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👽💚🐸🐛🍀📗🤢😱5月11日(土)、京都河原町三条下るLive House『DEWEY』にて👻『ザッパニモヲ 💐母の日LIVE』午後5時開場、6時開演。3500円👽筆者の語りあり。
●今回は初めての別会場での、そしてザッパ/マザーズの結成日である1964年の「母の日」から60年という節目における、ザッパニモヲの演奏です。チラシ画像はここ。恒例の手製のお土産をくじ引きで配布します。

●『名取洋之助展 報道写真とデザインの父』
生と芸妓、舞妓には差があるのかどうか知らないが、日本で芸妓や舞妓を侍らせて飲み遊ぶのは地域にもよるが、京都では敷居が高いように言われる。家内の姉の孫が京都の一力茶屋の息子と同級生で、子どもの頃によくその茶屋に遊びに行ったと聞いた。



●『名取洋之助展 報道写真とデザインの父』_d0053294_112791.jpg10年ほど前のことだ。筆者はその玄関前は何度も歩いたことがあるが、中に入ることは今後もないだろう。そう言えばここ1年ほど見かけなくなったが、わが家の近所に昔、さんざん芸妓遊びをして財産をなくした人が住んでいて、その人は落ちぶれてからも上七軒で遊んだ頃のことを楽しそうに思い出して話した。寒い日も暑い日もふらふらと近所をよく歩いていたのに、見かけなくなったところ、死んだのだろう。筆者を見ると、いつも決まったようにへらへら笑いながら、「あんたはいつも若いなあ」と声をかけた。親しく話をすることはほとんどなかったが、見なくなるとたまに思い出す。今日取り上げる展覧会を見たのはたぶん10月5日の最終日かその1日前であったと思うが、正しい日は忘れた。戦前生まれの写真家で、報道写真に関心がある人には有名だろう。筆者は名前とわずかな写真は昔の展覧会で見て知っていたが、今回は活動の全貌展で面白かった。チラシを探すと入手していないようで、見当たらない。それで記憶を頼りに書く。そう言えば先日取り上げた大亦観風の展示作品のカラー写真がたくさん載った見開きの目録を先ほど見つけた。それがないと思っていたのに、筆者の記憶はあまりに頼りない。それを投稿前に見つけていれば『万葉集画撰』以外の作品についても触れたのに、今からはもう遅い。何度も書くようにこれを書く3階の部屋は3年ほど掃除を一切していない。そのため、本やCD、チラシ類や掛軸、屏風類でジャングルのようになっている。今年こそ掃除しようと思いながら、もう12月で、このまま正月を迎えそうだ。埃が舞って体に悪そうで、それで家内の肺に菌が繁殖したとも考えられる。話を戻して、名取の顔は、亡くなって何年になるのか、ミッキー安川を思わせる。大柄で活動的なイメージで、実際そのとおりであったのだろう。最初の奥さんが年上のドイツ人、二度目の奥さんは日本人で、この日本の奥さんが名取について発言していて、その言葉が会場のパネルにあった。後半は忘れたが、前半は「名取は欠点の多い男でしたが」というもので、奥さんは苦労させられたのだろう。だが、その言葉は芸術家を形容するにふさわしいもので、名取の凄味といったものが伝わる。欠点のない人間は魅力があるだろうか。何事にもそつのないという人物評は冷淡であるというのと同じで、そのことが欠点となって、「欠点の多い」よりもよくないことを意味する。会場のどこか忘れたが、名取と日本髪の舞妓がぴたりと並んでいるところを正面から撮ったモノクロ写真が大きく引き伸ばされて飾られていた。舞妓は細身で名取の半分の体積しかないように見えた。名取の好みの女性であったのかどうか、何もわざわざそういう写真を引き伸ばして紹介しなくてもいいように思ったが、その写真1枚で名取の普段の生活や性質がおおよそわかると主催者は思ったのかもしれない。いやらしい感じのある写真ではない。筆者としては、戦前生まれの名取であるから、芸妓遊びは不思議ではなく、またそういう遊びが出来るほど経済的に恵まれていたとも思っただけのことだ。会場で知って驚いたのは、名取が52で亡くなったことだ。1910年生まれで、また活動の足跡が世界に及んでいるので、過労が重なったと言えるかもしれない。あるいは舞妓と一緒の写真を見ると、酒好きであったか。そういうことを含めて先の奥さんの言葉かもしれない。ともかく、52で死んだにしては業績がとても大きく、戦後活躍する写真家やグラフィック・デザイナーの大半は彼がいなくては出現しなかったように思わせるほどだ。それにしては紹介される機会が少なく、よく知られているとは言えない。それは活躍が戦前から戦中と捉えられているからだろう。実際は戦後も活躍し、東京オリンピックの2年前に亡くなったが、東京オリンピックで大きく開花した日本のグラフィック・デザインは名取が大きな影響を与えたと言える。
