浜がすぐ近くにあったという住吉大社でが、今ではそのことを想像しにくい。阪堺電車の駅から西に50メートルほどのところに南海電車の高架が見え、住吉大社駅があって、帰りは同駅から難波に出た。
その話は後述するとして、阪堺電車の線路から大阪湾までは2,3キロもあって、海は南海の駅に立っても見えない。だが地図を見れば駅から西は埋め立てられたことが碁盤目状の街路からわかる。碁盤目状の道は京都もそうだが、住吉大社周辺はそのようにはなっておらず、新しく開発された土地ほど街区が規則正しい。大社の北に粉浜(こはま)という地区があって、大阪生まれの人なら誰でも聞いたことがある。筆者も小学生の頃によく耳にしたが、大阪南部は海が近いというイメージがあった。堺に住んでいた叔父は筆者が中学生になる頃にはより南の泉大津市に移住し、やはり筆者らは南海電車でその家によく訪れた。筆者が20歳になるまではその家から100メートルほどのところにきれいな浜辺があった。駅から徒歩15分ほどのところだ。前にも書いたことがあるが、その浜辺にある日、大きな鉄骨の桟橋のようなものが海に向かって構築された。まだ浜辺は自由に歩くことが出来たが、雨上がりの日には見たことのない気味悪い馬糞状の生物があちこちにたくさん散らばっていた。踏まないように歩いたが、近くで見るとゆっくり動いている。どれも形が違い、蟹の味噌のような渋いカーキ色をしていた。波が荒い時に打ち上げられたのだろう。自力では海に戻れないようで、その後どうなったのかと思う。浜辺に巨大な工事が始まろうとしていて、海の汚れがひどくなり、生態が変わってそのような変な生き物が増えたのではなかったか。叔父の家族がまだ泉大津で暮らしていることもあって、7,8年前か、久しぶりに訪れた。浜辺はとっくの昔になくなり、10メートル以上の壁が出来て、その上に高速道路が走っていた。そのため、全く海は見えない。あのきれいな浜辺がまだ40年前にはあったが、それと同じ思いを住吉大社の近くに住む人は100年かもう少し前に味わった。そして粉浜という、海に因む地名は残ったが、阪堺電車に乗っていても海が近くに迫っていたことは全くわからない。日本に昔ながらのきれいな浜辺が何割ほど残っているのか知らないが、経済的に潤うことは土地を埋め立て、工場を建てることと信じて疑わない人ばかりだ。開発を全くせず、古代のままの浜辺があると、いつかそれが世界的に有名になって大勢の人が見るためにやって来て、地元に金を落とすかもしれない。だが、それはあり得ないと言うだろう。人がたくさん訪れるならば、より多くの金を使ってもらうためにホテルをたくさん建て、土産物も創造する。そしてそれらを扱う人たちの住居も必要ということで、浜に工場を林立させることとさして変わらないということになる。つまり、人が集まることはきれいな浜辺など無理ということだ。今夏は関東のどこかの海水浴場が酒を禁止した。大音量で鳴る音響装置も駄目で、その決まりが出来た途端、人がさっぱりやって来なくなった。みんなきれいな浜辺など関心はない。そこで酒を飲み、騒いで楽しくやることが目的だ。敬虔な場所でもそうだ。神社は本来そういう気持ちになる施設だが、大勢の人にたまにはやって来てもらわねば経営が成り立たない。それで祭りを開く。その祭りはたまにであるからよく、普段は静かで落ち着いたたたずまいをしている。海水浴客が去った浜辺がまたきれいで静かな様子となればよいが、工場がたくさん出来、高速道路が頭上を走れば、元の自然を想像することすら難しい。そういうことを南海の住吉大社駅に立って大志万さんに話しはしなかったが、泉大津にきれいな浜辺があって、のんびりした空気が40数年前には漂っていたことは言った。そのことで筆者は住吉大社前の浜辺を思い浮かべようとしたのだ。大志万さんは綾部の山深い土地の生まれのようで、京都市芸大で学んだから、海には縁がないだろう。そのため、筆者が大阪の浜辺のことを話してもぴんと来なかったのではないか。
