忘れないうちにこの話題を書いておこう。菱の実を知ったのは1976年のことだ。当時『週刊朝日百科 世界の植物』を毎週本屋で買っていた。友禅の仕事を始めた頃で、植物図鑑のひとつくらいは必要だろうと考えてのことだった。

全部で120冊だったと思うが、それを製本屋に出して8冊の合本にしてもらい、今でも重宝している。専用のバインダーが販売されていたが、その3倍近い費用がかかるにもかかわらず、自分で色を決めた紙で製本してもらう方を選んだ。合理的な大阪人ではあるが、これは何でも安い方がいいという意味ではない。必要とあらば自分の年収に匹敵するものでも即座に買う精神を持ち合わせているつもりであるし、周りの人がみな買うものでも不要ならば手を出さない。今も携帯電話を持っていないが、それは単に不要であるからで、今後も持つことはないだろう。こんな人物は世間では変わり者と呼ぶのかもしれないが、そんな他人の声はどうでもよい。さて、前述の『世界の植物』は今ではネット・オークションで3000円程度で買えたりする。図鑑は20年やそこらで内容が激変するはずがないから、この価格はどう考えてもあまりにも安く、置き場所に余裕があれば買ってもよいと思わせる。たまに繙く写真によるこの植物百科だが、30年経った今、まだ全部を読み通してはいない。今後もないであろう。一生の間に読破出来る本の数は高が知れている。だが、一度読んでもほとんど忘れてしまうことが多いから、読破したと言ってもあまり自慢も出来ない気がする。そのため、本はただ積んでおいても価値があるような気にもなる。本を入手した時にぱらぱらと中を見て把握出来ることは案外小さいものではない。むしろそのごくわずかな時間においてこそ、本の核心を確信出来る気がする。本も人と同じで第一印象が大切なのだ。その第一印象が強烈なものとして、『世界の植物』ではヒシがあった。その写真は被子植物双子葉類のヒシ科に載っている。ページで言えば665から7の合計3ページ分だ。ヒシの葉が水面に育っているのを初めて見たのは茨木の万博公園内の日本庭園だ。そこには中国から贈られた蓮を植える大きな人工池があり、ヒシが混じって咲いている。また、別の角度からヒシを意識したのは、友禅の人間国宝の森口華弘の作品にヒシをミニマル絵画風の文様として染めたキモノの存在を知った時だ。それはヒシの葉をヒシ型にまとめ、その単位をキモノ全体に繰り返して濃いエンジ色で染めていて、実際のヒシの葉を見れば、ヒシはエンジ色とは無関係であることがわかるので、その意味で妙に印象に残る作品となっている。文様であるからどんな配色であってもかまわないのであろうが、形は明らかにヒシであるのに、色は違うというのは、モノにとって形がまず大事で色はその次ということを示しているのかもしれない。つまり、人間は物体を色で判別するのではなく、形でこそ認識するということなのだろう。
ヒシの葉が水面に浮き育っているのを見てもあまり感動はない。そのため写生する気にもあまりなれない。単調な形の繰り返しに過ぎず、また花が咲いてもそれはごく小さくて目立たない。ヒシの葉そのものがごく小さいからだ。だが、ヒシにも種類があるから、ホテイアオイ程度に大きな葉のものもあるかもしれない。『世界の植物』でヒシに興味を持ったのは、ヒシの実の写真が飛びきり変わっているからだ。このような形の実が世の中に存在することが信じられない気がする。76年に最初に見た時にそう思った。そしてヒシの実の実物を見るか手に入れたいと思ったが、どこに行けば手に入るかわからない。ヒシの実を売っているところが京都にあるとは思えず、また植物に関心のある人に訊ねても、ヒシのことを知らない人がほとんどだった。万博公園の日本庭園で写生していても、まず周囲の誰もヒシをヒシとは知らない。そのため、去年も写生していた時に、何人かの人にヒシの葉であることを説明した。この日本庭園でヒシの実が採れるのかどうかわからないが、採れたにしても分けてはもらえないだろう。そんなことをすればわれもわれもとなるからだ。そう言えば京都府立植物園にはヒシを育てる池はなかったようだ。