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●『縮図』
島の細い路地で暮らす靴修理職人の娘の芸者としての半生を描いた映画で、監督は新藤兼人、主演は本作から四半世紀後に監督と結婚した乙羽信子、昭和28年(1953)の131分のモノクロ作品だ。これを京都文化博物館の映像シアターで13日の夕方に見た。



131分は長い。当時でも10分ほど縮めることが出来たのではないだろうか。だが、映画が大きな娯楽であった時代であるから、長い方が観客としては得した気分になれたかもしれない。原作は徳田秋声で、遺作の同名小説で、未完であった。秋声の小説は読んだことがない。金沢市の兼六公園前の公園の中に彼の銅像があったのを覚えているが、泉鏡花と同世代だ。小説『縮図』は1941年の発表で、秋声はその2年後に亡くなった。当時新藤は内妻を栄養不足で失くし、映画の脚本家になろうと必死にもがいていた。初めての監督作品は昭和26年の『愛妻物語』で、脚本を読んだ乙羽信子からぜひ主演させてほしいと頼まれた。それ以降乙羽は新藤作品に出演し続けるが、本作は4作目に当たる。乙羽は関西の出身で宝塚歌劇団から映画入りしたが、本作では東京育ちに見える。それほど芸達者であったということだ。新藤監督は社会派で、それは本作にもよく表われている。生まれ育った家が貧しく、長女の銀子は10代で芸者として売られる。靴職人の父は仕事がないわけではなく、また腕もそれなりに確かのようだが、修理では収入はしれたものだ。それで妻は張子の達磨作りなどの内職に精を出している。銀子にはふたりの妹がいて、母はまだ乳飲み子を抱いている。銀子が稼がねば一家は食べて行くことは出来ない。徳田秋声はこの小説を新聞に連載したが、同時代の物語として書いた。それを戦後に新藤監督は映画化したが、10年ほどしか経っておらず、ロケはしやすかったであろう。佃島がどこにどのようにあるのか、筆者はTVで少し見たことがあるだけだが、先ほどネットで調べると、月島の北とあった。月島は一度だけ訪れたことがある。それで佃島もだいたいどういう場所かは想像がつく。本作に映る貧しい家並みは今はもう全くないとしても、戦争で焼けず、狭い路地だけは残っているようだ。路地を銀子が雨の日に歩く場面が印象的で、監督は大きな水たまりのある舗装されていない道を歩かせることで、貧しい生活を印象づけたかったのだろう。だが、同じような路地は60年代までは大阪市内でもあちこち残っていた。そのため、本作を封切り当時見た人は、銀子の家族の暮らしがことさら貧しいものと思わなかったかもしれない。昭和28年は筆者が満2歳で、当時のことは記憶がないが、内職をする家は近所にたくさんあったと思う。東京オリンピックが開催される頃まではそうであったはずだ。だが、娘を身売りさせるほどの貧困はなかったはずだが、では本作が作られた当時、この原作が時代遅れのものと思われていたかと言えばそうではないだろう。今でも貧しさゆえに身を売る女性はいるし、本作に描かれるように、金持ちと貧乏人が存在する。そして金のある男は女遊びをするから、本作のテーマは永遠のものと言ってよい。だが、セックスに関する意識は時代とともに変わるという意見があるだろう。今では女が男を騙し、挙句の果てに金目当てに殺す。表向き、男女が平等になったためかもしれない。女も自由にセックスを楽しんでよいという意識が囃し立てられ、数十人や数百人の男と性行為をしても平気という一般女性もいる。また、そういう女性に同調するごく普通の未成年がたくさん出現しても不思議ではなく、実際性を売る10はいる。そうなると、今では本作で描かれる銀子が家庭の事情でやむにやまれず芸者になっていることに対して同情をあまり感じない若者が多いかもしれない。