昨日の4枚目の写真は初辰まいりの楠珺社の正面内部だ。昨日は初辰社と書いたが、それは間違い。楠珺社は「なんくんしゃ」と発音することはたいていの人にはわかるが、筆者がそう発音すると、『おやっ、知ってるんですね』といった表情を招き猫を売る男性が浮かべ、実際「おっ!」という声を上げた。昨日の2枚目の写真に見えるように、この社の周囲には巨大な楠が3,4本ある。一番大きなものは樹齢1000年を超える。あまり大きくなり過ぎたので、枝がかなり払い落されている。神社に勤める女性は巫女さんと呼ぶが、男性はどう言うのだろう。権禰宜というのは宮司であろうし、神官と言えば正確ではない気がする。ともかく、その男性と少し話をした。太鼓橋をわたって東へ直進して楠珺社に達したのは以前家内と来た時と同じだが、その時にもまた今回も気になった種貨しの土人形を売る末社が北端にあることが気になって、その場所を確認した。昨日の2枚目の写真を撮る寸前、それらしき社が左手奥に見えたが、少し遠回りになるので、真っ直ぐに初辰猫を見に行った。そして大志万さんが賽銭を投げ入れて拝み、猫をひとつ買った後、筆者は今日こそと思って楠珺社の周囲を時計回りに巡り、大社の本殿前を左すなわち北に折れて種貸社に向かった。住吉大社は「はだか雛」や種貸しの女性を象った土人形でも有名で、それらはもう今は製作されず、種貸社でも売られていない。今日の3枚目の写真はその社前の狛犬で、背中に子、孫が乗っている。これは一粒の種子が何万倍にも増える自然の摂理を象徴したもので、商人にとっては少ない元手で大金を得ることの願い、祈りにつながる。もちろん、子どもに恵まれない人がお参りすることにも御利益がある。またここは一寸法師伝説の源らしく、とても大きなお椀が社の横に置いてあった。ごく近年に再建されたのか、全体に明るく、ぴかぴかの印象があった。巨大な楠に囲まれて薄暗い楠珺社とは対照的で、あまりありがたみがないが、写真に見える賽銭箱には「一粒万倍」と書いてあって、全体にいかにも大阪らしいユーモアが楽しい。3枚目の写真は種貸社を見た後、プラスティック製の竹垣で囲まれる場所を少し過ぎた頃に見かけた。筆者は朱色の社が連なる光景が好きで、またそれをとても美しいと思うが、そのことを撮影しながら大志万さんに言うと、「遠近があって面白いですね」との声が返って来た。筆者なら写真のような構図で油絵に描いてみたいが、彼女はそう感じなかったのだろうか。この小さな社の連続の前を通り過ぎた後、大社の南に行った。まずは境内から出て少し歩いたところにある浅沢社だ。その隣りにもうひとつ大歳社がある。前者は以前家内と訪れたが、後者の前では高齢の男性が意味不明のことを少し大きな声でつぶやきながら、社の内外を掃除していた。何か文句を言われそうな気がして中に入らなかった。今回は筆者ら以外に誰もおらず、ふたつともじっくりと見て回った。大昔はふたつの社の周囲は池で、奈良の猿沢池ともうひとつ有名な池とともによく知られていたらしい。それが今は家に囲まれている。それでも付近のたたずまいはまだまだ静かで、よき時代の大阪の空気が漂っている。それを大志万さんは感じて嬉しそうであった。本殿の横の池で鴨が一羽飛び立ったが、境内の南に田んぼがあって、そこで鴨を飼っていることを彼女に言い、その田を見て大社を後にすることにした。ところが、稲はすっかり刈られ、鴨はもう泳げなくなっていた。考えてみればすぐにわかるのに、以前の記憶が鮮烈で、それと同じ様子が見られると思い込んでいた。太鼓橋をわたらずに西に進み、電車道に出てから南海電車に乗ることにした。浅沢社で少し座っただけであったから、彼女は疲れていたのだろう。もう真っ直ぐ帰ろうと言った。予定では彼女は日本橋にある画材店でいろいろと買うつもりであった。阪堺電車に乗って天王寺に出ると、日本橋までまた乗り換えねばならない。そう思ったのだろう。それで筆者は南海に乗って難波に出て、そこから歩けばすぐだと言った。難波駅から戎橋、そこから道頓堀の繁華街を東に進み、日本橋駅に近いところにその店はあった。その店で30分ほど過ごしたろうか。100号や200号の絵が描けるキャンバスのロールや色つきの紙を閉じたスケッチブックなどを買い、地下鉄の駅を目指した。その時も筆者は反対方向の北へ歩き始め、彼女から「こっちですよ」と言われた。方向音痴に終始した半日だ。そう言えば、その後彼女の顔を見ていないし、声も聞いていない。美術はもとより、読書家であるし、またオペラに詳しい彼女なので、話は尽きることがない。ただし、人妻であることを自覚しなければならない。帰りの阪急電車でどういう話であったのか、彼女は筆者のことを社交的と言った。自分では全然そうではないと思っているが、年齢を重ねて恥じる思いが少なくなったのだろう。言い代えれば図々しくなった。それで彼女を平気で誘ったりする。であるので、社交的という言葉の裏には、面の皮が厚いという意味が隠されていることを自覚した方がよい。男は女性に関してはよく勘違いをする。筆者もそうだろう。そんなところもかわいさと思ってくれる母性に優れる女性ばかりならいいが、そう思うところもまた勘違いなのだ。