興味をずっと抱きつつも、そうこうしているうちにあっと言う間に30年近く経った。何と人生の早いことか。ずっと気になっていることが少しでも減って行かなくてはならないのに、気がかりになったままのことがいかにも多い。それでも面白いことに、人生においてはひょんなことからその気がかりが解消される出会いが訪れることがままある。これは毎月作っている切り絵の文章にも書いたことだが、8月19日に岐阜の美術館に日帰りで行った際、岐阜城にも足を延ばした。そこの展示物に乾燥して真っ黒になったいくつかのヒシの実があった。『世界の植物』の写真図版でよく知っていたので、即座にヒシとわかった。そして帰宅したまたその本を引っ張り出し、ヒシの項目を読んだ。するとちょうど9月中旬頃から実が収穫出来ることが改めてわかった。早速ネットで調べた。いや実は去年もネットでは調べたが、結局実を売っている場所を探し出すことは出来なかった。そのことを知っていたので、今度もあまり期待せずに検索したが、やはりめぼしい情報にはぶち当たらない。そうこうしてまた1、2週間経った。そしてある人が水性植物に関するホームページを作っていて、そこにヒシの実を自宅で発芽させて育てている様子も紹介されていた。早速メールを送ったが返事はなかった。またネットで調べることを繰り返した。そしてついに佐賀県の千代田郵便局がゆうパックで通信販売を開始していることを知った。
翌日電話すると、九州訛の若い女性が出た。住所氏名を告げると、2日後に封書で案内が届いた。『初秋の佐賀の風物詩-「ひしの実」 ふるさとの懐かしい味をご家庭で ビールのつまみ お子様のおやつにも最適!』といった文句が拙いイラストの間に散りばめられた、いかにも手作りで素朴な説明書と、それに赤い振込用紙が入っていた。販売価格は送料と消費税込みで1kg2200円、2kg3200円だ。販売元は「ひしの実ふるさとの会」で、女性の代表者の名前と住所、電話番号が書いてある。郵便局員はあまり詳しいことは知らず、こちらの質問に関しては直接その代表者に問い合わせてほしいと言う。それで今度はそっちにかけた。するとおばさんがすぐに出た。実際に池に入ってヒシを採取している方で、親切な応対であった。筆者が聞きたかったのは、ヒシの実の大きさだ。1kgで一体何個あるのかわからない。それを質問したところ、そのおばさんも数えたことがないからわからないと言う。それはそうだろう。だが、話をして行くと事情がわかった。通販で入手出来るヒシは小さいもので、『世界の植物』に写っている堂々した大きいオニビシや、あるいは岐阜城で見た、かつて忍者が追って来る敵に撒いたような大きなものではない。そこで、オニビシが入手出来ないかと訊ねた。するとあることにはあるが、収穫季節は1か月近くずれ込んで、早くても10月中旬頃だと言う。オニビシの収穫したばかりの生状態のものでは1kgでどのくらいの個数があるのか聞くと、おばさんはかなり戸惑って、7個か8個くらいかなとの返事。輸送用の箱の重量を含んでの話であるので、そのくらいなのかとこっちは思ったが、それにしても実1個で100グラム近いことになり、これはあまりに馬鹿でかい。『世界の植物』では大きいもので1個30グラムとあるから、どうもおかしいなと思いつつも、実際に毎年収穫している人の話であるのでとりあえず信ずるほかない。結局10月中旬にまた電話してほしいと言われ、その言葉にしたがった。そして気がせいているため、10日頃に電話すると、何度かけても出ない。また郵便局にかけたところ、ヒシの収穫に出ているのであろう、聞きたいことがあれば伝えておくからとのこと。翌日かけ直すと、ようやくこっちのほしい情報がわかった。
