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●『SIMON DOLL 四谷シモン』
磨在住の張子作家が郷玩文化の会に在籍していて、今月14日の例会ではその人は欠席されたが、最近新聞にその作家のことが載ったことを報告してくれた人があった。その作家の工房に赴いて製作の様子などを見て来てのことで、仕事が舞い込んで多忙であるとの話であった。



●『SIMON DOLL 四谷シモン』_d0053294_12434494.jpg仕事のひとつは無印良品の会社からの依頼で、来年の干支の張子の製作だ。その会社は近年毎年郷土玩具をひとつ選んで商品に封入しているようで、彩色しない青森の無地の鳩笛が使われたこともあって、それをネット・オークションで見たことがある。それはさておき、神戸には昔、主に外国人向けに売られた張子があったらしい。廃絶して、種類によっては作品がほとんど残っていないが、幸いなことに姫達磨のかなり保存のいいものが見つかり、須磨の作家はそれを復元した。同じ絵具が入手出来ないので全く同じということは無理だが、ぱっと見はほとんど同じものが作られるようになり、新聞にはそのことが中心に記事になった。その作家は中学校の先生をするかたわら、40歳くらいから趣味で張子を作り始めた。それがもう30数年続いているので、神戸、須磨を代表する張子作家になっている。だが、安価な郷土玩具であるから、よほど数を作らねば生計を立てるのは難しいだろう。それでも作っていると楽しいし、人に喜ばれるのであれば、儲かる儲からないは二の次だろう。ま、郷玩文化の会についてはまた後日書くことにして、今日は人形作家の四谷シモン展だ。BGMは彼が名前を引用した黒人歌手のニーナ・シモンをYOUTUBEで聴いている。3年ほど前、ネット・オークションに四谷シモンの人形が出品された。本物であったと思う。初期か中期の作か、60万円ほどであった。それを画面で見ながらほしいと思った。買えないことはなかったが、その金はほかの作品に化けた。それはいいとして、シモンの人形が出品されていることを大志万さんに話すと、彼女はシモンに関心があるらしいことがわかった。筆者が買いたいと言えば、買えばとの返事で、彼女としては実物を間近に見たかったのだろう。それほどシモンの作品を見る機会はない。特に関西ではそうではないだろうか。だが、その出品を知った時に少し調べると、数年前に四国の坂出市の醤油屋に専門の展示館が出来たことがわかった。シモンの人形に惚れ込んだ人が収集家となり、それを公開しているもののようだ。瀬戸内海をわたらねばならず、なかなか行きにくいところにあるが、その方がシモンの神秘性が保たれるようでいいかもしれない。関東の人にとっても、京阪神の人にとってもそうだ。有名作家の美術館が地方にあることは、地方再生につながる大きな道と思う。だが、その前に、あるいは同時に、国民の芸術に対する意識を高める必要がある。小学校でヒップホップのダンスを教えるのもいいが、もうその頃に一流の芸術作品を身近に頻繁に見る機会を与えておかねば、一生それに無関心で無縁の人生を送りかねない。教育現場では美術は片隅に追いやられ、進学テストにも関係がなし、それで芸術に無関心でも恥じないどころか、芸術に現を抜かすとは何事かとむしろ芸術否定をする大人が量産される。大志万さんに四谷シモン展が開催されることを話すと、長年西宮市大谷記念美術館に行っていないというので、よほど筆者は誘おうかと思ったが、それを口に出さずに、「御主人や娘さんと出かけたら?」と言った。すると彼女は「主人は四谷シモンと言っても、『それ何?』と言うに決まっている」と返事し、美術通ではないことを匂わせた。とはいえ、四谷シモンの展覧会を知って見に行きたいと即座に思うのは美術好きでもまた格別かもしれない。知る人ぞ知るというほどではないが、作品を目の当たりにする機会は乏しく、関心を抱くのはよほど常に自分好みの作品がどこかにないかとアンテナを張っている人だけだろう。
