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●『生誕100年 今竹七郎展』
今日資料が出て来て、西宮市大谷記念美術館が建て替えられて新しく開館したのは1991年1月15日であることがわかった。先日、阪神大震災の1年ほど前と書いたが、実際は4年前であった。



●『生誕100年 今竹七郎展』_d0053294_022438.jpg震災があった年に一度訪れた気がするが、いずれにしてももう10年近く行ってなかったと思う。この美術館は、元昭和電極社長の大谷竹次郎が昭和46(1971)年8月31日に、長年収集して来た数百点の近代絵画をその宅地、邸宅とともに美術館設立を条件に西宮市に寄贈したことがもとになっている。筆者がよく訪れた頃は門を入ってすぐに木造の展示室があった。それは大谷氏の旧邸で、そこを一部改装して展示ケースを置いていたのがその後1977年に収蔵庫や展示室となる新館が建築された。この新館は白い色の鉄筋コンクリートの2階建てで、最初の木造の建物とは廊下でつながっていた。ところがこのふたつの建物全体は老朽化を理由に1989年に増改築が着工され、翌年に竣工した。それが現在の美術館だが、白の鉄筋コンクリート2階建ての新館はわずか12年で壊されたことになる。これは仕方ないかもしれない。木造の展示室と鉄筋コンクリートの建物は調和していたとは言いがたかったからだ。いっそのこと最初から邸宅であった木造の建物を取り壊して大きな鉄筋コンクリートの建物を建てればよかったと思うが、市にすればこの美術館程度の建物ではたいした予算ではないのかもしれない。現在の延床面積は4740平方メートルだ。これは以前、つまり1989年以前の倍より少し多い。ゆったりとした空間で鑑賞出来れば心まで落ち着くという面はあるが、あまりに館内が広いと、観て回るのに疲れる。だが建て替えられてからは絵画実技講座やミュージアム・コンサートを開いているらしくて、そうなれば現在の床面積は必要だろう。企画展だけが美術館の使命ではなく、地元住民の要望に応えた活動が基本であり、この美術館が震災以降あまり目立った企画展が開催されないとしても、それはそれでちゃんと館や市が考えてのことに違いない。
 昭和電極という会社は今はもうないと思うが、その社長が美術品を収集していて、それを市に一括寄贈するというのはなかなかいい話だ。通常はこうは行かない。大抵遺族となる身内が寄り集まって金になるものをぶん取って行くであろう。せっかく生涯かけて収集したものが散逸せず、しかも自分の名前を冠した美術館が邸宅のあった場所に建てられるのであるから、収集した甲斐もある。前にもどこかで書いたが、美術収集家が老年に達し、自分の集めた作品の行く末を考えて困っているという話を聞いたことがある。子どもがおらず、自分が死んでしまえば周りの者は誰も作品の価値がわからない。しかし、生きている間は手元に置いておきたい。何十年もかけて集めたものをまた順に手放すのは辛い。この心境はよくわかる。美術館に寄贈すればいいようなものだが、さほどまとまった量でなかったり、また版画というあまり価値のない美術品であれば、受け取ってくれる公的機関はほとんどないかもしれず、あったとしてもまともに管理され、定期的に公開される保証はない。それどころか手荒に扱われて、ある日紛失したことがわかったという可能性の方が大きい。公的機関もしょせん普通の人間の集まりで、絶対に寄贈したコレクター以上に愛情を持って作品を扱ってはくれない。そんな無残とも言える状態になるのであれば、たとえばネット・オークションでもいいから、売ってしまう方がいい。人間は現金なもので、自分で出した現金に見合った愛情を品物に注ぐからだ。美術品と言われてもピンとは来ず、自分がいくらのお金を出して買ったかで価値を判断し、愛情を注ぐ。ところで、大谷氏が収集したコレクションは粒揃いばかりではない。収集は比較的新しかったようで、また特別にこだわりがあったわけではなく、名声の高いフランス近代から現代の画家や、梅原龍三郎や横山大観といった有名日本画家のものを、いわば総花的に買った様子がある。「あそこにはあれがある」といった売りになるような特徴的な作品がない点は、玄人的な美術ファンからすれば物足りない。しかし、これは社長業の傍ら収集するという立場を考えれば仕方のないところもある。一方、その万人向きの収集の点からすれば、こうして市が運営する美術文化の拠点としての役割を担うにふさわしい。寄贈されたコレクションを常設するための場と言うよりも、むしろさまざまな形で美術館を使用するという方向にあるようで、それはあるいは大谷氏の思っていたこととは若干違うかもしれないが、市民が喜ばなければ元も子もない。