オニビシの実は販売したことがないらしい。それは味が小粒のものより落ちることもあって、あまり薦めたくはないということと、販売するほど大量には採れないからのようであった。そのため販売価格の設定をどうすればよいかよくわからず、検討した結果、1kg1270円、2kg1910円ということになったようだ。1kgで7、8個と聞いていたので、当然2kg注文した。小粒のヒシの実に比べてかなり割安で、送料と箱代で1200円近くかかるから、ほとんど無料に近い。17日に郵便局で入金すると、2日後に届いた。実のゆで方をイラスト入りで説明した紙が同封されていたが、「生の菱で3日、ゆでた菱で2日ほどで鮮度がかなり落ちますのでお早めにお召し上がりください」とあって、これには少々たじろいだ。2kgものヒシをすぐにゆでて食べなければならない。これなら1kgで充分であった。なのに、おばさんははっきりと1kgで7、8個と言った…。だが、もう仕方がない。ごく限定的な旬の産物であり、しかも珍しくて通常では売ってもらえないものであるから、2kgでやっぱりよかったと思い直した。説明書きには手書きで1行加えてある。「おにびし用の説明書は準備しておりませんので、通常のひしの実を参考にしてください」。小粒では3、40分ゆでるが、そこを1時間とボールペンで訂正している。大きさが倍ほどであるので時間も倍としたのであろう。そしてオニビシの大きさだが、1kgで7、8個はどうやら70、80個の間違いであった。2kgの実を数えると160個ほどあった。大きさはさまざまで、おおよそ大中小に分類出来たが、小でも通常販売しているヒシよりかなり大きいようだ。何しろ品種が違うオニビシであるからだ。全くグロテスクな形と色のヒシの実にようやく出会えてその夜はとても満足した。早速半分の1kgをゆでたところ、大中小のサイズを混ぜて1時間きっかり費やしたため、小さいものはかなりぶよぶよになってしまった。実の大きさをある程度揃えて茹ゆでるべきであることがわかった。また塩の量は説明書にある1kgに対して大さじ3から5杯はかなり多い。これではかなり塩っぽくなる。小さじ3杯がいいところだ。ゆでている間、アクがたくさん出るが、草木染めすれば面白い色が出るかもしれない。実は淡白な味でいくらでも食べられる。それにヒシは漢方薬として有名であるから、いろいろと効用があるようだ。家内はヒシが届いた瞬間、「また変なものを買って…」と非難の言葉の嵐であったが、茹であがったものを食べたところ、皮からすぐにきれに実がほぐれるし、いくらでも食べられるので、すぐに文句は撤回した。
『世界の植物』の667ページをもう一度確認したところ、送って来たオニビシはどうも形が違う。いや、同じ形のものも写ってはいるが、筆者が最も感心するトゲの突起が4か所についた本当のオニビシとは違う。届いたのは突起は2か所で、コウモリが飛んでいるような形をしている。本当のオニビシはトゲが4か所で、これなら忍者がどのように撒いても必ず1方向が天を向き、そこを人が踏んでしまう可能性がある。2か所であると、平らに横たわってしまい、撒きヒシのような武器にはならない。おばさんはオニビシは採った時は朱色をしていて、それが次第に茶色に変化すると言っていたが、『世界の植物』に写るトゲが4つの大きなオニビシは朱色っぽい。届いたヒシは全体が焦茶で朱色はどこにもなかったので気になったが、実際は品種が違ってただのヒシの大型品種であったようだ。だが、それも大きいので佐賀ではオニビシと呼んでいるのであろう。トゲが4つの、それこそオニの顔そっくりに見える正真正銘のオニビシを入手したいが、さて来年はどのようにおばさんに電話で説明してよいやら。『世界の植物』の667ページをコピーして送るべきかもしれない。それにしてもおばさんたちが桶に乗って池でヒシを収穫している姿を思い浮かべると、こうして安価でヒシが入手出来るのは実にありがたい話だ。それにネット時代の便利さも痛感する。30年前なら雲をつかむような話であったものが、今では瞬時に望みがかなう。ヒシ採りはかなり重労働らしく、1日頑張っても2、3kg程度の収穫量らしい。それを思うと、今回注文して送ってもらった2kgは本当にただ同然であった。ネットでその収穫地の地図を調べると、見たことのない地形が表われた。川や沼や池が多く、細かく入り組んでいて、いかにもヒシが繁茂していそうな雰囲気が感じられる。福岡の県境に近いところで、いつか訪れる機会があればと思う。しかし、それが実現するのはまた30年後だったりして。その時は80代半ばの年齢か。どうなっていることやら。きっとあっと言う間だろうけれど。