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 シモンの作品は等身大に近く、またもっと大きなものもあり、小さなものもあるが、子どもが抱くような小さいものではない。そのため、たとえ入手しても普通の家では飾る場所に困る。立体であるから壁際に置いてもかなり出っ張るし、邪魔になって仕方がないか、あるいは置いていることを忘れて埃まみれにしてしまうかのどちらかではないか。それでは人形に悪いから、よほどのファンしか手に入れようとは思わないだろう。また1点ずつ手作りなので、1年に10体も出来ないはずだが、シモンは今まで何点作ったのだろう。弟子をたくさん使えば量産出来て価格も下げられるが、そうして作っても売れる数が増えるというものでもないように思う。またシモンにしてもそのことにあまり関心がないのではないか。今回複数生産された人形が展示されていたが、それは作品集の本に添えられた平たい箱入りの少年の上半身で、体の内部が一部刳り抜かれて歯車類が見えていた。大きさは実物の2分の1ほどか、子どもが抱く人形より大きいが、人間よりはかなり小さい。本の付属であるからその程度が限界だろう。これが確か25部程度作られ、そのうち5点ほどが横並びに展示された。25程度の数で、しかもさほど大きくなければひとりで作ることは出来る。シモンの人形は後述するように、型抜きの技法で作るから、量産は可能だ。ただしそれはリサ・ラーソンの陶磁人形のように簡単ではなく、1点ずつ手加減によって出る差が大きくなりやすい。銅版画にしても複数刷ったものは全部微妙に仕上がりに差が必然的に出るので、型の仕事であっても手を使う部分が多い限り、機械印刷のように全く同じものは出来ない。
 そこを利点と捉えるか、欠点とみなすかで芸術観の大きな差が出るが、それは人間対機械の関係をどう考えているかで、単純作業は機械に任せるのが人間の幸福につながると信じて疑わない人と、単純作業でもそこには無限の取り組み方があって、時に牧歌的に楽しく時間を過ごすことが出来ると思う人とがあって、前者には芸術を理解しない、またそれがなくても少しも不幸を感じずに人生を送れる人が目立つ。それはともかく、シモンの人形からでも人間対機械の対立、そして共生のようなものに幾とおりにも思いを馳せることが出来る。それが芸術の存在意味でもあるから、芸術はやはり人間にとって必要であり、後者の考えを抱く人は前者の考えにしたがうわけには行かない。それはさておき、機械文明の真っただ中にあって、最初に書いた張子作家を思うと、それはほとんど世間では存在がわからないほどに小さく、また意味もないような作業に従事していると言ってよいが、そうであるからこそなくてはならない。何かの役に立つということは人が思うほどに単純なことではない。失われた張子を復元しようとする人があることは、失われて当然、あるいは仕方のない、すなわち役に立たないものをそうとは思わない人があるからで、大量生産されるものだけが役に立つと考えるのはあまりに考えが浅い。だが、手作りの仕事で生活が成り立つのかという疑問を誰しも抱くし、有名作家への道は遠いので、ますます手作りは敬遠されがちだが、そうであるからこそ、現存の有名作家の展覧会は人気があるのだろう。図録を買わなかったのでわからないが、シモンは生活の糧を得るために作品を全部手放しているのだろうか。生徒数がどれほどなのか知らないが、人形作りを教える教室を開いているので、製作を続けるだけの収入にはなるのかもしれない。それさえかなえば、作家はあまりほかに望むことがない。また郷土玩具の作家とは違い、芸術家となると、同じ製作時間を使っても桁違いの収入になりやすい。本展のチラシを確認すると、46体の出品で、それらを6つのコーナーに分けて全時代を万遍なく網羅していた。製作途中の人形が玄関ホールの大きな作業台に載せられ、またそこだけは撮影が許可されていた。今日の最初の横長写真はその正面全景で、赤いドレスの少女人形の周囲は作業途中の各部が置かれ、謎めいていた彼の人形の内部構造がよくわかった。その写真を今日は最後の2枚に載せる。
