幼虫と成虫で全く形が違う蝶だが、揚羽蝶の芋虫は緑を基調に黒や黄、赤の縞や斑点模様があって、何となく成長に似ていると思わせる。それでも芋虫が蛹になって蝶になる変態は生物界では最も不思議なことのひとつではないだろうか。

昨日書き忘れたことがある。正確に言えば以前にも書いたので、思い出したが書かないでおいた。それを今日は書くが、わが家の裏庭に20年ほど前、3匹の大きな芋虫が裏の小川に向かって猛速度で移動して行くのを見たことがある。庭のどこかで芋虫になったのだろう。蛹になるには適当な場所がないと思い、それで庭から脱出し、小川沿いのどこかを目指したと思う。芋虫にそんな知恵があるかどうかだが、あるのだろう。全身を前後にくねらす速度は葉を齧っている時の10倍以上はあって、それは筆者に見つかったことを察知したからに思えた。全身が黒で、赤、黄の小さな点が多少あった。毛はないので毛虫とは呼ばず、芋虫だ。大人の中指の長さはあって、太さはもっとだ。蛾になるのだろうと思って、これは殺しておいた方がよいと判断し、台所からスプレー式の殺虫剤を急いで持って来て3匹に噴射した。その時、ほとんど庭から出るのにもう1メートルというところで、殺虫剤が効いて来るはずなので、深追いはしなかった。噴射してすぐに悪いことをしたと後悔した。そのまま見逃せばよかったのだ。必死に逃げて成虫になろうとしているのに、それを毒殺することはないではないか。蛾になってもそれがどうしたというのだ。それに蛾ではなく、黒揚羽かもしれなかった。筆者の視界から消えた後、無事に蛹から成虫になってくれたのであればいいが、たぶん蛹になる前に死んだはずだ。それから10数年、今度は同じ庭に植えた山芋の葉にキイロスズメ蛾の幼虫が数匹孵った。葉を数時間もかからない間に全部食べ尽くしたが、その時はその幼虫をかわいらしいと思った。かわいそうに近くの山でも同じ芋はあまりないのだろう。それでわが家のほんのわずかな芋の葉に成虫は卵を産みつけ、孵った幼虫は餌に困ってしまった。それに懲りたのか、それ以降キイロスズメ蛾は毎年葉をつけるその山芋に産卵しなくなった。芋虫を見つけた翌年だったか、成虫が庭の壁に停まっているところを一度見かけたことがあるが、芋の葉の少なさに産卵を断念したのだろう。なかなか色も形も格好いい蛾で、また来てほしいと思っている。それはさておき、人間は変態はしないが、これを変な態度の意味からHすなわちスケベエなことと捉える。筆者が言いたいのはそのことではなく、昆虫のように変態しない人間だが、その欲求はあるのではないかということだ。中年男の女装趣味はそれかもしれない。いやいや、その話もどうでもよい。先に揚羽蝶の芋虫は成虫に少しは共通する雰囲気があると書いた。今日取り上げる展覧会の画家もそう言える。フォートリエの名前と代表作は美術ファンなら必ず知っている。大阪国立国際美術館でその展覧会の予告があった時、なかなか渋い画家を回顧するなと思ったが、チラシのキャッチコピーは「なぜこの顔を描いたか」で、これは気に入った。というのは、チラシに印刷される作品はフォートリエの代表作で、また筆者はその絵しか知らないも同然で、彼の全貌がわかるまたとない機会を楽しみにした。会期の最終日近くに訪れたが、本年で最もよかった展覧会であった。フォートリエという画家の切実さがよくわかり、また1898年生まれで1964年に死んだことがそっくりそのまま作品群に刻印されていて、時代に即して生きたことがよくわかった。鑑賞者はそういうことを作家が死んで半世紀以上経ってからなおよく知る。ヨーロッパで1898年から1964年まで生きたと言えば、ふたつの大きな戦争を挟むから、作品と戦争を切り放すことは難しい。戦争とは無縁の地域でのんびり描いたという画家もあるだろうし、そういう画家の作品が戦争を敏感に感じ取って影響を受けた画家の作品よりつまらないとは一概に言えないが、没後半世紀経つと、時代の特色と表現者を対比させて考察する傾向が強まる。時代の大きな流れの中で個人としての表現者がどう動いたかは、作品作りの意図を探る糸口になる。
