嵌め込み看板と呼ぶのか、観光地によくある、顔などの部分を刳り抜いた漫画イラストの立て看板は日本独自のものだろうか。何となくそんな気がするが、外国人観光客はあれを見て顔を嵌め込んで記念撮影をしたいだろうか。

筆者の記憶ではそんなことをしている外国人観光客を見かけたことがない。だが、顔だけでは中国人か他のアジア人かわからない。筆者はその顔出し看板に出会うと、たいてい家内に顔を覗かせて写真を撮る。昨日書いたように、ここ数年使っていたデジカメのスマートメディアには家内の写真が20枚近く入っていて、その中には土曜日に撮った写真も入っていた。それは顔出しではなく、どう言えばいいか、ごく簡単なセットの中に立って記念撮影をするもので、たくさんの観覧車がいた割りに、ちょうどその時は人が途切れて他人に見られることなく撮影が出来た。家内はいつも喜んで撮影してもらう方ではないが、筆者が命じると笑いながらそういう機会には乗る。筆者は苦手で、ほとんど顔出し看板に顔を嵌め込んで撮影してもらったことがない。だが、今日載せる写真は例外だ。昨日書いたようにスマートメディアには重要な写真が入っていた。今日の写真の別ヴァージョンで、それを今日の投稿に使うつもりでいながら、どのように加工していいかわからず、スマートメディアに入れたままにしていた。それがついに予期せぬことにデータが破損し、完全な写真の復元が不可能になった。それでも3枚だけでも以前に加工しておいたのは運がよかった。その写真については後述するとして、また大志万さんのことを少し書く。彼女の絵を去年夏に自治会内にあるとある喫茶店に5,6点展示した。一応は常設展示だ。その喫茶店を毎月第1,4水曜日の午後にサロンのように使い始めながら、数か月で誰も訪れなくなった。普段は店を閉めているので、月に2回のその機会が何となく仰々しいという気がするのかもしれない。全体に油で汚れたように見える薄暗いユトリロの大作の印刷画が店内の最も大きな壁にかけてあって、筆者は主にそれを撤去して大志万さんの絵を展示することを提案した。彼女にそのことを伝えると、収納しているよりかはみんなに見てもらえるのがいいということで、自宅を何度も往復しながら作品を運んでくれた。喫茶店の主は美的なセンスはないが、自分の店であるので、あまり筆者があれもこれもと口を出すのは面白くないだろう。それでもどうにか大志万さんの絵が見栄えするような配置を決め、そのとおりに主に飾ってもらった。ところが数か月で誰も訪れなくなったので、筆者は新たなアイデアを出して、その店を何らかの形でまた使えるようにせねばと思っている。それはさておき、その店に絵を飾ってはどうかと大志万さんに伝えた時、彼女は「どうせゴミになるので、人に見てもらえるのは嬉しい」と言った。せっかく時間も金もかけて描いた絵がいつかはゴミになるなど、彼女は夢のないことを言うなとその時は思ったが、その一方で作品がゴミになるのは現実であることを筆者も感じていることを思い出した。自分かわいさ、それに美術作品全般が好きなため、ゴミとは思いたくないだけで、それは美術や芸術といったことに関心のない、あるいはあっても心の中での地位が低い人は、自分好みの作品でなければ全くのゴミと思うし、好きな作品であっても、常にそうではなく、飽きれば手放すし、ゴミとなっても仕方ないとさえ思っている。3年9か月前の大地震による津波では、家が丸ごと流され、その様子は生きた人間もゴミになることを再確認させた。思い出も生き甲斐も何もかもが問答無用に一気に流される様子を見ながら、人生の虚しさ、人間のはかなさを思った人は多いだろう。大志万さんが言うゴミはそういう災害に遭うことを意味しているのではなく、長い目で見るといつかは形あるものは消え去ることを指してのことだが、それは美術館や博物館で大事に保存、展示される作品も含めてのことと言ってよい。だが、遠い未来のことはたいていの人はどうでもよく、想像しても仕方がないと思っているし、大志万さんが毎日描くことも結局はゴミを造っているだけとは決して考えていないはずで、「どうせゴミになるので、人に見てもらえるのは嬉しい」といった表現は、「いつかはゴミになるだろうけれど、それまでにたくさんの人に見てほしい」という思いで、自作をゴミになることを思い描いてのことではない。

