策略合戦と言おうか、この韓国ドラマの主役は互いに策を弄して相手を陥れようとする。簡単に言えば復讐劇だが、きれいな女性が出るので恋愛ドラマの要素も同じほどにある。
また、韓国ドラマでは馴染みの権力批判が大きく盛られている。しかも最後に巨悪が滅びるかと言えば、そんな単純には描かず、弱者の復讐は完遂せず、巨悪はまたのうのうと娑婆に出て来ることが予想される内容で、後味の悪い、暗い仕上がりとなっている。それは題名からもわかる。韓国では単に「鮫」だと思うが、それでは日本向きではないとの理由で、「愛の黙示録」というくだらない副題が添えられたのであろう。去年秋の放送で、今年に入って録画を数日かけて見た。全20話で、見始めるとすぐだ。またそれだけに1話見過ごすと理解出来なくなる。推理ドラマとしても分類出来、回が進むうちにそれまでわからなかったことが視聴者に知らされる。先に後味が悪いと書いたのは、理不尽にも殺されることになる主人公のハン・イスと言う青年は、その父も含めて清廉潔白のように最初は思わされるが、半ばを過ぎる頃にイスの父親はかつて公安の拷問官であったことがわかる。そのような肩書きがあったことに驚くが、韓国では拷問によって白状させる、あるいは罪をなすりつけることが70年代にはあったようで、それは国民には周知の事実だろう。だが、そのような仕事を他人に口外することは出来ないから、そういう仕事に携わっていたことはいかに国家の役人とはいえ、一般には蔑まれる。本作のイスの父親はかつてそういう仕事をしていたことを子どもには告げておらず、しかも誰かに殺され、その後間もなく、高校生であったイスも同じ目に遭う。公衆電話ボックスで電話中にトッラクが突進して来て、ボックスごと吹き飛ばされるが、即死のはずが死体が見つからない。跳ねたのは在日2世で、沖縄でホテルを経営し、裏ではやくざをしているヨシムラという人物だが、彼は瀕死のイスを助け、自分の片棒として育てる。そして10年経ってイスが韓国に戻って来たところから本格的にドラマは始まる。いつも書くように、韓国ドラマの登場人物は必ず10代からの親友が成長してなお絡み合う。とても狭い人脈と言うべきだが、韓国人はそれほどに人の生涯の交際は幼少時やせいぜい10代で決まると思いたがっているのだろう。血縁を何よりも大切に描くことも韓国ドラマの特徴で、血縁に次いで友人が重視される。それは傍目には、そして本人たちにとっても美しいことなのだろうが、10代までの出会いが大人になっても続くとして、それがいい関係であればいいが、そうでない場合も当然ある。そして韓国ドラマはそのことも描くが、いい関係、よくない関係のどちらを描くにしても、10代までの出会いがその後愛憎となって続くという見方に、運命と言えばおおげさだが、昔からお互い知っている関係は死まで続くと思いたい国民性を表わしている。それで、本作のイスを初め、若者はみな高校生の時の親友で、高校生時代とそれから10年後の姿を演じる俳優が別々に設定され、それぞれがそれなりに似ていれば違和感がないのに、本作では全員がかなり顔が違う。イスはまだしも、ヒロインのチョ・ヘウは特にそうだ。高校生時代はすれっからしの女番長という雰囲気であるのに、10年後はソン・イェジンが演じて、常に憂いを湛えている。それは愛していたイスが事件後に姿を消したからとも言えるが、そういう決定的な不幸を経験しているのに検事になっていて、高校生役を見ると、それほど勉強が出来たのかと疑問に思う。また、高校生の時にイスの親友で不良であったオ・ジュニョンはちゃっかりヘウと結婚し、彼女の父が経営するホテルの役員になっている。おまけに父親はソウル地検の偉いさんで、高校生時代にふたりがイスと仲がよかったことにはあまり説得力がない。そこは、家が大金持ちほどに子どもは荒れると言いたいのかもしれない。
10年後に現われたイスをヘウなど高校生時代の友人は全く気づかない。それは事故で大けがをし、顔を整形したという設定なのだろう。整形天国の韓国らしいが、全くの別人になるほどに整形が出来るものだろうか。声は変わらないし、体臭のようなものも同じままではないか。ヘウが10年後もイスを思い続けているのであれば、顔が変わっただけでその正体に気づかないことは現実的でない。10年では人間はそう変わらない。それはさておき、イスの父親はヘウの祖父でカヤ・ホテル・グループの会長の運転手をしている。運転手の息子と会長の孫のヘウが同じ高校というのは非現実的で、ふたりが生涯忘れ得ない恋愛をするということにも無理がある。だが、そういう現実を描けば誰もドラマを見ない。ドラマはファンタジーで国民のガス抜きの役目を担うので、財閥と貧乏人が遭遇し、結ばれなければならない。その一方、国民は財閥のような金持ち、権力者はかつてうまい具合に策略を弄して成功への糸口をつかんだと思っているから、ドラマでその暗部を描くことで国民の溜飲を下げさせる。