本展は全3章から成り、第2章の部屋は黒いカーテンを開けて中に入るように仕組まれ、見せる工夫が全体によく凝らされていた。筆者が驚いたのは最初の部屋の最初からだ。作品目録では1番は「管理人の肖像」になっているが、これは2番目に展示された。入ってすぐの壁には風景画が1点あった。「イル・ド・フランスの風景」だったと思う。ヴラマンク風のタッチで、若いフォートリエにすれば、まずは父親世代に影響を受けたということだろう。ヴラマンクは暗くて激しい雪景色をよく描いたという印象がある。だがフォートリエは風景画に関心をほとんど示さず、人物、特に女性をもっぱら描くようになる。風景画ヴラマンクや他のフォーヴの画家がさんざんやったと思ったのかもしれない。それはさておき、まず風景画を見て、「ああ、なるほど」を思い、次の作品を見るために首を左に向けた途端、目に入ったのは「管理人の肖像」だ。これはチラシ裏面に小さく図版が印刷されるが、その絵を前にして筆者は声を上げんばかりに驚いた。写実的に描いた黒い上着姿の老婆の上半身像で、緑色を多用した老婆の顔は片目が見えないようだが、鑑賞者の方を睨んでいる。不気味と表現するのはあまりに月並みだが、モデルになった管理人はこの絵の出来栄えを見てどう思ったであろう。フォートリエは見せなかったのではないか。同時代のドイツのオットー・ディックスに似た画風と言ってよいが、1922年の製作であるから、第1次大戦の終わりから4年後だ。ディックスと同じように従軍したので、比較するのは無駄ではない。ただし、ディックスは風刺やダダ的な笑いが濃厚であるのに対し、フォートリエは寡黙で造形の本質をつかむことに関心があり、写実から次第に抽象へと向かう。ともかく、展示された中では最も古い作品の「管理人の肖像」が暗い絵であるのは時代と個人的な経験から納得が行く。第1章は1933年までの作品を集めたが、パリで描いたこの10年ほどの画風の変化は、芋虫が蛹になって行くかのようにスリリングで、また自然だ。抽象画はしばしば子どもでも描けると言われるが、急に思いついてさっと描いたと考えるからだろう。1点だけ見てはその画家の歩みはわからない。絶えず考えながら、暗闇を手探りするように少しずつ前進して行くのが画家で、その途上で描かれる絵はどれも関連し合い、また少しずつ変化が見えるものだ。そういう変化を目の当たりにするには本展のように初期から晩年までたくさんの作品を順に見て行くほかない。それは描かれた時代と作品との間にどういう関係があるのかを探ることでもあり、画家が時代をどう生きて普遍的なものを獲得したかを感じ取って充実感を得る。その充実感は当の画家がいかに真摯に時代と自分の内側を凝視したかを知ることで、表現者であれば誰でもそこから自己を振り返ることになるが、あまりの乖離から自己嫌悪に陥るか、あるいは手放しで当の画家を賛美することになるかは人さまざまで、筆者の場合はどちらもあるが、本展では後者が多かった。さてフォートリエは知人や娼婦など、モデルを使って写実的な肖像を20年代半ばまで描くが、そのうち女性の肉体に宿る本質に関心を抱く。女とは何かと思ったのだろう。会場の説明にあったが、当時は発掘などにより古代や先史の造形の情報がよくもたらされた。日本で言えば土偶は原始的な女人像で、フォートリエはそういう大昔の抽象的な人の形に魅せられた。だが、そうした発掘品を模倣する気はない。そういった抽象的な造形を一方で参考にしながら、西洋美術の歴史上の最先端にあって自分が考える女体の本質的な形はどういうものかを模索する。それは時代を背負い、自分の嗜好が反映した個性の産物になるが、同時に普遍性も獲得するだろうし、またそうでなければ意味がないとフォートリエは考えたはずだ。第2章で展示された裸婦は暗闇に浮かぶ娼婦といった毒々しさと、動物としての人間の根源性を感じさせるもので、素早く描かれた素描の割りにはどれも息苦しさを覚えさせる。単純なようでいて完成度が高く、また画風は留まらずに変態し続ける。そして肉体の本質を知るには平面ばかり描いていては駄目だと思ったようで、彫刻も作る。そういうところはいかにも西洋の芸術家で、平板に見えながら、モデルの全体を常に考えて描いている。