 さて、今竹七郎展だ。入場料が500円だ。安い。今は1000円以上するのがあたりまえになっているから、それを考えると今竹七郎の名声の低さがわかる。500円程度でなければ誰もやって来ないと美術館は考えたか。展覧会に副題がついている。「モダンデザインのパイオニア 制作からコレクションまで大公開!」だ。チケットとチラシは同じデザインで、黄色と黒、それに少しの赤で印刷されている。インパクトが強い。今竹七郎の名前は知らなくても彼のデザインした商品は誰でもどこかで見ている。それを示すと興味を持つ人もあるだろう。商品のポスターやパッケージのデザイナーはその商品が一般化することが勲章であり、自分の名前が前面に出る必要はない。そのために今竹の名前を知らない人は多い。筆者も名前を知る程度で、深く意識したことはなかった。デザイナーを取り上げる展覧会はここ10年ほどはたまにあるが、展覧会と言えばどうしても画家や彫刻家に光が当たり、デザイナーは後回しになる。近年は大正や昭和時代のグラフィック・デザインを展示する展覧会がよく開催されるが、それらにしてもデザイナーの名前にさほど関心は払われず、有名無名の手になるものをごちゃまでにしたさまざまな印刷物によって、時代がどういうグラフィック・イメージを持って来たか示そうとする。そうした展覧会の一方、時代を画したデザイナーにも光を当てて行こうとする動きは当然出て来る。その一例がこの今竹の紹介だ。他にも有名なデザイナーがいるのになぜ今竹かと言えば、神戸生まれでずっと関西で活動し、後半生は西宮市に自宅アトリエをかまえていたことによる。いわば郷土作家の紹介だ。最後の部屋に置いてあった図録などの資料で知ったが、今竹展は1989年6月に『関西デザイン界の開拓者-今竹七郎の世界』、1998年10月にはこの大谷記念美術館で『モダンデザイン・絵画の先駆者 今竹七郎展』が開催されていて、生前の今竹はどちらも見ていたことになる。2000年に94歳で亡くなったから、今回は没後初の大規模展だ。広い会場をよく生かした展示で、今竹の作品紹介だけではなく、趣味で収集していた鉄道模型やオーディオ装置、LPレコードなども展示され、人柄がよくわかった。仕事時に大音量で音楽をかけていたというが、LPはたとえばヴィヴァルディの『四季』が20種類ほどまとめられていたり、キング・レコードの民族音楽シリーズ、ビートルズなどのポップスやジャズなどさまざまで、何か特別の音楽にこだわるという姿勢は見られなかった。LPはジャケットがデザイナーとしては資料になるので、今竹に限らず音楽ファンであることは珍しくはないどころか当然と言ってよい。
 今竹の生まれが明治38年の神戸市下山手と聞けば、やはり重みを感じないわけには行かない。明治生まれだけでも何だか凄いが、それがずっとデザイン畑で活動して来たのであるから、まるでデザイン界の生き字引みたいな存在と言ってよい。5歳の時にビーフシチューを食べたことが洋食偏向の始まりだったそうだが、幼児からハイカラ趣味が染みついていたことになる。14歳の時の理科のノートがあった。きっちりとしたイラストや文字からしてすでにデザイナーの萌芽がある。だが、あえて書けば筆者も小学6年生や中1の頃に同じ程度のノートは書いていた。学校の先生がそれを示してみんなの前でよく自慢してくれたのを思い出す。今竹は15歳の頃に文学に傾倒し、謄写版で同人誌を作っていたが、同じ時期にヴァイオリンを買ってヴァイオリニストの門をたたいていたというから、絵、文学、音楽となかなか多感な少年であった。また、そうしたエピソードから思うのは、そこそこ裕福な家庭であったことだ。筆者のように生活保護家庭では、夢があっても芽の育てようもなかった気がする。この今竹の裕福ぶりはずっと変わらないどころか、ずっと仕事に恵まれ、経済的成功者としての印象も強い。22歳で今竹は神戸大丸意匠部に入社した。この年に大丸は元町4丁目から現在の三宮神社前に進出し、鉄筋コンクリート8階建てとなった。大丸では店内装飾や飾窓、催事構成、広告デザインと、幅広い作業をこなしている。