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●『イメージの力』その2
箪は夏に出来るので日本と同じ暑さのあるところではどこでも収穫出来るのだろう。アフリカの原産というが、日本には古くに入って来たのだろう。大阪では瓢箪は秀吉とつながって府旗のデザインに使われている。



●『イメージの力』その2_d0053294_1525668.jpg先週土曜日に大阪に出て、初めてJR北新地駅から京橋駅まで乗った時、途中の大阪城北口駅だったと思うが、地下のプラットフォームの壁面に大きな青い瓢箪のタイルがあちこちに貼りつけられていた。今、本展の会場でもらって来た4つ折りのリーフレットを見ているが、本展の第3章に展示された「飾りヒョウタン」というペルーの民藝品」の写真を見ながら、会場でそれを見た記憶がないことに多少愕然としている。筆者のことであるから見落としのだろう。そう考えたい。見たのに忘れたというのは、1週間前のことであれば信じたくない。それはさておき、このリーフレットは会場の説明をメモする必要がないので、こうして感想を書くには便利だ。図録を買うのが一番だが、買ってもほとんど見ない。本展は4つの章に展示が分けられた。1「みえないもののイメージ」、2「イメージの力学」、3「イメージとたわむれる」、4「イメージの翻訳」で、これらの題名だけでは内容がわかりにくいのは特に2,4だろう。2は「光の力、色の力」と、2「高みとつながる」のふたつに分けられ、前者は光輝くものや色鮮やかなものはどの民族の文化にも共通した反応が見られることを指摘しての展示で、後者は死者は精霊を高みに送り出す、あるいは神が地上に降り立つ回路とされたことを表わす展示物で、本展では最も背丈の高い作品で、1階の中央の一番天井が高い場所に数本のトーテム・ポールのような彫像が展示された。リーフレットを見ると、インドネシアの「葬送用の柱」とある。こうした巨大なものを見ると、よくぞ現地から運んで来たと思う。まず相手をどう説得したかだ。相手にとってとても大事なものである場合が多いであろう。だが、そこは日本の円の力か。代わりのものを造ってあまりある大金を提示すれば喜んで手放すかもしれない。そう日本が考えたとすれば、何となく後味が悪いが、現地にあってもそのままではやがて朽ちて行くか破壊されるから、日本に持ち帰った方が多くの人が鑑賞することとなって作品にとってもまたそれを作った人たちにとってもいいことだろう。だが、「葬送用」と聞くと、その彫刻には現地の人たちの霊に対する思いが深く染み込んでいる。その精神が本展のような会場で見ると、単なる鑑賞のための工芸や美術品となって、現地の人たちの思いに同化することは難しい。そのことが本展の第4章とつながってもいて、イメージは元の意義どおりに伝達されず、変化し、消費されて行く。話を戻して、「葬送用の柱」をほしいと考える外国の個人がいるだろうか。大金持ちならそんな変人もいるかもしれないが、普通一般人であれば、まず家に飾ることが出来ない。小さな空間に住む者はどうしてもそのようなことを考える。そのため、現地からどのようにしてみんぱくまで運ぶのかが気になる。仮面であれば個人がトランクに入れて持ち帰ることが出来るし、大半のみんぱくの所蔵品はそうしたものと思うが、時に巨大なものがあって、入手という関門を越えると、次にそれを破損させずに日本まで持ち帰る困難が待っている。それで日本に荷物が着いて梱包を解いて初めて安堵するが、輸送途中で破損する場合もあるはずで、収集は大変だ。
