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●『岩合光昭写真展 いぬ・ぱんだ』
虫を自主製作した特殊なレンズを使って撮影する写真家の展覧会を何年か前に見たことがある。植物を撮るのが専門であったり、富士山しか撮らない人がいたり、写真家はさまざまだ。



●『岩合光昭写真展 いぬ・ぱんだ』_d0053294_115279.jpgもう入り込む隙間がないほどに多様化かつ過剰気味に存在しているのだろう。今はペット・ブームで、かわいい小動物を撮る写真家が人気を博すのはわかる。岩合光昭は世界各地の野良猫を撮影する番組をNHKで放送してもらって人気の裾野が一気に広がったのではないだろうか。筆者が名前を知ったのもその口だ。だが、「岩合」をどう読むのかわからず、今調べて「いわごう」とわかったほどで、関心があるほどではない。であるのに今日は彼の写真展について書くのは、気軽な気分でちょうどいいと思うからだ。大阪の心斎橋大丸で開催された展覧会をたぶん10月5日に見た。4日の土曜日であったかもしれないが、どうでもよい。この日も展覧会を3つこなした。本展を見たのが最後で、それは午後8時まで開催していたからだ。午後5時閉館は早過ぎて困る。8時までというのは買い物ついでに見てほしいということで、百貨店での展覧会は気軽に見られるものがほとんどだ。そういったものでも本展はトップ・クラスに属する。それは写真展でもあるからだ。絵画と違って写真は一瞬で対象を捉えたもので、見るのも同じくらいに一瞬でよい。その理屈で言えば1年要して描いた絵は1年は見続ける必要があることになるが、そのとおりだ。だが、カメラのシャッターを押すのは一瞬でも、これぞという被写体に出会うまでに何日もかかることがあるから、写真も絵画と同じほどに時間をかけて鑑賞すべきという意見があるだろう。それに対して言えるのは、絵画でも準備期間があることだ。描きたいものを見つけ、素描をたくさんこなし、そして絵具やキャンヴァスの用意をして描く。それはいいとして、作品というものは時間がかかるものだ。その中でも写真は最も手軽で、誰でも撮影出来るし、筆者も毎日のように何かを写している。とはいえ、それではプロにはなかなかなれない。つまり、金を払って見てもらえるようなものは撮れない。そこは岩合光昭のように、人生の大半を撮影することに費やす必要がある。何でも長年携わることだ。数を打てば当たると言うように、数をこなすことで素人の域から脱する。デジタル・カメラとなってからは、写真家は息をするのと同じほどの枚数を撮ってもフィルムのように金を使わずに済むから、「数打てば当たる」の考えはより浸透したであろう。これを饒舌と言ってもよい。フィルム時代は一般人はシャッターを大事に押した。フィルム代や現像代を含むと、写真1枚当たり100円近かったのではないだろうか。写真はそれだけの価値があるものという思いがあった。デジカメとなると、紙に焼きつけることがほとんどない。筆者も数年に一度、しかも数枚程度をそうするだけで、後はみなパソコンで眺める。写真の大事さが変わった。軽くなったと言ってもよい。何しろいくら撮影しても無料同然だ。食べ放題の料理にあまり碌なものがないのと同じで、シャッターを押しつかれるほど撮ってもまだ記憶媒体に余裕があるという状態では、撮ることに緊張感がない。その点、岩合氏はどう思っているかだが、筆者より1年早く生まれたから、フィルムで撮影して来た年月の方がまだ長いはずで、フィルム時代の感覚でデジカメのシャッターを押しているのではないだろうか。つまり、じっと機会を待って、やたらと押さない。いやいや、名前がよく売れて経済的に豊かになったために始末、節約の考えを捨て、またデジカメであるから、食べ放題の料理を皿に山盛りにするような感覚でやたらシャッターを押しているとも考えられる。そこには別の理由もある。被写体が植物のようにじっとしておらず、自由気ままに動く動物だ。機関銃のように連写する必要があるかもしれない。
