庶民の街と呼ぶにふさわしい阪神尼崎駅から急げば5分のところにある尼崎市総合文化センターの美術ホールで本展を見た。先月22日であったと思う。1週間ほど前のことでも筆者は何日であったかをすぐに忘れる。というより覚える気が最初からない。

それはさておき、当日は本展の前にふたつ展覧会を見た。3つ目となるとなかなか時間がない。それで当日は午前中に家を出た。筆者には珍しいことだ。それもまあよい。だいたい展覧会は5時で終わる。その30分前に入口は閉じられる。尼崎駅に着いたのが4時半の2,3分前で、もう駄目かと思いながら急いだ。同じことは同じ美術ホールで確か去年もあった。4時35分くらいに着くと、案の定、分厚いガラスの2枚扉は閉じられていて、そのすぐ向こうに『本日は閉館しました』の立て札があった。まだ受付におばさんはいて、ガラス越しに筆者を見た。それで中に入れてもらえないかと訊くと、無愛想ながらも扉を開けてくれた。それと全く同じことが今回も繰り返された。たぶん同じおばさんだ。「4階はもう見られませんよ」と言われたが、それは閉館まで20分しかなく、5階から見始めると、とても4階の展示までは鑑賞出来ないという意味だ。成瀬國晴には悪いが、本展を見たのは15分だ。ただし、真剣に見たのでそれでも充分と思った。また、会場でもらったチラシは見開き両面がカラー印刷で、ちょっとした図録代わりになる。これはかなりにサービスだ。会場は筆者と家内のほかは4,5人というさびしさであったが、昼間はもっと多くの人が見たと思いたい。この会場に初めて筆者が出かけたのは70年代後半だ。1980年に若冲展が開催された。それは強く印象に残っている。それから34年経った。会場は同じたたずまいをしているが、かなり古びて来た印象は否めない。成瀬がなぜこの会場で展覧会を開くことを思ったのかは知らない。最初に書いたように庶民が住む下町で、人口が多く、阪神ファンの本拠地と言ってもいいからか。だが、この会場で展覧会を開いても入場者は見込めないのではないか。1980年の若冲展もがらがらであった。当時その若冲展が大阪や京都の百貨店やあるいは美術館で開催されなかったのがとても不思議だ。今なら若冲の作品が少しでも並べば大入りだろう。そこから推せばこれから30年ほど経てば成瀬の人気ももっと高まるだろうか。たぶんそれはない。展覧会の題名にあるように、イラストレーターの呼称は軽い。そこがまたよさで、成瀬の持ち味だが、そのことは後述する。ともかく、本展会場には全部で10本近い本展を記念する人気どころからの幟旗が随所に立てかけられていて、成瀬の交友の広さがわかった。そのほかに花もたくさん届いていて、60年の画業を集大成する成瀬の一大回顧展であることがよくわかった。またそれだけに、古びた、またごくわずかな観客がものさびしかった。これでは成瀬も残念がるだろうと思った。だが、尼崎、大阪はそういうものかもしれない。「総合文化センター」の中に美術ホールがあることを道行くおばちゃんやおっちゃんのどれくらいが知っているだろう。また知っていても会場に足を運ぶだろう。若冲シンポジウムでとある学芸員から聞いた話だが、西宮市大谷記念美術館で2年前に虎にまつわる展覧会を開催した。寅年に因んでのことだ。そこには阪神ファンが沿線に大勢住むので、彼らに足を運んでもらいたいという目算があった。ところがその当ては見事に外れたそうだ。阪神ファンは美術に興味などないことが実証された。では成瀬のイラストはどうか。芸人や阪神球団の面々の似顔絵をふんだんに描く成瀬であるから、関西人ならば絶対にどこかで成瀬の絵を目にしている。それでも興味はそれ以上には湧かないのではないか。尼崎なら成瀬の絵に似合うと思って開かれた本展は、先の虎展と同様、当てが外れたように思える。そうでなかったことを祈るが、せっかくたくさんの作品を集めたのであるから、大阪市内の百貨店などに巡回すればいい。あるいは大阪歴史博物館が企画しないものか。その貫禄は充分にある。大阪が彼の展覧会を開かねばいったいどこが開くというのか。そう考えると、大阪における文化の質と程度が知れるようだ。