 慶応に学んだ名取はあまり勉学が好きでなかったようで、10代後半にドイツにわたる。それほどの経済力が実家にあったからだが、それよりも本人の思い切りのよさがあってのことだ。金をくれても外国にひとり旅をしたくないという若者は大勢いるが、そういう者は名取の仕事は理解出来ないかもしれない。それはさておき、名取は自分が何になりたいかを知るために日本を出ようとしたのだろう。よく考えてから動くのではなく、まず行動を起こしてから考えようという性質だ。写真家はそういう人が多いのではないだろうか。本能が優れていると言えばいいか、嗅覚が発達していると言うべきか、狭い日本にいては出会えないものが外国にはふんだんにあることを知っていた。だが、そういうものに触れたとして、どうして生活の資を稼ぐか。いつまでも親がかりになってはおれない。ドイツに行ったのはヒトラーが政権を握る数年前だ。バウハウスが健在で、名取は美術、デザインを学ぶために学校に入る。そこで年上の女性と出会って結婚し、その女性が撮った写真が雑誌社に売れたことから、写真家になる。ヒトラーを遠目に撮った写真が何枚かあったが、ヒトラーが政権を取った後のベルリン・オリンピックでの会場では客席からヒトラーの姿を望遠レンズで撮ったのだろう。またヒトラーについては否定的なメモを書いていて、時局を冷静に見ていたのだろう。ナチ党員が一斉に総統に片腕を前に突き出して敬礼している様子を撮りながら、日本がやがて参戦することを感じ取っていたであろうか。ベルリン・オリンピックまでドイツに留まったのではなく、学校を卒業し、また出版社の写真家として契約を得てからは日本に帰国し、ヒトラーが政権を得る1933年に日本工房という会社を設立する。23歳だが、すでにドイツでは一応認められた写真家で、雑誌に載る写真を撮れば金になることを知っていた。日本工房は写真を主に使ったグラフ誌を編集し、またその雑誌は日本が外国に日本のことを紹介するためのもので、数か国語に翻訳されてそれぞれの国で出版された。そういうことがすでに1933年に行なわれていたことに驚くほかないが、本展では日本工房が出版した『NIPPON』と題する、おそらく全号が順に壁面に展示された。それらの表紙が一堂に並ぶ様子は壮観で、また日本のデザイン力の高さを如実に示している。名取の後に名を馳せる写真家やグラフィック・デザイナーがかかわったものであるからそれは当然と言うべきだが、そういう錚々たる人物たちを集めることが出来たところに名取のカリスマ性があろう。23歳と言えば、今ではまだ大学で学んでいる者が大勢いるが、名取は結婚し、しかもやるべき仕事を決めていた。早いうちに外国に住んだ方がその後の人生にはどれほどよいかを示す実例と言えるが、結局は本人次第で、名取はドイツに行ったことがその後の人生を決定づけた。『NIPPON』は復刻されたものが出版されているが、戦前のグラフィック・デザインに関心のある人しか手に取らないのではないか。古書でも筆者は見た記憶がない。全貌が長らくわからなかったようで、復刻版が出たのは今世紀に入ってからだ。『NIPPON』は国から発注され、終戦の1年前まで出版されたが、そのことが戦後に戦争協力とみなされなかったのかどうか、そのことについての説明は本展にはなかった。また、戦争に協力的な内容であったかどうかは、同誌をつぶさに検討しなければわからないが、日本の手仕事を特集するなど、日本文化を紹介するのが主な目的であったようで、戦争とは関係のない平和な写真に終始したのではないだろうか。また、印刷やデザインが美しく、雑誌そのものが日本の高度な技術を見せるにはよいと判断されてのもので、そういう美的なことに対する眼差しを戦時中も保ったことは特筆に値するのではないか。表紙は芸術的と言ってよい白黒写真をうまく使いながら、2,3の色をうまく配置して、かえってカラー写真を使うことに劣らない強烈な印象を与えるが、このことは1960年代半ばまでたとえばレコード・ジャケットの印刷でも見られたことで、その先駆かつ頂点をきわめた仕事が『NIPPON』の表紙と言ってよい。