 さて、NHKのTV番組で岩合すなわち猫と思い込んでいたのに、本展はいぬとパンダだ。パンダをぱんだと平仮名にしているのは、よりソフトな印象を与えたいからで、どこまでもふわふわの柔らかさに包まれた動物たちを印象づけようとしている。恐竜や猛獣とは違って、安全な動物だ。そしてパンダはさておき、犬はペットで、チラシやチケットには小犬の写真だけが使われている。パンダもそうで、大人のパンダは登場しない。人間でも数歳の子がかわいいように、犬やパンダも小さなものは文句なしにかわいい。どのように撮影してもかわいくなるのはあたりまえで、写真家としての技術はほとんど不要と言ってよい。相手はまで世の中の残酷さを全く知らず、人間の前で無防備だ。そういう生き物がかわいらしくないはずがない。そしてそこに目をつけて写真を撮り、展覧会を開けば、誰でも癒される気持ちで会場内を歩く。筆者もその口であった。その一方でラルースの動物写真図鑑を思い浮かべていた。それとは別に筆者は動物図鑑を持っていて、どちらも昆虫から猛獣、鳥類、魚介類まで100冊以上で網羅されているが、ムカデの写真まであって、開きたくないページがある。ラルースのは朝日新聞社が60年代に発売した。その後に同じ体裁でペット百科も出たが、これは所有しないが、古本で見たことがある。図鑑であるから、写真は動物の特徴がよくわかるような姿で撮影されている。つまり、かわいい仕草をしていない。それでも犬たちの真面目と言えばよいか、凛々しい表情は見ていて楽しい。そういった写真と本展の写真は全く違って、晴天下の花満開といった自然の中に幼犬を遊ばせて動きのある瞬間を撮っている。それはそれの苦労があるが、じっと動かないようにさせ、置物のように撮ることの方が案外困難ではないか。動物写真家は動物が大好きである必要があるだろう。だが、実際は突き放して見つめる冷静さが欠かせないだろう。そこが動物写真の難しさと言える。幼犬であっても本能があるから、大きな人間が内心面白くない考えを抱いて接近して来ると、それを察知して表情がこわばるだろう。そうなっては困るから、言葉は悪いが、相手をどこかで騙す冷たさを持たねばならない。それは撮影者の保身にもつながる。猛獣を撮るのでなければ警戒を持つ必要はないが、気の緩みからはいい写真は撮れないだろう。相手はただただ無邪気に遊び回りたいのに対し、写真家は自分の飯のタネとして満足の行く写真をものにする必要がある。つまり、相手を作品として自分の望みの枠に閉じ込める。そして、その思いと、手放しで相手を微笑ましく見る気分の和みとが、写真には表現される。それを作為と自然さと言ってよいが、その両方を鑑賞者は感じるもので、岩合氏の写真も例外ではない。作為は言葉は悪いが、写真家のこだわりであり、個性だ。それがなければ素人と同じだ。そして、その作為の部分において作家は評価されるべきで、作為が鑑賞者にどう感じられるかで、好き嫌いに分かれる。自分では全く写真を撮らないような人でもその作為の部分は何とはなしに感じるもので、その事実を表現者は絶対に忘れてはならない。つまり、ごまかしは利かないということだ。ところが、有名になると、そのことを忘れてしまうのが多い。人間は勘違いする動物で、それは有名になり得る人でも変わらない。
 本展で展示された犬は日本犬を初め、世界中の犬が揃っていた。そのため、取材は長年かかったであろう。いろんな種を網羅することはラルースの図鑑の考えと同じで、岩合はそういう図鑑の仕事もして来たのではないか。あるいは、展覧会を開くにはたくさんの種類の犬を見せる必要があったためか。最初は日本犬の写真が展示され、しかもどの写真もかなり大きく、子犬が成犬かもっと大きく写っていた。そのため、毛の一本ずつまではっきりと見え、デジタル・カメラの性能のよさを再確認した。黄色いキク科の花の前に柴犬の子どもだろうか、数匹が勢揃いした作品があった。光が少なかったのでストロボを使ったのだろう。犬と背景の花が合成写真のように思えた。それほど鮮明で、どこにも黒い影がない。それは不自然と言ってよい。岩合が意図してそういうように撮ったのかどうか。他には同じように見える写真がほとんどなかったので、たまたまそのように写ったのだろう。写真家が見てほしいのは、小犬のかわいらしさで、背景は選んだのではなく、ほとんど偶然だろう。だが、偶然の中でもここぞという瞬間を逃さずにシャッターを切るから、結局は背景を選んだことになる。写真家は偶然を必然にする作家だ。動物写真では特にそうだ。小犬であるから成犬以上にはしゃぎ回る。その一連の動作の中でこれぞという写真を撮るには、なおさら作為の面が出ることは避けられない。とはいえ、犬がいる現場に行って撮り始めることは、その場に応じることであり、絵画のように何から何まで作者が決定することではない。