本展を見た翌日、筆者は家内に言った。「たかじんの似顔絵はなかったな」「いや、あったわよ。たくさんの人物のひとりとして登場していた」「それやったら、たかじんがまだ若い頃やろな」。成瀬は大阪の芸人の似顔絵が代表作と言ってよく、本人も昔はTVによく出演していた。20年か30年ほど前のことだ。それで筆者は成瀬の画風と、その面がまえを知った。目立つ顔で、芸人にもなれたろう。イラストも芸であるから、成瀬を芸人と呼ぶのは間違いではない。そういう彼が大阪を代表する人気者と言われたたかじんの似顔絵をほとんど描かなかったのはなぜか。集合人物のひとりとしての扱いは、まだ新人であったからだろう。その後たかじんは東京に対する舌鋒鋭い芸人の筆頭となった。たかじんは歌手だが、冠番組をいくつも持ち、政治に口を出してからはますます人気が出た。遺産は10億近かったそうで、その意味でも関西を代表する芸人と言ってよい。そういうたかじんを成瀬が描かなかったのは、交際がなかったからとして、取材は出来るはずで、そうしなかったのはやはり成瀬の好みのせいか、あるいは接することがあったのに、お互い反りが合わなかったのかもしれない。そこに筆者は関西、大阪のお笑い芸人社会の微妙な棲み分けを思う。成瀬は大阪のド真ん中の生まれで、一時疎開で滋賀に行ったが、大阪人であることの誇りを持っていることは作品からすぐにわかる。その点はたかじんと同じだが、なぜかふたりは資質が全く違う。品と言ってもよい。成瀬は政治には口出ししないのではないか。それに、堂々とした態度ながら、古き上方文化のよい部分を具えている。そういうものはよしもとの芸人によって30年ほど前から大きく崩されて来たように思う。簡単に言えば下品になった。そこにも笑いというものがあるから始末に悪い。笑いを取れば人気者になるし、そうなれば金も得て、ますます下品になる。悪循環だ。そしてそういう圧倒的な迫力が全国に広がり、心のどこかで眉をひそめながら人々は笑いに同調する。そういう時にその傾向に水差す意見を唱える者は激しい反感を買う。話は変わるが、筆者が知る京都在住のある写真家は、東大阪の町工場経営者の仕事している様子を写真に撮りたいと思っているが、そこにはまだ大阪のよき部分が残っていると思うからだ。翻って大阪の芸人の代名詞となっているたかじんは、誰もがもて囃すが、そのどこがいいのかさっぱりわからないと口にした。筆者も同感で、晩年のたかじんの番組はさっぱり見る気がしなかった。読売TVの片棒を担ぎ、右翼に同調する庶民を増やしただけで、たかじんの周囲に集るゲストたちの顔を見ると反吐が出そうであった。東京憎しはいい。そこで留めておけばよかった。大阪生まれの人間なら誰もが東京に対抗する意識は持つし、またそれだけ大阪、あるいは上方には東京にないよきものがたくさんあることを知っている。政治は東京に任せておけばいいではないか。江戸時代の上方はそうであった。武士が少なかったので、お上を慮る意識は少なかった。そのために江戸時代を代表する大型の文化の華が咲いた。江戸時代の大阪の金のある町民は、暇を見つけていろんな芸を身につけることに勤しんだ。金が貯まると教養も身につけるのが余裕というものだ。その考えは現在の大阪にも残っているだろうか。たかじんが10億近い遺産を残したとして、彼は歌以外にどういう幅広い芸に関心があったか。ま、それを言えば今の大阪市長も似たようなもので、大阪固有の文化は有名人よりもむしろ好きで携わっている人たちが次世代に伝えて行くだろう。