本作はまさにそれに当たる。だが、そう簡単に権力者が潰れない現実をいやというほど国民は知っているから、ドラマの最後で巨悪が滅びるという安易なドラマを白々しく思う。そのことも本作の製作者は慮って、前述のように、その巨悪に復讐しようとした弱者が結局は負けるという描き方をした。それが後味の悪さに大きな原因になっているが、もうひとつのその理由は、弱者であるイスの父親がかつて拷問官で、無実の人間を殺していたという事実をイスが復讐を遂行しようとしている時に知る、つまり権力者から邪魔者扱いされたイスの父は叩けば埃が出る人間であったということで、どんな人間でもそういう人に言えない部分を抱えているという描き方だ。もちろん全員がそうではないので、本作では復讐を批判しているのだろう。だが、殺されかけた男が巨悪に立ち向かうのはあたりまえだ。ところが、やがてイスの正体を知るヘウやジュニョンは、イスに対して復讐はよくないといった態度に出る。いい気なものだ。ヘウの父や祖父、ジュニョンの父はみな悪者で、イスにすれば復讐したい相手だ。イスの父が殺され、自分もそうなりかけたのは、彼らの利益を守るためであった。そのことを沖縄で知るイスはヨシムラの養子となり、大金を獲得して復讐に挑む。ヨシムラとヘウの祖父とは、同じホテル業界の人間でつながりがあるが、商売敵でもあって、ヨシムラはイスを使ってヘウの父や祖父のホテル・グループを倒そうと考えている。その辺りはじっくり見なかったので曖昧だが、たぶんそういうことだ。それは在日韓国人の大金持ちが韓国の財閥と縄張り争いをしている現実を匂わせるが、実際はどうなのだろう。ロッテ・グループを思えば、おそらくそういうことはあるだろう。ヨシムラが沖縄のやくざであるとの設定は何となく突飛に感じるが、本作のムードには本土より沖縄のホテルを描く方が異国情緒が強まり、ロケのし甲斐があると判断されたからではないか。そこには韓国人における沖縄ブームも反映しているかもしれないが、そういうブームがあるのかどうかは知らない。ヘウとジュニョンの仲は、お互い忙しい身で、結婚したのにハネムーンにも行けないというありさまだが、夫はそのことに不満を言わず、しかもイスが生きていれば自分とは結婚しなかったのではないかと弱音を言う。それにノーを言うヘウで、イスの正体を知ってから多少は心を動揺させるが、いわゆる貞操観念はあって、イスが死ぬと淡々と灰を撒く。ソン・イェジンは表情に乏しい、終始暗い表情が似合う女優で、本作のムード作りに大きく貢献している。ヘウは検事であること、イスのために、自分の父と祖父の悪行をイスが暴いて行くことに手助けをし、そこがせめてものイスの慰めであった。ヘウの立場は復讐に燃えるイスより難しい。自分の父や、またとても大事にしてくれる祖父がまさかとんでもない悪者であったことを認めることは、儒教国家の韓国では現実的ではない。親が悪を働いても、それを他人に告げないことが親孝行であり、世の中の決まり以上に肉親のつながりを重視する。そのことを本作はよくないことと言っている。古い価値観を捨て、本当の近代国家になるためには、権力腐敗を撲滅すべきとの考えだ。だが、そういう立場のドラマが製作されること自体、まだまだ古い悪弊が幅を利かしているに違いなく、本作の後味の悪さはそのことを思わせられるところにもある。
イスを演じたキム・ナムギルは今回初めて見た。不気味な表情は策略を凝らして少しずつイェジンの父や祖父を追い詰めて行くのにぴったりだ。追い詰められる父役を演じるキム・ギュチョルは厳格な祖父に育てられた頼りない男を演じるのに最適で、その過剰気味のおどおどした、また滑稽な演技はほかの俳優では出せない味として記憶に残る。祖父サングクを演じるのはイ・ギョンジルで、ホーム・ドラマでも馴染みだが、本作では別人に見えるほど貫禄がある。それは眼鏡のせいで、影の権力者としてこれも適役だ。サングクは読書が趣味で常に書斎にいる。大きな机の背後は高い天井まで届く大きな書棚で覆われている。梯子が見えなかったので、天井に近いところはどのようにして本を出し入れするのかと思うが、気になったのは背表紙だ。どれも日本でいえば1000円程度の帯つきの単行本で、部屋の重厚さに比べてとても軽い。それはともかく、目につくと思ったそれらの本に意味があることはすぐにわかる。サングクと懇意にしている古本屋が登場するのだ。これは謎の人物で、またサングクの手足となって命令を実行し、そのひとつは殺人だ。もうひとつはある本を買い集めていることだ。それは部数が少なく、ほとんど韓国には残っていないようだが、最後の1冊までサングクの命令にしたがって集めようとしている。その本に載る人物の写真が目的で、その写真をこの世から抹消したがっている。その秘密をイスは嗅ぎつけている。ホテル・グループの会長のサングクは検察庁に知り合いがあるなど、恐い存在が何もない。