蕭白の墓は京都の興聖寺にある。それがどこにあるか今調べた。堀川通りを少し西に入って上御霊前通りにほぼ面している。そのすぐ近くに広幅の生地を湯のししてくれる店があって、10数年前まではよく行ったが、数十メートルも歩かないところに興聖寺がある。

湯のしは同寺より堀川通り寄りなので、道をさらに東に行く用事はなかった。また当時その寺の前を通りかかっても蕭白の墓があることは知らなかった。知っても墓を見たいとは思わなかった。今なら多少は見たい気がするが、素っ気ない墓石ではないだろうか。若冲の墓と違って蕭白の墓は写真に撮られて紹介される気がほとんどない気がする。人気の差と言えばそれまでだが、ではなぜ若冲よりも人気がないのだろう。それは52歳で死んで作品が若冲より圧倒的に少ないことと、その生涯がわからないことが多いからだろう。それに画風だが、これは好き嫌いがあって、若冲よりはるかによいと思っている人があると思うが、その数となるとやはり若冲より少ないだろう。蕭白の人生は若冲のそれにすっぽり収まるが、ふたりは話をしたことがなかったに違いない。京都に住み続けた若冲と違って、蕭白は伊勢や播磨に二度ずつ滞在し、同地で作品をたくさん描いた。京都に墓があるから、京都でもたくさん描いたはずだが、絵に描いた年月を記すことは稀で、蕭白の作品はおおよそいつ描かれたかは印章の欠け具合に頼ることがもっぱらで、まだまだわからないことが多い。それは今後出て来る新発見の作によって充実して行くが、蕭白の絵は明治時代にフェノロサとビゲローが手当たり次第に買い集めてアメリカに持って帰り、大作はたぶんもう日本には残っていないだろう。たまに真作が市場に出るが、その割合は若冲の50分の1かもっと少ないのではないか。となると、絵の価格は若冲の50倍でもおかしくないが、若冲より安い。もっとも、大きさや出来映えによるし、熱烈なファンがいくら出してもほしいということになれば、若冲よりうんと高い値段で取引される。明治時代に金払いのいいアメリカ人が手当たり次第に買ったこともあって、たくさんの贋作が描かれ、その量は若冲のそれより多くはないが、それでもかなり目立つ。出来のとても悪いものから、ほとんど真作と変わらないように見えるものまであって、蕭白の真贋判定は若冲のそれとは比べものにならないほど難しい場合がある。大多数は単に醜悪なだけの仕上がりで、1秒見ただけで贋作であることはたいていの人にわかるが、数十点に1点ほどは判断が下せないものがある。また、印章が有名な真作に捺されているものと全く同じであり、出来栄えも優れているのに、どうも蕭白らしくないところがあるということで贋作と退けられる作があって、蕭白像は専門家の意見がどれも一致しているとは言えない。それは若冲もだが、どうも蕭白でないとか若冲らしからぬと言われると、一般人はもやもやが晴れない。そういう感覚で物を言ってもらっては困るというのが素直な感情だろう。ボストン美術館に入っているような大作はもう一般人には手に入らないから、蕭白ファンが狙うのはせいぜい幅30センチ程度、高さ1メートルまでの紙に描かれた水墨画だが、そういう作は蕭白はたいていは数分で描いたはずで、蕭白のちょっとしたエキスが含まれるだけと言ってよく、それが真作であっても贋作であっても研究家、評論家にはいわばどうでもいい問題で、蕭白研究に役立つ作品ではない。だが小品でも重要な作があるし、若冲のようにそっくり同じと言える作品を量産しなかった蕭白であるので、評論家は小品もたくさん追うべきだろう。
筆者は蕭白の魅力はさほどわからないでいる。去年日本の4会場で蕭白の作品をメインにした『ボストン美術館展』があって、それを見たが、筆者が見たかったのは図録の表紙にも使われ、また同展の目玉となった「雲龍図」だ。これは昔からよく知られていたが、同展に際して掛軸として仕立てられた。ただしこれは、4枚だったか、元は襖に描かれていた龍の中央の胴体部分が欠けている。これはフェノロサ、ビゲローが購入した時からなかったらしい。なければ誰かが復元し、その案を同展で紹介すればいいものを、それはなかった。小下絵でも残っていれば比較的簡単に復元出来るが、何もないではよほど蕭白の個性を熟知し、しかも絵が上手い人でなければ無理だ。「ミロのヴィーナス」の両手が実際はどうであったかを一般人から募集したことが昔あった。それと同じように「雲龍図」の失われた部分がどうであれば一番もっともらしいかを多くの人に考えさせるのも手だ。それはさておき、「雲龍図」は34歳の作で、もうすっかり技量は完成の域にある。