焚き木にされるところであったかもしれない建物を青蓮院が譲り受けて移築したのが青龍殿で、元にあった場所と建物の名称は、北野天満宮の鳥居前、今出川通りを挟んで南の上京警察署のさらに南にあった「平安道場」と呼ばれる剣道場だ。

チラシにはそこまで詳しく書いていないが、昨日ネットで調べた。思いのほか長く時間がかかったが、警察署の南は昭和40年代後半はまだ鬱蒼とした森であったらしい。今は樹木がほとんどないように思う。今出川通りに面した北野天満宮の境内だが、今出川通りが現在のようにバスが通るほど広くなったのはそんなに古いことではない。千本今出川の交差点の東向き、すなわち天満宮に向かう筋がまだなかったか、あっても細い路地であった頃の写真をネットで以前に見たことがある。その当時の北野天満宮は現在の大鳥居より200メートルほど南にも大鳥居があって、それほど境内が広かったのが、今出川通りが千本今出川交差点より西と同じ幅に広げられてからは、今出川通りより南は境内ではなくなった。それはさておき、大正3年の大正天皇の即位を記念して「平安道場」が建てられたので、ちょうど100年目にして青龍殿として蘇った。老朽化がひどくなり、取り壊すしかないと考えられていたようだが、GHQでさえ保存しようとしたものを日本が壊していいのかという意見が出て、ようやく青蓮院が譲り受けることになった。総檜造りだが、取り壊せば焚き木にしかならない。日本では建物の取り壊しは伊勢神宮からしても歴史がある。壊した後に同じものを建てればよいという考えは、火事で焼け落ちることが多かったからで、焼けないのであればそのまま使うというのは当然だ。さいわい「平安道場」は雨漏りはひどくなっていたらしいが、焼けずに済んだ。それで奈良の宮大工に解体と移築を依頼し、またその際に修復や一部改築も行なって同じ京都市内で新たな命を得ることが出来た。元の場所にあった「平安道場」を見ていないので何とも言えないが、警察署の裏手でせせこましく建っていたのではないだろうか。それが山の上でとても目立つようになったのは建物に魂があれば誇らしいだろう。昨日載せた2、3枚目のパノラマ写真に青龍殿が写っている。2枚目は舞台の端から青龍殿を向いて撮った。舞台は板敷きで、この広さは清水寺の10倍あるという。これほどは広くないが、嵐山の法輪寺の舞台も似た形をしている。その舞台からは渡月橋が眼下に見え、また嵐山の樹木が1本ずつ間近に迫り、それを眺めるのが筆者は好きだ。それに比べると、青龍殿の舞台は眼下の景色が広大なパノラマとして広がるのはいいが、山の上にこのようなものを造ってもいいのかという気が多少はした。それに舞台にいて視界を遮るものは青龍殿だけであり、またその建物はさほど大きくないので、風が強い時は吹き飛ばされそうになるだろう。昨日の2枚目をもう少し説明すると、青龍殿は真裏が見えている。そしてその真裏は写真からわかるようにかなり出っ張っている。その部分は夜でも新しい木材であることがわかる。道場ではそのような出っ張りは必要ない。これは移築に際してつけ加えられたものだ。その出っ張りの部分は国宝の青不動の大きな掛軸を飾ってある部分で、2枚目の写真はその青不動の裏側を見ていることになる。この出っ張り北側にあると思うが、それは昨日の3枚目、そして今日の最初のパノラマの夜景写真を比較すればわかる。昨日の2枚目は青龍殿から数十メートル離れた高台で、以前はどうであったか知らないが、階段がついていて訪れた人が遠くを眺めやすいようになっている。そこから見る夜景が今日の最初の写真ではない。青龍殿の舞台から見たもので、そこからの方が視界は遮られずに済む。

では何のために昨日の3枚目の撮影場所が順路として用意されているかだが、それは青龍殿を眺めるのと、眼下に紅葉があるためだ。その紅葉の写真は昨日の4枚目で、すっかり落葉しているが、盛りの時はライト・アップによって青不動を取り巻く火焔に見えるだろう。それを思えば1か月ほど早く訪れておくべきであった。まだその頃は寒さもさほどではなかったろう。もう写真を説明すると、昨日の3枚目の青龍殿の左端の屋根先に少しだが、舞台が写っている。足元を照らす灯りが「く」の字型になっていて、その折れ曲がる付近で筆者は昨日の2枚目を撮った。つまり、青不動を収める出っ張り部分は3枚目の写真には見えない。出っ張りの反対側が正面で、それは3枚目の唐風破風が見えているのでそれとわかるだろう。そこから内部に入り、方形の内陣の突き当りまで進むと、賽銭箱の10メートルほど向こうに青不動がかけられていた。美術館よりはるかに遠く飾られているので、雰囲気が伝わるだけだ。平安仏画で、全体に褐色を帯びているが、火焔は本物のそれのように明るく、描かれた当時よりかえって迫力が増しているだろう。また青不動とはいうものの、緑色味が強い。本当は青であったのが、全体が褐色を帯びて緑っぽく見えるようになった。青龍殿に行けばいつでも見られるということになったはずで、この仏画にとっては格好の永住の地が出来たことになる。それはさておき、昨日の3枚目の左半分に写る夜景と今日の最初の写真の夜景を比較してほしい。同じ方角を向いて撮っていることがわかる。今日の写真で説明すると、左端の山影から斜め左上方向にひときわ明るい直線が見える。それが四条通りだ。そこから写真の縦方向のちょうど半ばを水平に右へと、明るい大きなビルが連なっている。それらは河原町通りで、それらの連なりの終点に、強く輝く尖塔状の灯りが見え、それより右手すなわち北側は急にビルの灯りが減じている。