 会場には『NIPPON』以外に日本が植民地各地の言葉で印刷した同様のグラフ雑誌が紹介されていた。朝鮮や満州、南方の各国で、それらも『NIPPON』風のデザインで、今見ても斬新だ。印刷は日本でして各地に運んだようだが、そういう雑誌がどのようにして現地に残っていたのか、あるいは収集されたのか、そのことに筆者は興味が湧いた。『NIPPON』ですらなかなか目に触れないのであるから、そういう雑誌は戦後のどさくさにほとんどが失われたはずで、大事に保管していた人は日本贔屓であったのかもしれない。そういう雑誌が地道な調査によってようやく揃って来たことによって本展が開催されたとも言えるが、『NIPPON』を紹介する展覧会は何年か前に関東で開かれた。名取は報道写真家として世界各地に赴いていて、アメリカでは『LIFE』に一時寄稿していた。日本でも映画で有名になったマディソン郡の屋根つきの橋を戦前に撮影しており、目のつけどころが早過ぎたと言える。また、報道写真を旨としていたので、芸術写真と呼ばれるものを嫌悪したが、そのことが日本工房のメンバーとの対立になったとも考えられる。報道写真と芸術写真の違いは、前者は撮影した日時が重要で、後者はそのことにこだわらず、時代性が自ずと帯びるとの考えを持つ。だが、名取は戦場の真っただ中に入って撮影するという従軍カメラマンではなく、まだ報道が瞬時に世界を駆け巡らないのんびりとした時代に各地域の珍しいものを撮って他国に見せるという立場であったから、最初にドイツに行った時と同じように、誰もが簡単に行くことの出来ない場所にさえ行けば、それなりに何を撮っても報道写真になるという恵まれた時代であったと言える。今では誰もが簡単に世界各地に行き、また住むので、名取が撮ったような写真は報道とみなされず、またありがたがられもしないのではないか。そのことをひしひしと知る前の1962年に亡くなったことは名取に取っては幸福であったと言える。戦後の名取の活動で特筆されるのは岩波写真文庫で、これは写真によっていろんなものを知らせようという企画で、シリーズとなって多くの本が出た。今でも販売されているものがあるが、出版当時とは違った見方が出来る。それはもうすでに亡くなった日本の文化を写真で味わうということと、今も通用する、つまり今も変わらずに残っている事物であれば、写真の古い感覚を楽しむことになる。それは本全体のデザインについても言える。そしてその本全体あるいは中の写真を芸術的と思う人はいるはずで、名取が嘲笑した芸術写真は図らずも名取の写真もその様相を呈するようになる。それを名取は知っていたろう。名取は世界各地を旅しながら、芸術に関心がなかったのではない。むしろドイツの美術工芸学校に学んでからは、常に芸術のことが頭から去らなかったであろう。誰もがいいと言うイタリア・ルネッサンスの絵画を見て、チョコレート缶の蓋に描かれる絵と酷評する一方、ロマネスク彫刻に魅せられ、ついにそればかりを撮影して1冊の写真集にまとめて上梓したが、それは日本にはまだほとんど馴染みのないロマネスク芸術を「報道」しようとの思いと、その素朴で奇怪な彫刻をどうすれば魅力をあますところなく写真で伝え得るかとの写真技術的な考えと決断の産物で、結局のところそれは「芸術写真」であったのではないか。名取の目はヨーロッパだけに向いていなかった。本展で紹介されたが、50年代半ばの中国の田舎の人々の生活もたくさん撮影し、また中国の麦積山の石窟をカメラマンとして初めて撮って1冊の本にまとめた。筆者はその2冊をまだ手に取って見ていない。それにロマネスク彫刻を見るためにフランスへ、また中国にも行くことがあるかどうか。名取より10年長く生きているのに、夢がない話だ。
by uuuzen | 2014-12-09 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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