描くと撮るとでは大違いだが、写真のように描くとなると、写真を撮った方が早いし、また精確だ。野口久光という名前はどこかで読んだことがある。戦前から映画のポスターを描いて有名で会った人で、今回2か月にわたって京都文化博物館で原画を交えた展覧会があった。
1000点もポスターを描いたというので、仕事量は膨大だ。ポスター以外にもレコード・ジャケットや本、雑誌に俳優のイラストをたくさん描いた。京都文化博物館は映像シアターがあるので、本展を開催するのに最適な場所だ。というより、他の会場ではふさわしくなかった。1994年に85歳で亡くなっているので、CD時代まで生きたことになるが、LPジャケットにイラストを描いたので、晩年の10数年はあまり目立った仕事はなかったのだろう。映画のポスターが手描きされたイラストを印刷したのはいつまでかと思い返すと、筆者の記憶では60年代末期までの気がする。俳優やミュージシャンの写真を見てそれを手描きし、その原稿を印刷するという手間を取らずに、写真そのままを印刷することが普通になった。もちろん写真を網点で印刷することは戦前からあったが、映画の看板は職人が手描きし、ポスターもというのが常識であった。ロートレックが大判の石版画ポスターをたくさん描き、それが今は芸術となって美術館入りしているが、その伝統は映画時代に引き継がれた。大判のポスターは手描きしたイラストを版下として使うというその方法は、文字を同じ画面に書き込むことが出来るという利点がある。写真を使えばその文字を別に書いて組み合わせる必要があって、その手間を考えると、最初から全部を手描きした方がいいということになる。文字はもちろん映画ごとに違ったが、今はもう死語になったレタリングという文字デザインとそれを描く技術が60年代末頃まではまだ日本でも重要な仕事であった。野口の仕事は、映画のスチール写真を元にした模写の仕事と言えるが、ポスターには文字が欠かせず、また外国映画の題名その他のレタリングを、それによく釣り合う漢字や平仮名、片仮名で新たに描き直す必要があり、似顔絵画家とは別に、レタリングの才能があった。前者の才能は看板の描き手として日本全国に無数にいたと言える。だが後者は独創性が必要だ。そのため、野口のポスターの持ち味は文字デザインの方にあると言ってもいいかもしれない。戦前から戦後へと描き続けた野口が、映画のポスターにおいていつ引退のような格好になったかは本展でよくわかった。1953年の『恐怖の報酬』という有名な映画がある。イヴ・モンタンがトラック野郎としてニトログリセリンを運ぶ内容で、仕事を無事やり遂げたと思った気の緩みから最後に事故を起こして死んでしまう。それはいいとして、その作品のポスターが本展に展示された。それはモンタンら俳優の顔は丸い枠などに収めた写真で、映画の題名が野口のレタリングという折衷で、しかも当時はそれが目新しかったのだろうが、時代の過渡期を示す点で興味深いと言えるだけで、全体にちぐはぐな印象は拭えなかった。野口が写真を使うことを申し出たのだろうか。それはないだろう。俳優の顔を手描きする時間がなく、仕方なく写真を使ったかもしれないし、また野口に支払うギャラを抑えるために、レタリングのみ担当させたかもしれない。理由はともあれ、50年代前半にもう、映画のポスターでは野口の活躍の場が狭められ始めたということだ。それでも戦前から活躍する野口であるので、相変わらず俳優は手描きに限ると認められ続け、60年代までは盛んに描いたようだが、70年代に入るともう仕事が途切れたのも同然となった。それはTVの影響もある。60年代半ばまでは映画館がどの町にもあったのに、それが急速に減少し始めた。そのことと野口の仕事が激減したのは時期を同じくする。