今日の最初の写真を説明しておく。中央に招き猫の土人形の大が一対、その両隣りに少し小さいものが2個ずつこちらを向かっているのが見える。わかりにくいと思って同じ写真の招き猫を中心にトリミングした。どうでもいいことを書いておくと、今日大阪に出て何枚か写真を撮ったのに、先ほど加工しようと思ってスマートメディアを読み取り機にかけたところ、画像が全く表示されない。最後に撮ったのは電池が切れそうな状態で夜景を撮った夜景で、2枚だけは写っていた。今その記録媒体をカメラに差し込んで撮影するときれいに写るが、残り枚数が30ほどしかない。ということはその倍ほどの枚数が記録されているのに、読み取り機でもカメラでも見ることが出来ない。データに傷がついたのだろう。そこで去年ダウンロードしたデータ復元の無料ソフトを起動させて調べると、撮影済みや消去した写真の半分ほどが、全体の8割部分が灰色に表示される。無事な写真はどうでもよいものが大半で、データ復元ソフトを買ってそれらを取り戻すことは躊躇する。筆者が大切にしていた写真はどれもデータが破損してもう見られない。それがとても惜しい。多くは家内やその身内など、人物を撮ったものだ。昨日は撮影した後、天神橋筋商店街の写真を焼く店でしばし立ち止まり、よほど気になっているそれらの写真を焼いて帰ろうと思ったが、たとえそれを試みても店の機械はデータを読み取れなかった。記録媒体はいつまでも変化がないと思っていたのに、とても不便なものであることを実感する。これならせいぜい20枚ほど撮影出来る媒体を使い、撮影したその尻からそれらをパソコンに取り込むか、あるいは紙に焼いておくべきだ。便利なものはとても不便と隣り合わせだ。そのことを筆者くらいの年齢になれば誰でも知るが、便利なことに軍配を上げる。今日の選挙で自民党が圧勝し、また原発がどこも稼働することもそうで、嫌なことには目をつぶるのが人間で、便利さを過大評価する。それはともかく、つい数日前まで今日の写真はその媒体に入れたままにしていた。それを投稿用に加工したのは、今日のことを本能が予想したのかもしれない。おおげさな話だが、そのほかにも同じ日にはたくさん加工しておいた。データ破損で惜しいと思うブログ用の写真が10枚ほどあったが、その媒体を使わず、別のものをこれから使うことにしよう。というのは、いつのことになるかわからないが、完全なデータ復元ソフトを入手して取り戻したいからだ。さて、話を戻して、今日の最初の写真で中央の招き猫の大小の両脇にさらに豆粒のように小さな同じ形の土人形が雛段のような木組みにびっしりと並べられているのが見える。そのように説明しないとそうだとわからないかもしれないが、その豆粒のような小型の猫を毎月初辰の日に1個ずつ買い求める。写真では両脇に写るふたつの雛段とも、6個が8段で、48個セットとなっている。これと同じものを作ればいいが、筆者は手元にあった適当な材木で作った。それが2枚目の写真だ。これはわが家で先ほど撮った。大志万さんはこれを見て「かわいい」と言った。この小型の猫は流し込みで量産されるが、昔のものはずしりと重い。その後かなり薄く仕上げられるようになり、今はとても軽いと思う。また目鼻など、描き方も昔のものはていねいだ。だが、これはたくさんの人が携わって来たはずで、昔のものほどていねいとも言えないかもしれない。2枚目に写るものは、半分ほどが重いタイプで、また底に購入した年月がペンで書き込まれている。昭和40年代前半で、筆者が20代前半の頃だ。筆者の想像によると、住吉大社が納入されたもの、つまり御札のように役目を終えて大社で処分してほしいと持参して来られたものをたくさん集め、割ってしまうには忍びないので、業者に委ねたのだろう。そういうものを買っても御利益はないが、大事に飾っておけば厄が降りかかることもないと思う。