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●『大亦観風展』
は又と同じ意味であるようだが、亦の方が字としては貫禄が感じられる。大亦観風という日本画家は名前だけは知っていた。いつ知ったか記憶にないが、珍しい名前なので印象に強い。展覧会でまとまった数の作品が展示される画家はごくごく一部で、大半は名前も作品も多くの人の知るところとならない。





●『大亦観風展』_d0053294_1213785.jpgその点、観風は微妙な位置にある。先ほどヒトラーの水彩画が海外でオークションにかけられ、日本が買い手として参加するとのニュースをネットで知った。ヒトラーの絵は昔『藝術新潮』で多少まとまった数の図版を見たことがある。風景画や建物を描いた作品で、これといった特徴はない。ていねいに描いているが、個性は乏しい。それはいいとして、そういう絵をヒトラーが2000点以上も描いていることを知って先ほど驚いた。2000はかなりの数だ。簡単なものもあるだろうが、毎日1点描いて6年ほどかかる。画家を志すのであればそれは当然だが、若きヒトラーには根気があったことを今さらながらに知る。だが、その徹底した根気が、ユダヤ人虐殺の際にも使われた。ヒトラーの絵に憎悪がどれほど感じされるかは、まとまった数の絵を実際に見る必要があるが、そんな展覧会は不可能だろう。どこかが開催すれば必ず横槍が入る。それで画集がないかと探すと、アマゾンに水彩画の洋書の中古が出ていて、これがかなり高価で手がとても出ない。またヒトラーの作品はオークションで高値がつくので、贋作もあるらしいが、真贋をどう判定するのだろう。さして画力のあるヒトラーでなかったので、贋作造りは容易ではないだろうか。そうした贋作が跋扈すると、なおさらヒトラーの画家としての評価は軽んじられる。筆者が関心を持つのは、ヒトラーの絵のどこに狂気が感じされるかだ。精神分析をやるように見たいのだが、画集すらなかなかないとなればその思いは達せられない。それにしても画家を目指していたヒトラーが政治家に転身するのは不思議だ。自己顕示欲が強く、画家が無理なら政治の世界でと思ったのだろうが、超有名になったのであるから、目的は果たした。画家として有名になるのは前述のようにごくごく一部で、有名になりたいのであれば別の方法を探す方がよい。名が売れて金もたくさん得たいのであれば芸能人だろう。それも狭き門だが、画家よりはるかに手っ取り早いのではないか。あるいは小説家はどうか。出した本の合計で1000万部以上を売ったという人気小説家が、先日たかじんの最後の2年ほどの病床での生活について書いた本を出した。その小説家は宮崎駿に噛みついた意見を発するなど、最近メディアでの露出が多いが、筆者はさっぱり関心がない。1000万部となると、1冊100円の印税として10億の収入で、それでは自信家になるのは無理もない。そうなると、また人々はより群がる。ヒトラーの場合と同じだ。たいていの人間は自信に溢れる人物に弱い。政治家はそれをよく知っているので、誰もがふてぶてしい顔つきをする。中身はどうであれ、せめて自信のある表情を保っておかなければ、福も逃げて行くということだろう。それは案外本当で、世の終わりというさびしい顔をしている者には誰も近寄りたくない。だが、金がさっぱりなく、空腹を抱えている状態で、自信を持てというのはなかなか無理だ。それでもどうにか歯を食いしばってやりたいことを貫こうとする者があって、芸術家にはそういうタイプが多い。それほどの根性がなければそもそもろくな絵を描くことは出来ない。それほどに芸術の道は厳しいものだ。
●『大亦観風展』_d0053294_1223777.jpg さて、11月も下旬に入ろうとして、年内に感想を書いておこうと思う展覧会がいくつかたまっている。すぐに書きたくなるものもあれば、かなり億劫なものもある。今日のは後者だ。この展覧会を見たのは8月30日、和歌山県立近代美術館だ。特に見たいという気ではなかったが、和歌山に行くのであれば城を見るついでに本展もと考えた。観風は和歌山市の出身で、20歳頃に東京に行った。そのため、関東の画家という印象が強く、渓仙のように京都ではほとんど知られないだろう。佐渡にパトロンがいたようで、人を惚れさせる才能があった。どれほど多くの作品が市場に流通しているのか知らないが、めったに見かけない。公的な美術館でも所蔵しているのは和歌山県立近美くらいなものではないだろうか。本展はさほど大きくはなく、50点弱の展示だ。