●『イメージの力』その2_d0053294_1531338.jpg 本展を見て思ったことは、大規模な民藝品バザール会場だ。みんぱく本館の出口には世界の民藝品を販売するコーナーがある。高くても数万円程度までのものばかりで、みんぱくに展示されているものとは格がはるかに劣るが、中にはそうも言えないものがある。仮面では本館に展示されているのと全く同じものがあったりする。そうなると、みんぱくの展示そのものがバザールに見えるところがあるが、美術品とは違ってはるかに安価であるのは確かなはずで、そこが美術ファンにとってはみんぱくの魅力がいささか欠けるところであるかもしれない。個人で名前がある芸術家が作ったものではなく、無名の人が作ったものばかりで、また同じものが量産されたか、これからもされる。そんなものをたくさん集めてどうするという意見があるかもしれない。だが、そこはたとえば前述の「葬送用の柱」のように、現地でも売られていないものがたくさん混じるし、また無名の人が作ったいわゆる民藝品であっても、そこに芸術性が少ないかと言えば全くそうではない。前回書いたように、20世紀に入ってから芸術家は未開の民族が作ったものから霊感を得ることが少なくなかった。そして、一方で発掘された古代の遺物からの影響もあって、形の面白さが芸術家個人の創造力を越えて世界の古今東西に溢れていることを自覚した。では、現在の未開ないし後進国の民藝品が昔のままの形や色を相変わらず踏襲し、先進国の芸術家の作品へ着想を与える存在であり続けているかとなれば、もはやそういう時代ではないだろう。それはたとえばみんぱくの学芸員が「葬送用の柱」を現地から日本へ運んだ時にすでに変化している。たとえば現地の人が充分納得する大金で売れたとすれば、今度は現地の人はそうした造形が金儲けになることを実感する。そしてもっと小さくて安いものを量産するだろう。先に書いたペルーの「飾りヒョウタン」は瓢箪の全面に細かい文様が描き込まれている。それと同じものを現在発注すると、かなり高価につくことは誰しも想像出来る。一方、市中の小さな民藝品店を覗けば、ペルーの同様の文様がごくわずかに施された土笛などが数百円で売られていることを誰でも知っている。それらはみんぱくの所蔵品とは比較にならないほど安っぽいが、同じ現地の人が作ったものであることには変わりがなく、また個人が所有するにはその大きさ充分な気がする。となると、「飾りヒョウタン」は現地でも稀なものではないかという疑惑が芽生え、また言うなればそれは現地の芸術品のようなもので、そこからはみんぱくの所蔵品を芸術として見る立場が生じる。そういう考えがあったので、本展は東京で開催されたのだろう。本展では民藝という言葉は使っていないが、民藝は民族の芸術で、優れた作品として見るべきだ。ただし、本展では特に芸術的な美しさを感じさせ、また驚きを伝えるものが中心に集められた。民藝品の大バザールでありながら、どれも値札をつけるととても高価で、それほどの金額を出してもほしいと思う人がたくさんいることを思わせる。たとえば第1章に展示されたメキシコの「生命の樹」はピンクや赤、黄、青などの原色を使った小さなオブジェをたくさん集めて高さ1メートル数十センチの樹木の形にした彫刻に分類出来る作品で、現代芸術の作品と言われればそれを信じる人は多いだろう。ニキ・ド・サンファルはこうした彫刻からヒントを得たのではないかと思わせるほどで、それほど明るく楽しく、また力強い。コンゴ共和国の呪術用の像「ミンキシ」は、黒人男性の戦士の上半身を表わした木彫りだが、顔以外には無数の釘が打ち込まれて全体が焦げ茶色になっている。人形に釘を打ち込むのは日本でもある風習で、そういう像を見るとどきりとさせられるが、この木彫りは「アール・ブリュット」の造形を思わせる迫力がある。現地の人は釘の形を見てそれが矢と同じような武器と思ったに違いなく、それを木彫りの像に無数に打ち込むことは、無敵の存在になるための呪いのように考えたのだろう。全身に矢を打ち込まれた聖セバスティアンと同じで、時代や国を超えて人間は同じようなことを思い描く。