1930年代は一時製作しなくなる。その間どこか場所は忘れたが、ホテルやダンスホールを経営していた。これは食べて行くためだ。売れるような絵とは思えず、また売れたとしても安かったであろう。第2章は1938年から43年までを扱うが、最初は珍しく果物などの静物画を描く。デュフィの絵をもっと単純かつ暗くしたような感じで、また女性像で培った抽象化を行なっていて、画題の幅が広がると同時に、自己の様式をほとんど獲得したことがわかる。第2次大戦が始まってからはまたパリに住んで描くが、43年はドイツ軍の捜査から免れるためにパリ近郊に逃げ、そこで連作「人質」にとりかかる。チラシに印刷された月のような横顔はその一点で、目は大きな穴が開いたように真っ黒だ。実際これは目がえぐり取られた跡だ。人質というのは、ドイツ軍に捕まって拷問されたパリのパルティザンで、フォートリエは彼らの酷い姿を目撃した。ディックスも顔の一部や体の一部を失った人物をよく描いたが、フォートリエは抽象画であるので、拷問された顔であることはわからない。「なぜこの絵を描いたか」は、説明があって初めて知る。それでは絵画は不便なものだという意見があるだろう。だが、ある作品を鑑賞するのに、題名を読む程度のことは誰しも当然と思っている。作品の意図、意味を伝えるには、また知るには文字情報が欠かせないという考えが今では普遍化している。フォートリエの作品に「無題」とするものもあるが、ほとんどは何を描いたかを伝える題名がある。そこで、「人質」という題名を覚えるのに手間はいらない。その後、なぜそういう題名なのかと鑑賞者は思う。本展でようやく筆者はフォートリエがドイツ軍の残虐な行為で顔が破壊された人たちの「形」を主題にしたことを知ったが、パルティザンに同情したこともあったろうが、二度目に体験する戦争で人間の残酷さを悪夢のように思い出し、それを内側に溜めておくことが出来ずに表現に向かったのではないか。また、それはそれまでの自分のたどって来た造形に対する考えを補強しつつ前に進めるものになるしかない。そのことを、フォートリエは悲惨な出来事をも自分の創作のために無慈悲にも利用したと言うことも出来るだろうが、そういうことを詮索する気持ちを起こさせない迫力が彼の絵にはある。それは単純化された造形だが、その中に万感の思いが籠っているからだ。何もかも封じ込めた濃厚な密度とでも言うしかないものがあって、それは第1章の作品群と実にうまくつながっている。蝶の芋虫と蛹は形が違うが、そこにはそうなる必然が働いている。フォートリエの作品もそうで、さまざまなものを描き、また立体作品を時に作りながらも、どれもちょっとした思いつきで作ったという感じがない。第3章は大戦後で、さらに変態し、蝶になる。それほどに明るさを漂わせた作品が目立ち、また作家としての完成を見せる。筆者が一番驚いたのは「女のトルソ」と題するカラー・エッチングだ。版画も戦後に手がけたが、それは同じ作品を複数生産するのが目的ではなく、版画の上に手描きしてどれも違う作品を目指したらしい。だが、学生の手を借りながらそうして作った作品はあまり人気がなかったらしい。筆者が注目した「女のトルソ」は戦前から試みていた女性の肉体の本質をつかみ取る作業の頂点を成すものと言ってよい。トルソであるので手足はないが、その版画に描かれるそれはまるで太った芋虫で、曲がった背中の内側に乳房だろうか、何を表現するのか、尖った突起が3対ほどついていた。芋虫が外的から身を守る時の形で、フォートリエは女の肉体は芋虫のようだと思い至ったのかもしれない。筆者もよくそう思うが、フォートリエのように表現する才能がない。第3章で一番よいと思ったのは、1959年の「雨」だ。雨を造形化するとは面白い。今までにはなかったことだ。それは物とは言えないが、抽象化出来るもの、あるいはするに足るものと思ったのであろう。同じ時期に描いた「黒の青」はチケットに印刷された。子どもの落書きに見えるが、ここまで来るのにふたつの戦争を体験した。そして、この作品が突然変異のように描かれたものでないことは本展でよくわかった。フォートリエは同じ年に来日している。その時に撮影された写真が本展図録の表紙を飾った。その顔はデュシャンに似ながら、もっと苦味走っている。会場の最後に彼が少し映る15分ほどのフィルムが上映されていた。インタヴュアーと抽象絵画を論じていて、フォートリエは自作は思考の果てに描かれるといったことを言っていた。フォートリエはダンスが好きであったらしい。またジャズを好み、本展には「ALL ALONE」というジャズの名曲から引用した題名の油彩画が展示された。フォートリエは同時代の文学者とは交際したが、画家とはほとんど交わらなかったらしい。どんな表現者でも芋虫から蝶になって行くかと言えば、芋虫のままで終わる人がほとんどだろう。その点、フォートリエは紛れもない巨匠で、大きな蝶になって去って行った。