画風がよくわかるという内容ではなく、どちらかと言えば散漫な印象があった。最後に『万葉集画撰』という戦前に出版された分厚い本が展示されていて、それに印刷される絵が代表作であることを知った。ところが展示ではその本の表紙を見せるだけで、残りの半分は20歳の習作、もう半分は晩年の掛軸で、説明書きには冨田渓仙に画風が似ているとあって、なるほどと思った。渓仙も晩年には万葉集に関心を抱き、自宅で万葉集に因む植物をたくさん育て、それらを画題にした屏風を描いている。そこで渓仙と観風のどちらが先に生まれ、また万葉集に接近したかが気になった。渓仙は観風より15年早く、1879年に生まれている。死んだのは渓仙が11年早い。ということは、観風が渓仙の影響を受けた可能性が大きい。筆者は昔から渓仙には関心が大きい。わが家から直線距離で400メートルほどのところに渓仙が住み、しばしば嵐山を描いたからで、筆者はそういう絵を持っているほどだ。それで、渓仙に似た画風の観風にそれなりに興味が湧いたが、本展は力作がたくさん並んだとは言い難く、代表作の『万葉集画撰』を見たくなった。その本のための原画は今は奈良明日香の万葉文化館の所蔵になっているが、いつ訪れても全作品を見ることは出来ないだろう。それに明日香までなかなか行く気になれない。今年中にもう一度奈良を訪れるつもりでいるが、明日香までは足を延ばせそうにない。そこで『万葉集画撰』を買おうかと考えたところ、なかなか高価だ。幸いにも復刻版が出ていて、しかも京都府立図書館にあったので、借りて来た。それを一読したが、万葉集を全部読んだことのない筆者には感想を書くことは手にあまる。筆者は和歌は苦手で、万葉集を読破することはたぶん今後もない。それでも学校で学んだ有名なものはそれなりに記憶にあり、『万葉集画撰』の文章を読みながら、「ああこれか」と思うことが何度かあった。観風が万葉集に興味を抱いた理由は知らないが、『万葉集画撰』を描くに当たって、奈良を中心に各地に赴いたことがわかる。万葉集で謳われる地域は奈良だけではなく、日本全国に及んでいる。『画撰』とあるように、観風は万葉集から和歌をごくわずかに選んで、それに合わせた絵を描いた。本を返却し、またメモしていないので曖昧だが、絵は全部で70点ほどと思う。また、観風によれば挿絵として描いたのでなく、歌から感じられることを表現した。それは絵を見る人の判断によることで、筆者は万葉集の絵本のように感じた。それが悪いというのではないだろう。文字ばかりのとっつきにくい本にきれいな絵がたくさん合わされば、改めて万葉集に関心を抱く人は多いでのではないか。また、『万葉集画撰』の絵は本展の印象とはかなり違って、観風の代表作であることがわかる。本展は全体に散漫な印象があった。それに比べて、『万葉集画撰』は統一感があり、またとても現代的であることに関心する。戦前から戦中にかけて描き続けられたとは思えない。
●『大亦観風展』_d0053294_12275.jpg 『万葉集画撰』の復刻版と原書を比べてみないことにはわからないが、前者は図版の色合いがとてもきれいで、原書を複写撮影したものではないのだろう。今日は復刻版から4点を載せるが、残念なのは見開き両ページに絵がわたっている数点だ。綴じしろに絵がかなりかかっていて、全体図が見えなくなっている。見開いた時に全図がよく見えるように版下を構成出来なかったものか。そこで次に疑問となるのが、原書では復刻版のように数図のみ見開き両ページに絵が印刷されているのだろうか。あるいは全部がそうで、しかも綴じしろで絵の中央が隠れて見えないということがないのであれば、高価でも原書を買うべきだろう。見開きに絵が印刷されるページ以外は、復刻版は左に絵、右に文章が載っている。文章は万葉集とその解題で、解題者はどの絵も2,3人が書いていて、これは万葉集を理解するうえで、とてもよい。また解題者として観風が必ずどの絵にも最後に思いを書いている。万葉集を解説なしで読みこなせる人はいいが、今でもそういう人は少ないだろう。それに歌のどの箇所に魅せられて観風が描いたかを知るには、画家の説明が欠かせない。この右ページの文章は原書をそのまま復刻したのではなく、かなり端折ったそうだ。そのためにもやはり原書を確認する必要がある。また、原書の絵の印刷は戦後間もない頃で、2000年に出版された復刻版とどれほど色合いが違うかを想像すると、おそらく原書は微妙な色合いは再現されていないだろう。その点からも原書を確認する必要がある。