見開きチラシ内部に本展の部門別に数点すつ図版が載せられている。その題名だけ列挙すると、「大相撲」「プロ野球」「上方落語」「天神祭り」「見立て写楽」「上方芸人」「文楽・たばこ・CD・立体・その他」で、どの部門も見ごたえがあり、また成瀬の類稀な力量を示してあまりあった。これらとは別に、若き日の淀屋橋界隈の写生があって、そのまま進めば本格的な画家になったと思わせた。それが似顔絵、イラストに向かったのは、食うためであったかどうかそれは知らない。TVに出演していたことからすれば、お笑い芸人とわたり合えるだけの口達者で、度胸もあったと言え、本格的な画家になっていても有名になったであろう。また、画家はたくさんいるから、彼が大阪を代表する似顔絵師、イラストレーターになったのは、大阪の芸界にとってはとても幸運であった。人気があったから、今の若手漫才家の用に東京に進出し、東京の芸人や風俗も描くという方向を採ることも出来たろうが、それをしなかったところが見事で、彼の名前と作品は大阪と不即不離の関係で記憶されて行く。作家の藤本義一と仲がよかったそうで、藤本が死んだ時に葬儀委員長を務めたそうだが、そこにも成瀬すなわち大阪人ということが見て取れる。藤本は『11PM』に出なくなってからはめっきりTVで見る機会が減ったが、藤本の生き様を成瀬は慕っていたのだろう。そして、藤本のことが忘れられれば成瀬の作品も同じ運命を辿るように思えるが、大阪人はそうしてはならない。藤本に具わっていた大阪のよき面は今は誰が受け継いでいるのかと家内と最近話したことがある。そしてふたりともしばし考えて言葉が出なかった。今の大阪文化は最悪の状態にあるかもしれない。繰り返すと、品格の問題なのだ。話を戻す。ざっと15分で流し見した作品群のうち、今こうして書いていて最初に脳裏に浮かぶのは、芸人のイラストではなく、たとえば疎開している時に雪の中を母がやって来たところを描いた作品だ。成瀬がどうしても描いておきたかったそうした自分の子ども時代の思い出は、成瀬の優しい、また情に厚い人柄をよく伝える。筆者はそういう作品を描くときの成瀬の顔を想像する。それは真面目、真剣であるはずで、またそれが成瀬の本質だ。大阪独自のB級の食べ物を描いたイラストも面白かった。昭和30年頃までに大阪に生まれた人ならそういう作品はわずか数秒見ただけでも一生忘れないだろう。筆者が成瀬の技術力の頂点をなすと思ったのは「見立て写楽」だ。木版画の味を出すために筆致に苦労したと説明にあったが、全くそのとおりにはずで、間近に寄っても木版画に見える。また藤山寛美、桂米朝、桂三枝などを写楽の有名な版画それぞれの人物になぞらえ、またイラストだけではなく、奥さんの押絵を使って表現している半立体的な作もあったが、写楽の作品を忘れてしまいそうなほど本歌取りをしている。それは似顔絵があまりにも本人たちに似ているからで、またそれは当の芸人たちの顔がどれも個性的であることに負っていて、半分は芸人がそうした顔を芸を通して長年の間に造り上げたためだ。おおげさに言えば大阪を代表する芸人の顔はそれだけで文化財で、そのことを改めて感じさせるのが成瀬の似顔絵ということだ。似顔絵は誰でもそれなりに描けるが、繰り返すと、成瀬のそれはどれもきわめて個性を的確に捉えながら、品がある。そしてその品は大阪人だけが生み得るようなもので、成瀬の才能はもっと評価されるべきだ。「上方落語」のコーナーでは桂枝雀のイラストが印象深かった。成瀬は彼の落語を語る時の姿を絵になると書いていて、おそらく彼の姿を見ながら筆を走らせたのだろう。全く成瀬の言葉どおりの作品群で、また自殺した彼を思い返し、落涙しそうになった。成瀬は素早く的確な筆さばきが出来る才能で、それは「大相撲」と「プロ野球」のコーナーの作品に顕著であった。「上方落語」では芸人の顔を嵌め込んだ花札が展示されていて、その色合いは花札そのものとしても、全体に成瀬の画風そのままで、やはり本歌取りがあまりに巧みであって、また古典を無視しない態度が見えて頼もしい。筆者は知らなかったが、有名な『カメラのなにわ』の看板になっている眼鏡をかけた初老の男性のイラストは成瀬のものであることを知った。大阪人なら必ずどこかで成瀬の作品を見ている。成瀬の後を継ぐ才能がもう出ているのだろうか。60年にわたる画業は膨大で、それを一堂に介する本展はもっと大大的に宣伝し、多くの人に見てもらわねばならない。ぜひとも巡回展が開催されるべきだ。