美術館や博物館に作品が収まるのは、名品と評価がある程度以上定まっているからで、それは多くの人から知られ、また愛好されていることと同義でもある。人気者ということだが、これは作家が生きている間はいろんな力関係で実像より過大評価される場合がある。では没後に本当の評価が始まるかと言えば、生前無名であったのに、死後に有名になることはかなり稀だ。また、死後に作品が世に知られることを大志万さんはロマンと表現したが、それはそんなことを願って製作すべきではないということかと言えば、これは彼女に真意を確かめなければわからない。死んで評価されると、墓の下で作家が喜ぶかと言えば、それこそロマンで、死者には何もわからない。となると、やはり生きている間に有名にならねば意味がないかもしれないが、作家の思いを込めた作品が他者に理解出来るかと言えば、筆者はかなり懐疑的で、誤解や曲解が必ず混じると信じている。それを含めての評価であり、作品は絶対的である反面、きわめて曖昧なものだ。絶対というのは作者にとってで、鑑賞者は同じ境地に立つことは出来ない。作者と他者は別人であるからだ。それで鑑賞者は作品に曖昧に対峙し続けるしかない。だが、それが悪いというのではない。それは仕方のないことで、作品は多くの人の曖昧な思いの共通分母が評価となる。その共通分母は絶えず少しずつ変化するから、作品の評価は永遠不滅ではなく、作家の死後にすぐに忘れ去られたり、その反対に百年以上も知られなかったのに急に脚光を浴びたりすることもある。それはロマンではなく現実で、結局作家は他者からの評価を常に期待出来ず、いい評価を得てもそれが絶対的と思わないことだ。そこで大志万さんの言葉に戻ると、自作がほとんど人の眼に触れず、やがて粗大ゴミとして処分されるかもしれないというぼんやりとした思いがあるかたわら、そうであるからこそ、なおのこと他者に見てもらえる機会があれば嬉しいということで、それは有名な画家以外は誰しも思っていることだろう。そして、いかにして多くの人の眼に留まり、しかるべき評価が得られるかも考えている。そこで現実的な問題が立ちはだかる。多くの人に見せるには個展や公募展などで、作品を展示し、まず存在を知ってもらわねばならない。有名な会場を借りての個展は金がかかる。有名になれば会場側から場所を提供してくれるが、そうなるまでには同じように考える作家たちから抜きん出る必要がある。それは金以前に実力と言えそうだが、大作を描くには大きな場所もそれなりの材料費もかかるから、金がまず必要とも言える。そんな間で苦労しながら製作し、注目を浴びる者が出て来るのはいつの時代でも同じだが、現代美術となると、それなりの登竜門的な仕組みがあるのかどうか、筆者は今日取り上げる展覧会が開催された国立国際美術館で企画される展覧会に出品する作家の顔ぶれを知るたびに、いったいどのようにして選ばれたのかと考えることがしばしばだ。またこの現代美術という言葉は定義が人によって違うが、それなりに多くの人たちの考えの共通分母があって、本展もそれにしたがっていると言うか、逆に本展の出品作家から現代美術の多様性が新たに定義されるように感じる。大志万さんの作品は現代美術ではないのかと言えば、本展の出品作と比較する限りにおいてはそうかもしれないが、現代の画家である点では現代美術であり、現代美術は狭義と広義があって、本展や国立国際美術館が所蔵、展示する作品は狭義だ。そしてこの狭義の現代美術はフランスの印象派を愛好するような人たちからはわけがわからない作品とみなされることが多い。現代音楽の難解さと同じで、一握りの人たちが多少関心を持っているだけと言ってよい。そのため、作家の数は、狭義でもあるから、それほど多くないのではないか。だが、ここで問題となるのは、狭義と広義の境界だ。それは誰にもわからない。作品は多様な面を持ち合わせている。広義の現代美術作品であっても、時代が過ぎれば見え方が違い、描かれた当時の現代を深く表現していたと目される場合があるだろう。その反対に、製作当時は斬新でいかにも現代美術らしかったものが、とても色褪せて見えることもあるに違いない。したがって、作家は現代美術ということにこだわらずに製作すればよく、大志万さんが言うロマンかもしれないが、自分が思う絶対が他者に対して、曖昧ではあるが、多くの人の共通分母として絶対に接近した曖昧が育まれることを期待するしかない。