そして、一番いいのは、万葉文化館で原画を見ることだが、企画展がある以外は常設展示しているのかどうか。今日の4点の写真を見れば、先に絵本と書いた理由がおおよそわかると思うが、いろいろと興味深いことがある。まず観風は写実という方法を採っていない。人物の大きさは近くに立つ者が遠い者より小さかったり、また人物の体を透かして建物が描かれていたり、また建物の遠近などは出鱈目に構成されていたりする。絵は自由であるし、またそんな不自然さが気にならないほどに、まずは人物の表情や周囲の景色の面白さに引きつけられる。渓仙に似てはいるが、全然味わいは違うと言ってよい。どっちがいいといった問題ではなく、観風なりの温かさやかわいらしさがあって、それは特に人物の表情によく表われている。渓仙にも人物画があるが、観風の方が上手ではないか。観風はそういう表情をどこで学んだかだが、平安時代の絵巻もあろうが、前述したようにもっと現代的で、古さを感じさせない。そうそう、かわいらしさと書いたが、郷土玩具の人形にありがちな顔の表情で、全体に素朴なのだ。それこそが観風が考えた万葉集の世界かもしれない。だが、『万葉集画撰』に選ばれた歌はどれも現代にそのまま通じるものと言ってよく、そこに万葉集が現代に伝えられて来た理由があるが、この本の絵がいつ描かれたかを思うと、その時代の空気に反応したものであることを思わないわけには行かない。つまり、戦争と関係している。
●『大亦観風展』_d0053294_123725.jpg

  記紀万葉の国学となれば契冲や本居宣長、そして上田秋成を思い出すが、宣長の古事記に対する思いは神国日本で、それが右翼につながって筆者は宣長つながりで古事記や、そして万葉集も読む気にはなれない。では秋成は右翼ではないのかと言えばそうではないし、天皇のありがたさについての和歌もある。万葉集に強い興味を持つこと自体、国粋主義と言ってよい。そのことは『万葉集画撰』にも言える。天皇のためには、国を護るためには、海を越え、山を越えて戦いに行くという歌が万葉集にはあって、観風も『万葉集画撰』にそういった歌を選んで描いている。それはまさに戦時中の作画としてはふさわしく、観風は祈るつもりで万葉集に託して現在の日本の在り様を描いたのだろう。ところが、そういう考えは戦争が終わると急に古臭くなる。それどころか、戦争に加担したと謗られかねない。実際、観風の名前はそのためにほとんど忘れ去られたのかもしれない。今は万葉文化館に原画が収まって、「文化」の名で右翼的なところはもう中和された感があるが、それでも戦争時代のいやなことを思い出すと言う人がまだまだいるのではないか。筆者が興味深いと思ったのは、万葉集時代の服装だ。観風がどういう資料に当たったのか知らないが、7,8世紀の風俗となると、絵の資料が乏しい。大陸との関係が強い時代で、中国や朝鮮の壁画などの資料を参考にするしかなく、かなり苦労したのではないか。女性の服装が、朝鮮のチマ・チョゴリの形で、とても日本独自とは言えないと思うが、万葉集の時代はそういった外国の影響を強く受けながらも、言葉は日本語であって、その雑種的国際性とでもいうような日本文化は今もなおそのままと言ってよく、『万葉集画撰』に収められたどの絵もとても新鮮に見えるのは、観風が時代を越えて日本の本質を見通していたことになる。これは蛇足だが、万葉集で思い出す本がある。『昭和万葉集』だ。これは今では古本で格安で手に入るが、いわき市のTさんから昔、2巻ほど欠けているが、全部送ろうかと言われた。安価で入手出来るし、また筆者は和歌は苦手なので、断ったが、Tさんは手紙で印象に強い歌をいくつか引用していた。それらはみな戦中戦後の苦しい生活を詠んだもので、昭和という長い時代は、天平時代に似ていたのかと思う。『万葉集画撰』には上官の命令で地方に赴任する役人やその妻の思いを詠んだものがある。『昭和万葉集』にはそれに似た歌も多く含まれるだろう。その全巻が1000年後に伝われば、万葉集と同じほどの貴重な日本の財産になるだろうが、今はほとんど忘れ去られているように思う。それに、その全巻から歌を選んで絵を描いてみようということも行なわれないだろう。筆者は大股で歩くが、まだ元気がある間に万葉文化館に行ってみようと思う。
by uuuzen | 2014-11-19 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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