耄碌したなとは言われたくないし、自覚したくもないが、自覚出来る間は耄碌していないと言えるだろう。アメリカの研究で、肥満の人ほど認知症になりやすいことがわかったそうだ。筆者は肥満体ではないと思っているが、身長からすれば3,4キロは多いそうで、肥満気味と言える。

先ほど家内と「風風の湯」に行って来たが、妊婦ではないのに、驚くほど腹が出っ張っている中年女性が入っていたそうだ。大きなボールが詰まったような丸い腹は○ではないだろう。その女性は自分の姿を省みることが出来ないのか、それとも夫からそのような体形がいいと賛美されているのか、あるいは太り病か。事情は知らないが、そういう人が認知症になりやすいことが事実ならば、自分の腹を引き締めておくべきことを改めて思う。だが、認知症になってもそのことを自覚出来ないのであればどうでもいいことで、認知症を怖がる必要は全くない。ただし、ひとつはっきりしているのは、周囲が困惑、迷惑することだ。まともな人なら誰でも周囲に迷惑をかけたくないと思っている。家内の父は90いくつで亡くなったが、死ぬ間際までトイレの用は自分でどうにか出来た。それが理想でも、いつまでも思いのとおりに体が言うことを聞いてくれるとは限らない。若くて元気な者は、年配者を見て内心耄碌しているなと侮蔑することが多いだろうが、そういう若者も確実にいつか侮蔑される年齢になる。なぜこんなことを書くかと言えば、今日の昼、わが家のすぐ前当たりで、制服姿の女子高生が植え込みの煉瓦の上に座って煙草を吸っているのをムーギョからの帰りに見かけた。その場所は最近若者がよくたむろする。先日は目つきの悪い20前の男が3人立って煙草を吸っていた。隣家の裏で庭掃除していた筆者を家内が呼びに来て、家の前に変な若者が3人立っていると言うので外に出たところ、彼らに目があった。すると罰が悪そうにその場を離れて姿を消した。翌日は近くのコンビニに買った乳製品の紙パックが転がっていて、筆者の知らない間に見知らぬ人物がうろついているようだ。そのことを近所の70代の女性と情報交換し、派出所に連絡してたまに見回りをしてもらおうかと話し合った。そして今日の女子高生だ。見たことのない顔で、ふたりともまるで芸能人レベルの美人だ。そう見えるのはあまりにも化粧が濃いこともある。ふたりとも煉瓦上に座って股を開いている。ただし、スカートが垂れて中は見えない。それでも女性がする格好ではない。ところが、今の若い女性は貞操観念というものがもはやないのだろう。筆者はすぐに近寄って注意した。座っている場所は私有地であるので退去しろ、そして未成年であるから煙草は吸うなと言うと、すぐに「はーい」とふたりは返事して立ち上がって駅前の方に消えた。うるさい爺と思ったはずだ。筆者の孫世代とは言わないが、50歳近くは年齢が離れている。若さいっぱいの彼女たちにすれば、面白おかしく人生を謳歌したいはずで、煙草を吸ってどこが悪いという気持ちだろう。それに親父を手玉に取って金をむしり取ることも平気かもしれない。きれいな顔をしたまだ10代半ばの彼女たちが、いっぱしの売春婦に見えたことにげんなりさせられたが、後で思い返したことがある。それは注意の仕方だ。笑顔で接近し、冗談交じりに優しく諭せばよかったかもしれない。「あのねえ、煙草は美貌にはよくないよ」といった調子だが、そのように接近すると、却って「何、この気色悪い変態爺!」と罵られたかもしれない。今時の女子高生がみんな同じようだとは思いたくないが、若者から見れば筆者は耄碌爺に見えるかもしれず、そう考えさせられることが何となく気分がよくない。これは、若者には務めて接しないようにすべきであることを意味してもいる。若さの前に普段は感じなくていい自分の年齢を実感させられるからだ。そのため、話をするのは自分より高齢者がいいかもしれず、筆者は自治会などでもそうしていることに気づく。その理由は自分がより若いことを感じたいためではなく、高齢者の方が話題が豊富で楽しいからだ。