なかなか本展の感想に入れない。本展を見たのは9月中旬の最終日に近かった。もう大半の作家や作品を忘れているが、チラシやチケットに印刷された作品は、当初写真と思っていたのが油彩とわかり、その技術に驚嘆した。チケットに印刷される絵は、ボッティチェリの『プリマヴェーラ』に描かれる女神を題材にしていることは誰にでもわかる。「CHLORIS」という題名で、これは口に挿し込まれる小さな花のことだろう。橋爪彩という1980年生まれの女性の作で、絵の表面は、チケットに照りがあるのと同じように、鏡のようにつるつるで筆跡がなかった。ストロボを使って撮ったデジタル写真のような平板な鮮明さで、写真を見ながらそれそっくりに描いているのだろう。写実絵画の歴史の延長上に、デジタル時代に即した作品が生まれて来て不思議ではなく、橋爪はその代表格のひとりなのだろう。では、技術だけで現代美術なのかと言えばそうではない。この絵からわかるように、若い女性は目から下が描かれ、人物の個性ははぎ取られている。全部で14点展示され、そのどれも似た感じの作品で、モデルになっている若い女性たちは不気味さや痛々しさを発散している。それは見たくない世界で、美術はあまり取り扱って来なかったものだが、皆無とは言えない。大志万さんは最近の絵画の流行はお化けかパロディかのどちらかと言うが、橋爪の作品はそのどちらにも接している。それが現代美術の大きな個性と言えるかもしれないが、絶えず現状打破は待たれているから、いずれお化けやパロディは時代遅れになる。本展は10名の作家が選ばれた。それを順に書くと、北辻良央、柄澤齋、山本桂輔、小西紀行、橋爪彩、小橋陽介、須藤由希子、棚田康司、横尾忠則、淀川テクニックで、作品と名前のどちらも知っているのは柄澤、横尾、棚田の3名で、他は今回初めて作品を見た。須藤は1978年生まれで、街中のちょっとした草木に注目してそれを鉛筆と水彩で素朴かつ克明に描き、温かい人間の存在を感じさせる点で現代美術らしからぬところがある。それは橋爪のような抜群に巧みな技術ではなく、どこか素人臭い、稚拙とも言える描き方のためでもあるが、その表現で勝ち得ている世界であり、写真そっくりに描く能力があるなしで画家の価値は決まらない。本展で筆者が一番気になった作品は淀川テクニックの「LET‘S BECOME GARBAGE!」(みんなでゴミになれる!)で、今日の3枚の写真をそれを撮ったものだ。淀川テクニックとは、1976年、岡山生まれの柴田英明と、1977年、熊本生まれの松永和也で、彼らは淀川のゴミを集めて作品にする。「LET‘S BECOME GARBAGE!」は本展では唯一撮影が許されていた。それは当然だろう。何しろ巨大な横長の画面に隙間なくゴミが張りついている。汚れは乾いているからいいが、1点ずつ接着剤で貼りつけて行くのは繊細な作業で、多大の時間を要したであろう。筆者のカメラでは全景が収められず、今日の3枚はどれも部分だ。あまりにゴミゴミしているのでこれが芸術かと思う人が多いかもしれない。昔のアンデパンダン展向きの作品だ。ゴミを芸術にするのは今に始まったことではないが、先の大志万さんの言葉を思い出させ、いつか立派な作品もゴミになるのであれば、最初からゴミで作れという、ダダそのものの考えと行為は、現代美術を普段見ない人にもストレートに訴えるのではないか。本作はまた多くの人に楽しんでもらえる仕掛けが施されている。作品の裏側に回ると、真っ白な板だが、2段の横板があって、その上に乗ることが出来る。何のためかと言えば、裏側から開くことの出来る顔の形に刳り抜いた小さな扉が全部で30ほど設けられている。そのどれかを開いて顔を覗かせ、作品の前に立つひとから撮影してもらえば、それは淀川に行った記念になりそうであるし、また大津波で流された人間にもなり得る。家内と筆者は交互に撮影し合った。ほかにもたくさんの人がスマホで同じように楽しんでいて、本展では最も人気があり、また衝撃的な作品であった。作者は面白がりながら、毒を吐いている。「みんなでゴミになれる!」という題名がそのことを寸分違わずに示している。今日の3枚の写真には筆者か家内がゴミに混じって笑顔でいる。そう遠くない将来に筆者も家内も世を去るから、せめて生きている間はゴミに同化して笑顔でいたい。