4年後の1931(昭和6)年には二科会員に推された高岡徳太郎の後を受けて高島屋に入社する。1930年は第2階国勢調査で大阪は東京を抜き、地下鉄御堂筋線が着工されるなど、大大阪時代を迎えていたし、高島屋も長堀店をしのぐ現在の南海店が開館した時期でもあり、今竹は一躍売れっ子デザイナーとなって行った。会場で最初にまとめて展示されていたが、昭和9年から18年にかけて、ランラン油粧料本舗の福田源商店のポマードやチックなどのシリーズ広告を手がけた。れらは黒一色の印刷で、余白や省略が生きていて、まさにイラストもレタリングもまさにモダン・デザインそのもの、時代の空気を代表していたと言ってよい。その仕事における地道で的確、そして何年にもわたって同じイメージを保つ粘りは、今竹を真のグラフィック・デザイナーとして鍛えあげた。同じようにシリーズの仕事となったものに、昭和22年から数年続いたキャバレー・モナコの室内装飾と広告宣伝がある。ポスターの色合いやレタリングを見ると、筆者の幼少の頃の空気が眼前に蘇る。確かに絵画や彫刻の造形作品が時代を特徴づけるが、こうした広告デザインはもっと生の形で、しかも切ない気持ちで時代を想起させる。今竹の高島屋時代は1950年まで続くが、この時代は写真の多用が目立ち、ここに今竹の映像にこだわる姿勢がすでによく現われている。
 会場には今竹が収集したさまざまなカメラや映像機器が展示されていた。1970年の大阪万博を映したフィルムの一部も上映されていて、いかに今竹が新しいメカや新しいお祭り事を好んだかがわかる。流行を作って行く立場にあるデザイナーとすればこれは当然のことだが、いかにも生活をエンジョイしている様子がどの作品からも伝わって来るのがよかった。だが、例外もある。それは住友銀行のポスターだ。今竹は終戦直後の1946年に元町に「日本デザイン」というスタジオをかまえた。翌年に御堂筋大丸前に移転して「今竹造形美術研究室」と改めた、56年には株式会社にした。日本デザインを起こした年、住友銀行が全国に先駆けて宣伝業務を始めたが、今竹はADとデザイン顧問業務を委嘱された。一方、GHQは占領政策のひとつとして財閥解体を行ない、住友銀行は1948年10月に大阪銀行となった。今竹はこのシンボル・マークをデザインしたが、52年に規制が終了しまた住友銀行に戻った。会場では今竹の1945年から52年にかけての住友銀行、大阪銀行の一連の仕事の中からポスターが中心に飾られていた。銀行ということできっちりとしたイメージが求められたのであろうが、それでも戦後間もない時代を強く感じさせる一種の圧迫感や固さのようなものがあった。その空気もまた筆者にはよく感じ取れる気がするが、あまりいい気分はしない。戦後の活躍も目ざましいものがあり、1951年には東レ、住友化学、近江兄弟社、55年には新日本電気(NEC)、57年には丸善石油(現在コスモス石油)のADをそれぞれ委嘱されている。あまりに仕事量が多いのでここでいちいち上げていられないが、誰でも日常よく目にする代表としては、株式会社共和の輪ゴムの「オーバンド」のパッケージがある。チョコレート色と山吹き色の箱だ。あるいはメンソレータムの看護婦の少女を思い浮かべてもよい。また、関西電力のマークは関西の人なら誰しも見ればそれとわかるだろう。こうしたデザインの仕事もその底に画家としてのデッサン力があったからこそだ。それは自分の手で直接紙に描くことが根本となっている。高島屋時代の今竹が極細のペンで描いたイラストを見れば、いかに繊細で的確な描写が得意であったが一目でわかる。それは最初からパソコンを扱っている人では絶対にかなわない能力だ。今は今竹のような手書きのレタリングやイラストが時代遅れと言われるかもしれないが、そう言い切る前に今竹の力強い感覚を見つめ直すとよい。みんなが同じ便利な機械を最初から使用すれば個性は出にくいのではないだろうか。しかし、今の時代の商品はそうしたもはや異質とも思えるような手書きによるイメージを求めてはいないのかもしれない。それにしてももう今竹のような人は出ないだろう。いい展覧会であった。また数年後に開催すべきと思う。
by uuuzen | 2005-11-07 23:52 | ●展覧会SOON評SO ON
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