数歳の頃から描くのが好きであったとすれば20年の経験で、それは当然というべきだろう。大きく描かれた漫画といった雰囲気で、「雲龍図」の迫力は蕭白にしてはわかりやすい。龍の顔がどこか困ったような表情で、そのコミカルさも楽しい。蕭白は冗談がよくわかる男であったと思うが、酒のせいだろうか、即興で描き散らしたような絵やまた部分がたまにあって、音楽で言えば、即興を多く含むジャズ演奏という感じがする。蕭白が京都を中心に西や東へそれなりに長期滞在したのは、簡単に言えば食うためだ。自分の才能を買ってくれる人がたくさんあるところならどこへでも行くのは当然のことだ。大家なら京都にいて向こうから絵を乞うためにやって来ればよいという態度でいられるが、蕭白はもともとどこででも暮らせるという気性であったのだろう。注文を聞いて京都でこなすより、現地に行って描いた方が早いし、また作画の様子を目の当たりにした人は別の注文をくれたり、人を紹介してくれたりするかもしれない。伊勢や播磨で描いた作は京都では知られることがほとんどないはずで、今と違って江戸時代はいい仕事をしてもそれが目に触れるのはごく限られていた。つまり、今の人の方がはるかに蕭白の絵をたくさん見る機会があるだろう。それで蕭白に関しては伊勢でたくさん描いたということで、三重県立美術家が昔から注目し、何度も展覧会を開いている。京都で大きな蕭白展が開催されたのは2005年、京都国立博物館においてで、2000年の若冲展と同じように分厚い図録が作られたが、長い間売れ残っていた。今もあるかもしれない。つまり、若冲ほどに人気を得ることが出来なかった。ボストン美術館にあるものを全部持って来るなど、真の意味で全貌展が開催されればいいが、なかなか無理だろう。今回は御影の香雪美術館で8月下旬から10月中旬まで開催され、久しぶりにまとまった数が見られると思って出かけたが、前期と後期を合わせても20数点という少なさであった。館内の広さから、また2か月近くも展示し通すことが無理であるため、仕方なかったと言えるだろうが、京都からでは前期と後期の両方を見に出かける気にはなりにくい。だが、2005年展当時10歳であった人は今は成人に達し、小規模でも本展を楽しみにした人は多いだろう。実際筆者が出かけた時、たくさんの若者がいた。若者と同じほど年配者もいて、さすが神戸と思った。
なぜ香雪美術館で蕭白展が開催されたかだが、同館は今回のチラシやチケットに印刷された絹本著色の「鷹図」を所蔵していて、それを三重での展覧会に貸し出したからであろう。お返し展ということだ。香雪美術館が「鷹図」を入手した経緯は知らないが、所蔵品を収集した村山龍平の生まれが現在の三重県であったことが関係しているかもしれない。また入手は明治に売り立てによるだろう。ビゲローらが入手する前に買ったのかどうか、もう同じ程度の作品は二度と市場に出ないはずで、優品が日本に残ってよかった。出品目録の最初は蕭白が名乗った「曾我」の先輩画家、曾我直庵と二直庵の「鷹図」が1点ずつ並んだ。このふたりの絵はたまに市場に出るが、二直庵の方は蕭白ほど高値ではないだろう。奈良県立美術館が昔このふたりの展覧会を開いた。その図録は長年売れ残っていて、3,4年前にようやく在庫が亡くなったと思う。それほどに一般にはあまり馴染みのない画家だ。蕭白はこのふたりの祖であった曾我蛇足という室町時代の画業の後を継ぐという自負があったのだろう。蛇足の絵をどこで見て感激したのか、とにかく古画に学んだことは確かで、また古画に魅せられるほどに同時代の画家の絵がつまらなく思えたのだろう。高田敬輔に絵を学んだという説があって、10年ほど前、滋賀で高田の作品をたくさん集めた展覧会を見たが、蕭白が学んだとしてもそれは筆や絵具の最小限の知識であったような気がする。蕭白の気性では師匠を慕い、その画風を真似るということはまずしないだろう。理想や好みは蛇足にあったということで、時代が下るにつれて温和になって来た京都の絵画というものが退屈でならなかったに違いない。だが、そういう激しい考えや生き方が許容されるのも平穏で豊かな時代であればこそで、その意味で蕭白は蛇足の画風を継ぎながら、きわめてマニエリスム的と言うべきで、そのことを自覚するだけに、苦悶がより大きかったのではないか。蛇足に劣らぬ技術と表現力を持っていたとしても、時代は室町ではなく、蛇足とは同じ味わいを漂わせる絵を描くことは無理だ。そして、一般には応挙や呉春の洒落て温和な絵が最先端の絵と評され、また歓迎されるから、蕭白に残されている道はせいぜい大法螺を吹くことしかないとも言える。