煙草を吸っていたふたりの女子高生は、自分の生き方や行為が正しいと思っているだろう。「煙草を吸って何が悪い」という考えの裏には、「煙草くらいでがちゃがちゃ言うな」という規則に対する反感がある。若い頃はそういうものだ。世の中のしきたりに抵抗したいのだ。それに、大人びた行為をしたい。だが、そんな女子高生はすぐに大人になり、またしわくちゃ婆になる。今日筆者が感じたのはそれだ。若いと彼女たちは思っている。それは確かだ。だが必ず耄碌した婆さんになる。若い頃はそれがわからない。大股を広げて煙草を吸う彼女たちには特にわからないだろう。筆者が注意したことはきっと鬱陶しいはずだが、おそらく注意されることがないほどに世間の大人たちは彼女たちを突き離している。そう考えると、また前述したように、別の言い方で彼女たちを諭せばよかったかという思いが湧き上がるが、初対面であるし、そこまで彼女たちのことを慮ることもないだろう。あちこちで頭を打って学んで行けばよいし、あるいはますます現在の姿に磨きがかかって、耄碌爺を手玉に取って莫大な遺産を手に入れようとする女になって行くかだが、どっちにしろ、筆者にはどうでもよい。誰しもなるようにしかなって行かない。彼女たちに似合う男性はたくさんいるし、ちやほやされながら、何ひとつ不自由のない人生を歩んで行くかもしれない。で、筆者としては耄碌爺にならないように注意すべきだが、こればかりは意志のとおりにはならないようで、今までどおりに生きて行くしかない。そこで思い出すのは、先日自治会の人との話に出たことだ。夫婦は離婚しなくてもいつかはひとりになるということで、耄碌してひとり住まいをした時、さてどういう生活が待っているのか想像しにくい。あるいはしたくない。家内は今春定年になって家にいるが、筆者との会話が少ないことに文句を言う。筆者はすることがあるので、家内の相手ばかりは出来ない。それは家内も知っているが、もっと会話がほしいようだ。筆者と話さない時は、ひとり部屋にこもって声を出して読書していると今日聞いたが、口を動かさなければ頬の弛みがひどくなるとも言う。そう言えば筆者も鏡を見て口元が老人らしくなって来ていることに気づくが、その原因は話す機会が少ないからだ。それで想像したことは、80歳になった筆者がひとり住まいをしていて、誰からも訪問を受けず、また体の調子が思わしくなくなって、声を出して読書していることだ。それはまだいい方で、読書する気力がなくなっているかもしれないし、また認知症で文字を忘れているかもしれない。それでも声を出さなければ老化するという考えだけは忘れていないならば、ひとりで家の中で大声を出し続け、近所からはついに耄碌が頂点に達したなと思われる。そんな想像をすると切りがないし、ストレスが溜まるだけであるから、なるべく将来のことは考えないことだが、60代が若者からは爺と映っていることは事実として受け留めるべきで、爺は爺らしく、せめて周囲の迷惑にならないようにと自分の姿をなるべく人前に晒さないことを思う。高倉健のように格好いいと言われながら80代で死ぬのは理想だが、それは全く特例であって、大多数はただの耄碌爺と思われる。しかも金がないとなれば迷惑な存在に過ぎず、人目を避けつつ、また自己嫌悪に陥らないような生き方を探して行かねばならない。ついでに書くと、このブログは最近めっきり訪問者が減少しつつあって、面白くないことを書いていることを自覚すべきかと思っている。その一方、誰からも読まれなくなって行くのもいいかと思う。存在が希薄になればなるほど、自由になれると言うか、気が楽ではないか。1日の訪問者が3桁に届かず、やがて1桁になるとすれば、耄碌した証拠で、それは老化を意味し、自然なことではないか。そのようにして少しずつこの世から消えて行くというのが老人の実際の姿で、また理想像だ。そして、筆者は今63だが、ブログの訪問者数が漸減していることに自己の老化、退化を重ねる。自虐的というのではなく、ごくあたりまえにそれが現実であることを思う。

老人が元気であるというのはいいことのように言われるが、元気過ぎると若者の出番がない。還暦というのはもう現役引退であり、隠居身分だ。それなのに偉そうな態度でいると、かなり見苦しい。影のようにそっと世間から身を潜めているのがよい。なかなか今日の題名についての話題にならないが、無理やり話をそれにつなげると、筆者はここ半年ほどか、禅僧の円相図に関心を抱いている。そしていくつか作品を買っている。丸い形を筆でさっと書いただけのもので、その○が何に見えるかだ。月でもあり太陽でもあり、また餅でもありお金でもあり。見る人によって思いが違う。どうにでも見える○が面白いし、また書き手によってその○がとても感じが違うもの面白い。ただの○であるのに、個性が出る。そして○を見ていると何となく心が落ち着く気がするが、それが落とし穴と思えば怖いから、こっちの気分のよって○が常に違って見える。それはまだ悟っていない証拠で、まだまだ人生修行が足りないということだが、そうであるから、禅僧のそういう図を見つめて人生とは何かということに思いを馳せたい。円相図に関心を抱くよりもっと前に筆者は街中で丸い形をしたものに関心を抱くようになった。円相が先ではないのだ。街中で円形のものを見かけるとはっとし、また嬉しくなる。それは円形が心にいい影響を与えるからだろう。わが家にも円形の窓がほしいが、それには家を新築せねばならず、夢物語だ。それでなおさら街中でたまたま丸い窓を見かけた時は喜ぶ。そしてカメラを持っているとその写真を撮る。今日は4枚載せるが、最初は8月30日に訪れた和歌山県立近代美術館だ。黒川紀章も丸窓が好きであったようだ。2枚目も同じ美術館で見かけた。これが四角の窓なら誰も注目しない。前にも書いたように、最近は丸窓を設置した新築住宅が急増していて、その理由がどこにあるのかわからないが、社会の事情と密接につながっていると考える人もあるかもしれない。円形を目立つところに欲する社会は、それだけ安全が確保されにくくなっている証拠で、またその安全は金で買うしかないという時代を意味しているかもしれない。単なる流行にも何か理由があるだろう。いや、流行であるから深い理由がある。丸窓の増加は社会の事情と関連しているはずだ。そしてそう思う筆者はそれなりに現在の社会について何か感じているということだ。3,4枚目は和歌山の帰り、難波に出て遭遇した。地下街の方向指示標で、これは10年や20年、あるいはもっと以前の設置で、最近の住宅の丸窓の増加とは関係がない。「○は○か」のシリーズのために写真を撮り溜めている。たまに街中に出て歩くとして、何にも心が動かされないとすればそれが耄碌の証拠だ。筆者もいつかはそうなるだろうが、そうなるまではたまたまの出会いというものを大いに楽しみたい。ただしそれは人間より無言の物だろう。年齢を重ねるほどに若者からは疎まれていることを自覚した方がよい。