そのため、悪く言えば場当たり的な作品になる。写真はだいたいそういうものだが、そうであるからこそ、ラルースの写真図鑑の撮影は大変だと思う。場当たり的でいいのなら、素人でも同じ条件にある。犬や猫が大好きで、カメラの知識も豊富な人は、それなりに岩合と似た写真を撮ることが出来るだろう。問題は網羅性で、大きな会場で展覧会を開き、鑑賞者を満腹な思いにさせるほどに多種多数の写真が用意出来るかどうかだ。日本固有の犬を網羅し、しかも外国の犬まで撮影するとなると、毎日撮影する専門家でないと無理だ。さて、筆者はペットを飼ったことがない。犬も猫も大好きというほどではないが、犬は近年はかわいいと思えるようになって来た。だが飼うつもりはない。小犬をたまに見かけるが、そのかわいらしさに文句なしに顔がほころびる。人間の赤ちゃんのかわいらしさは自分の子を持った人ならなおのことわかると思うが、小さな生き物はみなかわいいと感じる。先日庭の土を掘り返していてムカデを3匹見つけた。どれも大きなもので、部屋に上がって来ると殺すが、庭は彼らの領域だ。筆者のスコップから慌てて逃げる様子を見て、とてもスコップで潰したり、切ったりする気になれず、掬って別の場所に移してやった。ムカデは気味悪いが、蜘蛛でも蛇でも筆者は殺す気になれず、見つければ逃がす。ところが、先日は関東のどこかで数十匹の犬が死んでいるのが発見された。ペット業者が処分に困ったのだ。
 ペット屋に行くと、小犬や子猫がガラスの向こうにいる。小さくてかわいらしい時に買われればよいが、成長して来ると売れない。しかも餌代が嵩むから薬殺される。植物でも間引きがあるので、ペットとして育て、売られる犬や猫の大部分が小さな間に殺されるのは理解出来ないでもないが、ペットはどこまでも人間のつごうにより、癒しのための道具のようなものだ。昭和40年代までは野良犬が街中にたくさんいた。今は皆無だ。それは犬にとっていいことと犬愛好家は言うだろう。筆者は犬はモンゴルの平原のような広いところで一生を過ごすのが理想と思っている。それが日本でペットになれば、狭い部屋で大半の時間を過ごす。それでも犬は文句を言わず、飼い主の顔色をうかがう。本展の写真に見える犬はどれも血統がしっかりしていて、雑種はほとんどいなかったと思う。つまり、図鑑的で、ラルースのペット百科に使えそうな写真ばかりだ。日本は裕福であるから、雑種を飼う人より、高価な血統がはっきりしている犬をほしがる人の方が多いかもしれない。だが一方ではそんな犬でも捨てる人がある。野良犬は雑種と昔は決まっていたが、今は野良はおらず、また野良にされるのは血統のある犬ということなのかもしれない。それはともかく、本展がペット・ブームに便乗したものであることは明らかで、それほどに今の日本は多くの人が癒しを無抵抗な小動物に求めている。夫婦が子どもをわずかしか産まなくなり、その代わりに犬や猫を家族の一員として扱う。墓石に家族の戒名に混じって犬の名前を彫っているのを見たことがある。その傾向は今後ますます増大するだろう。ペット産業が潤い、動物写真家が引っ張りだこになる。岩合の写真展は同時に別の百貨店でも開かれていたように思う。そしてそこでは猫をテーマにしていた。半世紀近く動物の写真を撮って来たのであるから、同時にいくつもの展覧会が開催出来るほど大量の作品があるだろう。それはデジタル時代になってより増えたはずだが、その分、どの写真も一瞥されるだけだ。それでも鑑賞者は満足し、いいものを見たと思って自分を善人のように感じる。いつまでも小犬のままで育たない犬をそのうち日本は開発するのではないか。『かわいい』の言葉を世界的にした日本はそれが求められていると考えている。「かわいさ余って憎さ百倍」という表現があるが、かわいさを求める社会には強大な憎悪が渦巻いているということか。筆者が思うに、ペット好きな人は、愛するペットを手元に置きながら、自分が守ってやらねばこの子は死ぬと考えているのだろう。その気持ちはよくわかる。それほどに大切にされるペットばかりであってほしい。本展は文句なしにかわいい犬やパンダの写真を大量に見せることで、いろんなことを考えさせてくれる。
by uuuzen | 2014-11-26 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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