それは空元気であり、そのことを見透かされないかと内心びくびくしていたかもしれず、その思いがどこかに感じられる、一種の悲しみを帯びた作品が蕭白画の実質で、またよさとも思える。「蕭白」という名前は誰かにつけてもらったのか、自分で考え出したのか、どちらにしてもさびしい響きでありまた情景を思い浮かばせる。画数の多い「蕭」は好みであったろうが、意味がいかにも心の状態を示している。蕭白の脳裏に常に浮かんでいたのが、野晒しの骨のようなさびしい荒野であったとすれば、それは10代で肉親を次々と失ったことに由来し、早くも無常を悟って後は好きなように生きるだけとの覚悟を決めたことになる。それはいつ死んでもよいとの覚悟を持つことであり、画風の変遷がどうのとか、どこに自分の代表作があって、また大事されるだろうかといったことには無頓着であったことを想像させる。それゆえにまたジャズ・メンを思い出すが、演奏する尻から音が消えて行く音楽と同じように自分の絵も描いている時こそが命であり、後はどうなるか与り知らぬことと考えたのではないか。実際、絵は自分の手を離れるとどうなるかわからない。命を大事にする人間ですら、呆気なく死んで跡形を残さないのであるから、絵ごときが長年残るのは奇跡かもしれない。だが、蛇足に私淑してその後継者を名乗ったからには、蕭白は絵の長い命を信じていたのは間違いがなく、自作を自分が存在した証として、他の画家とは違う何かを見てほしかったはずだろう。
香雪美術館の「鷹図」に蕭白「明大祖皇帝十四世玄孫」と署名し、大風呂敷を広げている。蛇足が明の人の血を引くと言われているので、それを知っていたとも思えるが、当時は中国の血を引くということが自慢になって、名前も中国風に3文字で書くことが流行った。柳や林という姓なら3字となりやすいが、日本では名字は2文字が普通で、3字で名乗るには2字の名字のどちらか片方を選んだ。そこまでして中国人を装いたかったことは今では信じ難いが、それほどに中国文化は日本の絶対的な憧れであった。蕭白もその例に漏れないということになりそうだが、曾我蕭白と4字で名乗るか、むしろ「鷹図」にあるように署名は長めが多く、大げさを好んだ。それが絵とよく釣り合っているが、単に「蕭白画」と書くこともあって、捉えどころに困る。話を戻して、香雪美術館が蕭白の「鷹図」を所蔵するので、本展は「鳥獣画の探求」という副題がついた。蕭白は人物画や山水画も多く、またそういう作で有名だが、せっかくの企画展であるので、鳥獣の画題に焦点が当てられた。蕭白は鷹をよく描いた。若冲も鷹を描いたが、数十点は残っていないのではないか。鷹という猛禽を好んだところに蕭白の狷介さがあり、またそこらの並みの柔な画家とは違うという自惚れがあった。その性質は育ちに関係しているだろう。まず、経済性で、蕭白は比較的金に苦労したのではないか。年譜によれば10代半ばで父が亡くなり、伊勢の米屋に奉公したとある。母を亡くすのはその3年後で、肉親の縁がそれでなくなった。そうなると、自分の腕だけで生きていかねばならず、どういう絵が売れるかを必死に考えたであろう。応挙のような優しい絵を描くと誰からも歓迎されたかもしれないが、それならば応挙の二番煎じになるし、また応挙の弟子がたくさんいた。その亜流になっては却って仕事の注文は来ないのではないか。それで隙間を狙うという思いと、自分ひとりどうにか食べて行くことは出来るはずで、好きなように描く道を選ぶと決めたのだろう。それほど個性というものが歓迎される、現在と似た状態にあった。それはともかく、明の皇帝の血を引くと署名する「はったり」を絵の発注者は真に受けたのか、それとも冗談を知って楽しんだのか。そのどちらもいたと思うが、そのように署名する画家は孤独にならざるを得ないだろう。そういう蕭白を認め、援助を惜しまない人がどれほどあったのかとなると、蕭白が頭を垂れる知識を備えた人格者以外にないような気がするが、そういう人物は僧侶や儒学者に多くいる。それで寺の襖に描く、あるいは寺の檀家から求められるということになったのだろう。蕭白画に賛を寄せる人物から交遊がわかるが、そういう作品はとても少ないと思う。謎めかせることが望みであったというより、当時の有名人との積極的な交流に乏しく、全体にさびしい人生ではなかったか。墓のある興聖寺付近に晩年の10年ほどを暮らしたと思うが、48歳で息子を失っている。妻はどうであったのだろう。52の人生は当時としては平均的であったかもしれない。