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 会場となった西宮市大谷記念美術館は阪神大震災後に建て直され、どの部屋も明るいが、それがシモンの人形の展示にふさわしいかと言えば、場合によりけりで、初期作は照明を落とした薄暗い部屋に展示されていた。暗黒のイメージを持つ作品のためにはそういう工夫は必要だ。人形はもともとひっそりとした味わいがある。伏見人形でもそうだ。見る人によっては不気味なもので、人形を愛好する人はだいたいどこか変わっている場合が多い。シモンの人形もそのように見られるが、人形は不気味だけではない。人間のあらゆる面を体現するもので、しかも動かず、言葉を発しないところが人間以上にどこか真実に迫っているように感じさせる。そのことは、仏像が日本に入って来た時に人々が思ったことであろう。仏像に対して西洋では最初はギリシアの彫刻であったものがローマ時代にキリスト教が盛んになってキリスト像が造られるようになる。シモンの人形は仏像とは縁がなさそうで、キリストの彫像の世界に近い。では西洋の人形作家の作品とどう違うのかという疑問が湧く。本展を見る前に筆者が思ったのはそのことだ。ハンス・ベルメールの球体関節人形に影響を受けたことは知っていたが、ベルメールのおどろおどろしい作品と違ってシモンの人形はあからさまなエロティシズムの表現は年を追うごとに減少して来た。前述の照明を落とした展示は70年代半ばのシリーズ「慎み深さのない人形」で、歯を見せた笑顔の娼婦らしき裸婦が黒いレースの下着などをまとう。臀部が腹の下に接続されるなど、異様な迫力があるが、説明によればピエール・モリニエの影響とあった。シモンはモリニエの作品に一時期感化されたのだが、ベルメールの次にモリニエというのは脈絡としてはよくわかる。静謐で残酷なイメージのベルメールより、グロテスクで肉感的な裸婦の迷宮にどっぷり嵌りこんだモリニエ色が濃厚な人形を作ったのは、状況劇場に出演していた当時の熱気を保ったままの若さの反映であろう。「慎み深さのない人形」はシモンの作品としては極端な部類に属する。それゆえ、その大きな揺れを戻すような人形が作られる。そしてそれがシモンの代表作になるが、80年代以降のそうした作品は、むんむんするエロティシズムは減退し、少年少女趣味が露わになる。それは衣服の比重が大きくなるからとも言えるが、それ以外に西洋になり切れない日本の茶漬けの味わいとでもいった繊細さ、淡白さのせいだ。そのために坂出の醤油屋がシモン館を開いたのは納得が行くが、シモンの作品がソース味ではなく、醤油味だと言うのではない。モデルとなる少年少女や熟女、また熟年の男性はみな西洋人の風貌で、日本の作家のものと言われないとそうとは思えないものばかりと言ってよい。それはシモンの西洋かぶれかと言えば、それもあるが、活躍した時代の美術ブームの影響が大きい。
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 前に書いたことがあるが、作家となる人の感性は幼少時にほぼ決まる。環境、そして流行の空気を嫌でも吸収する。それが後々にまで影響する。それで昨日はリサ・ラーソンの作品にモダニズムの影響が大と書いた。シモンは筆者より7歳年長で、また渋沢龍彦と同席することがよくあったので、シュルレアリスムの圧倒的な影響を受けた。シュルレアリスムもモダニズムのひとつだが、ここでは狭義の意味に捉えて、文字どおり「超現実」すなわち「夢」的な要素を人形に込めたと言っておく。またもともと人形は「超現実」や「夢」の感覚を必然的に内蔵するものだが、やはり狭義に「シュルレアリスム」としておく。そしてそこからベルメールやモリニエへの関心につながったが、前者を知ったのは1965年、20歳の時にたまたま手に取った雑誌を見てのことという。作家は20歳前後で生涯を決定する出会いを得るもので、シモンも例外ではなかったが、ベルメールに倣ったのは関節を回転させ得る構造のみと言ってよい。ベルメールは人形よりも銅版画で本当の実力を発揮し、人形は妻をモデルとして暴力的な表現に特徴があって、やはりそれもベルメールが生きた時代と社会の影響が強い。ベルメールとは生きた時代も国も違うシモンがベルメールとそっくりな人形を作ってもそれは単なる模倣に留まる。それにそういう強い影響を受けないほどにシモンはすでに独創的な仕事をしていた。