そのうえ、かつては国のために戦った烈士の息子と主張し、尊敬されている。だが、実際はその正反対で、戦前のある村で残虐の限りを尽くし、その時に財を築いた人間で、烈士の息子であると詐称している。その烈士は1枚しか写真が残っておらず、その写真が1冊の本に印刷されていて、その本を全部買い集めて処分しようとしているのがサングクと古本屋だ。ところが、意外なところから烈士と息子が写った写真の実物が見出される。それはヨシムラがイスの父親に送ったもので、イスの父は自分が仕えるサングクの本性を知り、その写真を貸金庫に保管する。そのことを察知したサングクは古本屋を使って殺すので、本作の主役はサングクと言ってもいいだろう。彼は戦争のどさくさに悪事を尽くし、そしてその贖罪の思いがあったのか、烈士の息子になり澄まして名誉と金を手にした後、さらなる名誉のためにその財産を寄付すると発表する。しかしイスの父親の死に不審を抱いた刑事が10年の歳月をかけてついに真実を知り、サングクを追い詰めて行く。その刑事の同僚はイスの父が死んだ現場で証拠品を見つけているのに、それを公にせず、サングクと手を結んで金をせびる生き方を選び、早々と殺されてしまう。そういうことを知らないもうひとりの刑事は慎ましやかな家庭を持ち、またイスの妹を引き取って育てるなど、愛情深く、正義感が強い。いくら権力が腐敗しているからといえ、そういうまともな人物もいることを描かねば、却って嘘っぽくなる。イスの妹は子役と、10年後の成長した娘役がよく雰囲気が似ているのがよい。彼女は死んだか生きているのかわからない兄のことを思って生きている健気な子で、韓国に戻って来たイスは真っ先にその妹に会いに行くが、妹は兄とは知らない。そして、妹は最終回近くで、古本屋に拉致され、九死に一生を得るが、その頃に妹はイスが兄であることを知る。妹は大学で天文学を学んでいて、自分の部屋に天体望遠鏡を持っている。それはイスが夜空を見るのが好きであったからで、韓国のイスの住まいにも天体望遠鏡はあり、また室内装飾の大きな電子パネル型の壁画がふたつあって、常に星座が七色に輝いている。そういう小道具に金をかける美的効果狙いは好ましい。イスもヘウも絵画が好きで、特にシャガールの絵を好み、イスの部屋にはかつてふたりでよく見た画集にあったシャガールの絵が飾られていたりもする。名画で言えば、誰の部屋であったか、ブリューゲルの「バベルの塔」が飾ってあって、その額縁の向こうに何かが隠されていた。「バベルの塔」のこの複製画は別の韓国ドラマで使い回しされた。そういうところに韓国ドラマの安っぽさがある。そのほかの小道具としては、鮫を象った木と金属のペンダントが登場する。鮫は高校生のイスがヘウに最も好きな魚であると言った。その理由は孤独でかわいそうであるからだ。その言葉どおりの人生をイスは生きる。
サングクが収監された後はイスが生き残って妹らと幸福に暮らせばいいものを、孤独な鮫はひとりで死んで行かねばならない。本作は最後の2話で新たな事実がわかる。イスの協力者であった若い検察官は、自分の父がイスの父によって殺されたことを知り、イスに銃口を向け発砲する。それはサングクの眼を欺くための演技で、油断させておいてサングクを追い詰める。古本屋は自殺し、サングクは逮捕されて安心と思っていたのに、サングクはそう簡単に倒れる人物ではない。人をいくらでも操れる人間はいて、初めて登場した殺し屋にイスはあっさりと殺されてしまう。獄中で笑みを浮かべるサングクが映るところ、すぐに出所するのだろう。イスの父は拷問官であったので、悲惨な死に方をするのもやむを得ないという気もするが、罪のない息子まで同じように巨悪に抹殺されるとの筋立てはやはり虚しい。イスが死ぬことは、やくざであるという理由づけが出来なくもないが、イェジンやジュニョンがそのままこれからも暮らして行くようであるから、金と権力を持つ者は、たとえ親が悪いことをしても人生は安泰ということで、これも後味が悪い。罰せられてしかるべき人物がそうでなかったりするのが現実であるから、このドラマは現実の醜さと弱者の末路を正直に描いているのかもしれない。これは実際に聞いた話だが、弁護士であったか、検事であったか、法曹関係の有力者の息子が交通事故を起こした。無免許運転だ。100パーセントその息子に落ち度があるのに、両親は保険会社に圧力をかけて来た。事実とは違う申告をして、保険金を支払えと言うのだ。それは担当者の考えひとつでどうにでもなる。良心があれば出来ないことだが、毎月多額のかけ金を支払っている顧客となれば、それも揺らぐだろう。そこを突いてその家族はゆさぶりをかけて来たのだ。日本も韓国も正直が仕事であるはずの人間が実際は一番金に汚いということだろう。本作は夢も希望もなく、正直に働く者は富とは一生無縁ということを再確認させる。韓国での評判はどうであったのだろう。