また、本展の題名にあるように、ヨーロッパ映画のポスターで腕を発揮した野口で、70年代に入った頃からはもっぱらアメリカ映画が日本でヒットするようになり、しかもカラー写真を使った大判のポスターが印刷されるのが普通になった。野口のように手描きすると、どうしても描き手の個性が滲み出るが、写真ではその割合が限りなく減少する。そして文字だけ変えれば世界中で同じポスターとなる。そのことはビートルズのアルバムを思い出せばよい。日本では最初彼らのLPは日本独自のデザインであった。それが66年から変化し始め、やがて全世界同じジャケットになる。筆者は当時日本独自のデザインがいかにも田舎じみているように感じ、輸入盤が手に入ればその方がよいと思っていた。ところが、そういう日本盤を知らない世代が出現すると、外国でも日本独自のデザインが面白いと歓迎されるようになり、今では日本で発売されたLPをそのまま縮小してCDジャケットにするという企画ものが発売されることになった。また、今から当時の日本独自のジャケットを見ると、それなりにいい仕事をしていたと思えるが、それと同じことが野口の映画ポスターにもあるということだ。そのことを示すのが、本展で特別に紹介されたトリュフォーの1959年の映画『大人は判ってくれない』だ。このポスターを野口は担当し、来日したトリュフォーが見て絶賛した。黒いタートルネックの首で口を覆った少年が腕を組んで目を横に向けている姿を描いたもので、写真そのままではなく、野口は少年の目の白い部分を誇張している。絵ではそういうことが可能だ。そのことをトリュフォーは気に入ったのだろう。それでそのポスターを監督はフランスに持って帰り、後の映画の小道具として使った。部屋の壁にそれが貼られているところを撮影したのだ。そのスチール写真が本展に展示されていたが、ポスターの左端に縦長に書き込まれている映画の題名は切り取り、どうしても見えてしまう右下隅の東宝のロゴマークは絵具で塗りつぶした。そのため、野口のポスターであることは映画を見た人もわからなかったはずだが、よくよく見ると、少年の顔が少し違うので手描きされたものであることがわかるという仕組みだ。なぜトリュフォーは日本のポスターそのままを撮影しなかったのか。それは当時のフランスでは日本の映画ポスターを入手する人がまずいなかったからだ。ともかく、トリュフォーは野口の画家としての才能を高く買ったことになるし、また写真が必ずしもいいとは限らないことを示したとも言える。手書きのよさは微妙な修正が出来ることだ。写真でもそれが出来るが、慣れた人物が描いた方が早い。そういう職人芸を野口は戦前から磨き続け、また生涯の半ばで時代が大きく変わって映画ポスターでは才能を発揮する場所がなくなった。それは不幸なことだが、映画や印刷に沿った仕事であるからには仕方がないところがある。また、それとは別に、野口の才能が50年代、いや戦前でほとんど完成し、成長がなかったからでもあろう。戦前ならば野口の仕事はとても斬新に見えたと思うが、戦後になると、筆者にはどうも時代遅れの感じがしてならなかった。野口のポスターにおける様式が戦前で固定化し、戦後さまざまなヴィジュアル・デザインが発達したことに沿えなくなって行ったのだ。それは野口のポスターが戦前において絶賛されたことに原因もある。そうなると、容易に様式を変化させることは出来ない。戦前は白黒映画ばかりで、野口はそのスチール写真を見てカラフルなポスターを描いた。そこが野口の才能の発揮のしどころであったのが、総天然色映画が増えると、野口のポスターは色褪せて見えるようになる。大判の原色写真印刷が簡単に出来るようになれば、もう手描きは必要とされず、また手技の味を持ったレタリングは活字に取って代わられる。ビートルズのLPがそうであった。
ポスターで出番を失った野口はそのほかのジャンルで仕事を続けるが、一方で戦前からジャズの評論もしており、仕事に困ることはなかったのであろう。70代と思うが、黒縁の眼鏡をかけた顔写真が本展のチラシの裏面に載っている。現在の東京芸大卒であるから、学者のような風貌で、またいかにも洒落ている。本展で筆者が驚いたのは、10代の頃にノートに書いた映画に関する記述だ。その文字はとても小さく、また活字のように揃っていて、しかもレタリング風ですでに文字のデザインに才能を現わしていたことがわかった。几帳面なその筆記は後年のポスターにそのまま受け継がれている。筆者も中学生の頃、学校のノートを先生に絶賛されたことがある。中学1年生の頃に2ミリ四方内に収まる極小の文字を紙面が真っ黒に見えるほどにびっしりとペン書きしたカードを何百枚も作ったことがあって、それを長い間所有していた。