球体関節の導入は自在に首や手足の向きが変えられる、つまり動かすことが出来るという点を実現させたかったからで、それはより人間に近づいた人形を求めたからと言えるが、実際はそうではなく、立体であるからには、また動かない彫刻とは違った特長を具えさせたいために求めたことであって、人形の中にモーターを仕組んで自分の足で歩くことの出来るものまでは望まなかった。ただし、人間には内臓があるから、人形にもそのようなものを欲したことがあったろう。手足の向きを変えられるようになった次の段階は歯車を使った機械を内蔵させることというのは自然な発想で、シモンもそれを夢想し、やがて手伝ってくれる機械に詳しい人物と出会い、歯車を内部に組み込んだ人形を作るが、その段階でシモンは人形を自動で動かすことには興味はなくなった。つまり、自動人形には関心がないが、歯車を使ったのは人間の内臓に比すべきものとして人形にはそれがふさわしいと思ったからだ。人間そっくりな人形を目指すのであれば、内臓を象って組み込む。実際そうした人形はバロック時代のイタリアで作られ、昔筆者はフィレンツェのとある博物館でそういた人形を見たことがある。シモンの関心はそうした徹底した写実にはない。それはシュルレアリスムの画家たちがそうした絵を描かなかったことからもわかる。
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 70年代初頭に河出書房から『骰子の7の目』という美術叢書が出版され始めた。フランスの原書を訳したもので、12冊が出た。フランスではもっと多く出版されたが、日本であまりに馴染みのない画家は省かれた。そのことは新潮社が同時期に出した『創造の小径』叢書も同じで、日本の出版で西洋の美術が全部わかると思っていると大間違いだ。それはさておき、たとえばクロヴィス・トルイユのように、『骰子の7の目』でしかほとんど1冊の画集として紹介されないシュルレアリスムの画家があって、筆者はそういう巻にだけ関心を持ったが、20代前半というのはそのように未知の造形に関心が強く、シモンがベルメールの作品に目を留めたことはごく当然のことで驚くには当たらない。また、1965年は筆者はまだ中学生であるし、また大阪と東京では美術関係の本に出会う割合は、圧倒的に大阪は恵まれていなかったであろう。何が言いたいかと言えば、シモンが東京に生まれて、そこで多感な時代を過ごしたことだ。シモンは中卒で、独学で人形作りを学んだ。父はタンゴの楽師、母はダンサーで、留守がちな両親が土産に買ってくれた人形が幼少時の思い出で、さびしさを紛らわすために小学生の頃から人形を作り始め、有名な人形作家のもとで学びもしたそうだ。本展の玄関ホールで撮った写真からわかるかどうか、シモンの人形はまず粘土で各部を造形する。それを石膏で型抜きした雌型の内部に、和紙を何枚も重ね貼りして乾燥後に取り出し、球体関節で接続して彩色を施し、そして衣装を着せ、靴を履かせ、髪を植えつけるなど、仕上げをする。つまり、張子だ。最初に書いた張子作家と4か月前に例会で隣り合って座り、話をした。張子は2枚型で作ることが原則との考えに対し、筆者は福島の三春張子が大好きで、その人形のように各部分を接続したものであっても完成品が立派であればよいと応えた。シモンの人形は須磨張子のように2枚型で作られる単純なものではなく、三春張子に近い。ただし、1点に込める労力と執念は桁違いだ。その分より芸術的かと言えば、そう簡単に比較出来る問題ではない。三春張子はそれはそれで日本が生んだ一流の芸術だ。それはともかく、張子の原理を使いながら、表向きは日本の人形に見えないところにシモンの作品の独自性があり、20世紀後半の日本の文化のあらゆる面が反映されてもいる。
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by uuuzen | 2014-12-26 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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