●『イメージの力』その2_d0053294_153278.jpg 第4章は「ハイブリッドな造形」と「消費されるイメージ」のふたつに展示が分けられた。前者は文化交流から生まれる新しいイメージだ。今日の4枚目の写真はインドネシアの染色品のバティックで、そこには日本の浮世絵からのイメージが使われている。日本から見れば本物のバティックに見えないが、技法は紛れもなくそれによっている。バティックがこうした外国のイメージを使うのはこれが初めてではない。同じことは世界中で行なわれて来た。純粋に日本のものと思っているものの中にも源流をたどると海の向こうから入って来たイメージであることが多々ある。現在はグローバル化と言われてそうした傾向が加速、激増化しているだけのことだ。とはいえ、未開だと思っていた土地の人たちが、先に書いたように自分たちの造形が収入になることを知ると、新しい商品はすぐに生まれる。そしてそれらを買いつける先進国の業者は今度は注文をつけて自分たちの国で売れそうなものを作らせる。これがイメージの消費で、最初は濃厚にあった信仰に基ずく造形といったことは曖昧にされるか忘れ去られる。本展は事実を提示するだけで、そのことをいいともわるいとも言っていない。また言うことが出来ない問題だ。ひとつ言えることは、みんぱくが数十年前に収集したものはもう二度と現地の人たちが作れないものが混じり、またグローバルに伴うイメージの消費の一つの巨大な情報蓄積の場となることだ。それは今後の芸術家にとっても大いに役立つ施設であることも意味する。では、今後はますますイメージが消費され続けて行くだけのことで、民族固有の造形というものが限りなくなくなって行くかと言えば、そうではない。そのことを示すのが第1章だ。その1は「ひとをかたどる、神がみをかたどる」、2は「時間をかたどる」で、そのどちらも人間の文明がいかに進化してハイブリッド化しようが、関わって行くことであり、第1章に展示された作品は大きな遺産として霊感を与え続けるだろう。今日の写真を説明しておくと、1枚目は昨日の仮面を並べた壁面のすぐ隣りにあったニューギニアの仮面を被った木像で、どれも等身大だ。この迫力は実作品の前に立たねば伝わらない。小さな子どもなら泣いて逃げ出しそうな怖い迫力で、また見事は造形に文明の進化とは何かと思う。金がいくらあっても、これほどの造形は今の日本のどの作家も表現し得ない。2枚目も仮面だ。北米のインディアンのもので、レヴィ・ストロースの『仮面の道』に出て来る仮面と共通する文様を持っている。だが、同書ではこの仮面は言及されえていなかったと思う。この仮面の面白い点は、口の穴に種類の違ういくつかの像が用意されていて、それらを交換することで違った意味を持つ仮面になることだ。その発想が面白い。3枚目はさまざまな切り抜きをコラージュした屏風で、全体にニスを塗って色合いが整えられている。マックス・エルンストの版画作品を思わせるが、この屏風の作者はマックス・エルンストを知らなかったであろう。芸術よりも無名の人の手になる民藝と呼べる作品がアイデアを先に具現化する。芸術はそれを見て理由づけたり、意味ありげな物に見せることが得意なだけかもしれない。民藝の素朴に対し、芸術の狡猾と言ってもよい。最後に書いておくと、本展は円形の特別展会場の1階に入って仮面が並ぶ黒い壁面や今回の1枚目のニューギニアの木彫りを見た後はすぐに2階に導かれ、それを一巡した後に1階に下りる展示であった。どうでもいいことだが、2階に上がる時にエレベーターに乗った。それは以前からあったのだろうか。筆者は今回初めて利用した。国立の施設であるので、会場の多少の改造や、また大がかりな展示に多大な費用がかかっても平気だろう。近年はどの美術館も博物館も所蔵作品をどういう切り口で見せるかに工夫している。それは経費の節約のせいでもある。みんぱくもその例に漏れないことは本展からも言えそうだが、美術との関わりを一考させることは新たな取り組みで、出張展示はどんどん行なわれるべきと思う。ただし、その過程で巨大な作品が傷を負わないように、美術品と同等の大切な扱いがなされることを願う。
●『イメージの力』その2_d0053294_1534435.jpg

by uuuzen | 2014-12-12 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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