大人になってそれを見返すたびに、もうとても同じことが出来ないと思い、中1時代になぜそんな根気のいることをしたのかと多少悔いた。それとともに、中1の頃の筆者はどこか狂気を抱えていたと自覚するようになったが、その狂気がその後消えたのか、あるいは相変わらず潜みながら、別の形を取って現われているのではないかと思う。その一例が毎晩こうして書くブログかもしれない。ともかく、中1の頃のような抜群の視力はもうないので、同じような微細な筆記はもう無理だが、野口の10代のノートは筆者には充分納得出来るもので、そういう才能をその後に映画の分野で思う存分発揮出来たことは幸福であった。映画というものがあって生まれた、また食うことが出来た才能と言え、同じような人物は外国にもいるのだろう。今回は外国での封切り時のポスターも何点は展示された。それを野口のものと比較すると、決してひけを取らないどころか、野口の作品の方が色艶があり、また造形的にも優れていた。そのため、ビートルズの日本独自のLPジャケットと同じように、野口のポスターをほしがる外国人が今後増えるのではないか。漢字や平仮名が描き込まれていることが却って面白いとされる時代になっていて、中国が野口の作品を大いに参考にしてDVDのパッケージなどに使うようになる気もする。あるいはもうすでにそうなっているかもしれない。
会場で女性係員に大きな声で質問している中年男性がいた。それは、ある頃を境に野口のポスターの横書きの文字が、現在と同じように左から右へと読ませるように変わったことだ。その正確な年月がいつかと言うのだ。そのヒントを与えるのがヒッチコックの1936年の『39夜』だ。「39」は数字であるから「93」と書けば意味が違って来る。そのため、この映画の題名はポスター上部にあって左から右へと読むように書かれた。ところが、野口は題名だけそうして、監督や俳優の名前を右から読ませるようにするのはデザイン的にまずく、またポスターを見る人も混乱すると思ったのだろう。それで画面下の小さな文字による名前はみな題名と同じように左から右へと書かれた。ではその次のポスターからずっと同じようにしたかと言えばそうではない。『39夜』は例外であった。とはいえ、戦後は左から書くのがあたりまえとなる。本展のポスターの半分くらいは筆者は題名を知っているか、見たことのある映画であったが、もう半分は初めて知るもので、野口との年代差を実感した。今の若い人ならもっとだ。戦前の映画を見る機会は乏しいし、また関心もさほど湧かないが、それほどに映画はたくさん撮られて来て、また筆者のように歳を重ねると、時間がたっぷりあるようで、実際は全くその反対で、のんびりと筆者が生まれる前の時代の映画を探してみようという気になれない。手元にDVDがあってもなかなか見る気になれないものだ。それは過去の作品がすべて名作と言えないと思うことと、やはり接する機会がないためだ。今回は予告編ばかりをモニターで見られるコーナーがあった。それは知らない映画に興味を持つにはとてもいい機会だが、筆者は一瞥さえしなかった。ポスターなど野口の作品展示があまりに多かったのと、本展を見た後、フィルム・シアターで日本の古い映画を見る予定があったからだ。その映画はぜひとも見たいものではなかった。だが、せっかく出かけたので、ついでに見たことのない映画が無料で見られるならば、見ておこうと考えた。野口は日本映画のポスターを描いたことがないかと言えばそうではない。野口の才能を熟知していた大林監督が、80年代だったか、野口にポスターを依頼した。それがほとんど最後のコーナーに展示されていた。一見して野口のスタイルとわかるもので、とても懐かしいようなデザインだ。監督はそのことを狙ったのだろう。だが野口にすればそれは本当は自分が骨董品にでもなったことを自覚せねばならないことで、実際は辛いだろう。とはいえ、ほかの様式で描くことは出来ない。そこにどの作家も味わう時代の大きな変化がある。人生の長さに比べて時代の変わり具合はあまりに激しい。絶えず時代に乗って生き続けることは無理な相談だ。そう考えると、長く生き過ぎないことだが、寿命がどれだけあるかは誰しもわからない。野口は1978年に紫綬褒章、84年に勲四等と旭日小綬章を受章した。ポスター界で今後同様の才能が出て来るだろうか。