尖塔状の灯りは御池河原町北東に建つ京都ホテル・オークラだ。その灯りの右上に大きく広がる暗闇の細長い楕円は御所で、そのずっと上の暗がりの中に嵐山がある。そして望遠鏡があれば法輪寺の舞台が見えるはずだ。尖塔状の灯りは今日の2枚目の右端近くに見えている。この2枚目に写る範囲は筆者が最もよく歩き回る京都の繁華な区域だ。それはともかく、青不動が収まっている建物の出っ張りが北を向いていることは以上の説明からわかるだろう。「平安道場」を移築する際、どのような向きに建てるかが議論されたのか、それとも正面玄関を南向きに持って来ることは最初から決められていて、それは元の場所に同じ向きに建っていたからかもしれない。あるいは、青不動を拝むのに、人々は北を向くべきという決まりがあるのかもしれないし、舞台をどのように造るかによって決まったかもしれない。またその舞台は今日の最初の写真のように市街のほぼすべてといってよい部分を眺めることが可能なように広さや向きが決められたのではないだろう。それは訪れる人たちへのサービスという面もあろうが、将軍塚の意味からして、京都を鎮護するという役割を青不動も一緒に担ううえで、必要と考えられたに違いない。それはともかく、昨日の3枚目は青龍殿をやや見下ろし、自分が鳥や龍になった雄大な気分に浸れる。それを見越して、舞台に立った後はその場所に立つ順路が考えられたのだろう。舞台より高い位置なので、舞台とは違って山科区の灯りも見える。それにとても驚かされたが、そのことだけでも訪れた価値があった。
とはいえ、山科側の街の灯りは少なかった。それは樹木が邪魔をし、またもともと山科区は灯りが少ないからだ。筆者が山科区の灯りを見ながら、その写真を撮ろうかどうか迷っていると、そばにいた家内が40代半ばの眼鏡をかけた男性から話しかけられた。山科方向にオリオン座が見えるというのだ。そう言えば、星は嵐山からよりも多く見えた。どこがオリオン座か筆者にはわからなかったが、男性はまた「あそこですよ」と言って笑いながら階段を下りて行った。その時筆者が思い出したのは将軍塚からはあまり離れていないはずの花山天文台だ。今調べると将軍塚の南東2キロほどの山科区にある。東山は星を観察するのに最適と見える。そう言えば山科区の花山にある阿含宗も星まつりで有名だ。これは前に書いたことがあるが、また書いておくと、筆者が小学5,6年生の頃の京都の真冬の晴れた夜空は、星が無数に見えた。従姉に北斗七星を指し示してもらった時の感動は今も忘れない。昭和30年代半ばの大阪市内ではもはや北斗七星はどうにか見えても、そのほかの小さな星は見えなかった。小さな頃のその星がいっぱいの夜のことを思い出すと、人間に大切なものは失ってからわかることを実感する。今でも当時と同じ無数の星を見ることの出来る国や街はあるだろうが、日本では夜空の星と引き換えに夜間照明を発達させ、京都を代表するホテルではビルの屋上から地面に達する尖塔型のクリスマス・ツリーのイルミネーションを飾りつける。そしてどの都市では光の祭典を毎年繰り返し、それにつられて家庭でもLEDの飾りつけを家の外に巡らす。星を見ずに、いや、見えなくなったので、代わりに人工の星をいうわけだ。それに慣れた子どもに一度冬の寒い夜空に星が無数に散らばっているところを見せればよい。「お母さん、家の灯りやイルミネーションを全部消してよ。その方が星がもっときれいに見えるよ」。青龍殿の舞台に立って筆者は京都市街の灯りが広がる様子を撮影したが、星があるかどうかは確認しなかった。それは、星に気づかないほどに星が見えにくくなっている空気が汚れた空であることと、街の灯りの方が明るく、星がかすんでしまっているからだ。それで、前述の男性がオリオン座を指し示したことに虚を突かれた。街の灯りを見ずに星を見るために夜の青龍殿を訪れるべきかもしれない。今日の3枚目の写真を説明しておくと、拝観時にもらった蓮華だ。濃い群青色の紙に金箔のエンボス加工で青不動を表現している。裏面にはこうある。「若有聞法者 無一不成佛」。この口語訳が続けて印刷されているが、それは書くまでもないだろう。もし法を聞く者があれば、仏とならないものはひとりとしてない。この蓮華と同じサイズでもう1枚封入されている。表に「大聖大悲 青不動明王 悉地成就」、裏に「願意 願主」とあって、願いことと名前を書く。これを青龍殿内部の賽銭箱前に並べられた机の上で墨書きし、賽銭を投げ入れた後、その両脇の白い布を敷いた場所に投げる。その一連の様子を青不動がしっかりこちらを睨んでいるという寸法だ。筆者と家内は別々の願いを書いたと思う。この蓮華は青蓮院と青龍殿の双方で同じものをもらったので、写真のように4枚手元にある。1枚ずつ写真立てのように組み立てる紙がついていて、それに濃紺の蓮華を飾っておくことが出来る。青不動の展示だけのためとしては広過ぎる青龍殿内部のように思えるが、中に入ってみるとそのようには感じない。床板はかなり磨滅し、100年の間、剣道の稽古に使用されて来たことがわかる。道場の張り詰めた空気がそのまま移転され、青不動と雰囲気がよく似合っている。焚き木にされなかったのは幸運で、日本が今後、金がかかろうとも古い建物を積極的に保存して行こうという機運に貢献することを願う。青蓮院では復元模写した青不動の展示があったが、それは見なかった。そう言えば青蓮院にも入ったことがない。いつでも行けると思っている場所ほどそうなる。京都に住む人のほとんどがそうだろう。今度は季節のいい時に徒歩で将軍塚に行ってみたい。