのだ。だが、社長はわが子という理由ではなく、仕事の能力があるからだと説得し、次第にジョンヒョは父の申し出を受け入れる。またセヨンに好感を抱いている社長は息子が彼女と結婚したがっていることを応援する。そうなると、黙っていないのがイェリンだ。そこでまた悪事を企むが、ついにそれが母や社長などに知られてしまう。万事休すとなったイェリンは初めて心を入れ替える。今まで憎らしげな笑みを浮かべてばかりいた彼女が、最終話やその前の回ではがらりと表情を変え、さすがの女優と思わせる。セヨンは大根だが、イェリンは悪女としてこれからも起用されるだろう。心を入れ替えたイェリンの態度は視聴者には信じられず、また物足りない。「今まですいませんでした」で終わりかと思うと、あまりに調子がよい。そういう視聴者の思いを汲み取って、最終話ではびっくりさせられる展開がある。セヨンとジョンヒョの結婚式に向かうのに、イェリンはセヨンを車で送って行く。信号待ちの時、トラックに衝突され、セヨンは頭に傷を負う。イェリンは無事だったが、セヨンを道端に導いた後、車の中にブーケを取りに戻り、セヨンのところに向かうところで、車に跳ねられてしまう。脳死状態となった彼女は、養母が泣き叫ぶ中、息子がイェリンの所持品からドナー・カードを見つけ、イェリンは7人の人を助けることが出来ると涙ながらに言う。先に書き忘れたが、ジョンヒョの父親は心臓の末期癌で、息子とセヨンの結婚式まで持たないと医師から言われている。最終話の最後5分は、イェリンの脳死から5年後だ。社長はイェリンの心臓を移植されて一命を取り留めた。イェリンがセヨンを陥れようとし続けたのは、孤児として育ったさびしさゆえ、養母を取られると思ったからだ。それは当然だ。その養母の実子がセヨンであるから、そのことを誰よりも先にしったセヨンは狼狽した。そこには孤児の悲しみがある。セヨンもジョンヒョもそうだ。親がいくら大金持ちになって現われても、時はもうかなり遅い。小さな子は金がほしいのではない。親の愛情のみを欲する。そのことをわからない親がいる。イェリンは実母に臓器を提供し、悪行の報いとして交通事故で死に、そして臓器を提供して人助けをしたが、臓器提供のために生まれて来て、そしてそのためには多少の悪さも帳消しになるということを本作は言いたいのかもしれない。7人待っていると涙ながらに言う兄の言葉だが、実母にひとつ提供しているから、腎臓、肺、肝臓、心臓のほかに何を摘出するのだろう。肝臓は3つに切り分けられるのだろうか。