 今でも芸者はいるが、今では芸を身につけることを選ぶより、手っ取り早くホステスになる女性が大半だ。そのため、本作に描かれる日本髪にキモノ姿の銀子が踊ったり、どういう呼び名があるかしらないが、客とふたりで古風な遊びをしたりする様子を面倒臭いと感じる男が多いのではないだろうか。セックスが目当てなら、もっと則物的に目的を果たせる場所があるからだ。だがそれは銀子の時代でも同じはずだ。また当時の芸者はみな銀子のように親の生活を助けることが目的であったかと言うと、それはいろいろで、ほかの仕事があっても芸者になりたかった女もいたろう。そのことは数人登場する銀子の芸者仲間からわかる。銀子はいわば芸者の清純派だ。もっとドライな芸者もいて、身請けしてくれそうな金持ちを巡って、銀子は銀子を嫉妬する芸者とつかみ合いの大喧嘩をする場面がある。ではその銀子を嫉妬する芸者は清純ではないかと言えば、本作ではそこまで描かれない。ただ、大きな借金を背負っている境遇から早く脱出したいために、身請けしてくれる旦那をつかむのに必死で、その点は銀子も同じだ。つまり、清純派として描かれる銀子だけではなく、芸者は誰しも早くその職業から身を洗いたいと思っている。それは若さを美貌を失うと、もはや男から相手にされなくなることをよく知っているからだ。銀子は20歳という設定だが、その若さであるから、次々と銀子をかわいがろうとする男が現われる。だが、30になればもう駄目だろう。若い芸者は毎年出て来る。その現実を知っているだけに、芸者たちは必死なのだ。とはいえ、銀子のように美人であればいいが、そうではない場合は旦那をつかむ機会が少なく、それだけに売れっ子に嫉妬するし、嫌味も言う。では銀子は一番の売れっ子で幸福かと言えば、そうではない。銀子と結婚したいという名家の青年が現われるが、両親を説得出来るはずがない。そのことを最初からわかっている銀子だが、自分が知らない間にその青年が身分の釣り合う令嬢と結婚したことを新聞記事で読んで茫然とし、式場の近くで倒れ込んでしまう。決して自分のような職業の者が金持ちの妻として収まれるはずがない。そう思いながらも、また次の男を信用してしまう銀子で、そのようにしながら、ついには体を壊す。芸者は消耗品にほかならない現実を突きつけるが、今でも同じだ。ホステスにしろ、また売春婦にしろ、若い間に金をたくさん貯えておかねば、男が振り向かなくなった頃に困る。それは銀子の時代でも同じで、銀子を雇う置き屋の女将は、かつて自分も芸者をしていたのであろう。そういう女将が清純な心をすっかり失っているかとなると、そうも言い切れない。銀子を雇う女将は、銀子が肺炎になって生死の境をさまよった時、銀子を譲り受けた時の証文を病床の銀子の前で破り捨てる。女将はかつては自分も銀子のような境遇であったことを思い出したのかもしれない。銀子とつかみ合いの喧嘩をした芸者やそのほかの同僚もみな銀子の哀れな姿に同情するが、それは明日はわが身かもしれないという恐怖からでもあるだろう。体を酷使し、ついには病で芸者の身分から抜け出せるというのは、あまりにも悲しい現実だが、本作はそこで話が終わらない。銀子が発病したと同時に、妹も病に冒され、呆気なく死んでしまう。そして死ぬと思われた銀子が助かる。妹は亡くなる少し前の夜、銀子と道ばたで出会った。銀子は芸者のきれいな身なりで、妹は粗末な服装だ。銀子はその妹だけは芸者にさせたくなく、学費を捻出して学校に行かせようとしている。銀子は妹を誘って背後の焼き鳥を食べさせる屋台に入る。串を1本食べた妹はおいしいと言いながらそれ以上を望まない。その妹は咳をよくしていて、銀子は心配になって医者に診てもらえと言うが、その金がない。妹は重症の結核であったのだろう。銀子が肺炎になって実家に戻り、医者に来てもらっている間に妹も床についているが、死ぬ間際に銀子と対面させてほしいと願う。最期の言葉は「焼き鳥を食べたい」で、生活の貧しさがよくわかる。高度成長した今の日本では考えられないこと言えるが、今でも餓死者がある。貧しい人はひっそりと暮らし、またその貧しさを恥じるところがあって、他者に気づかれないことが多い。銀子の妹のような人は今もあちこちにいると考えた方がよい。また、日本で少なければ、外国を思えばよい。
 銀子は快復する。妹ほどに病弱ではなかったのか、運がよかったのか。だが、快復しても家の生活は変わらない。妹がひとり少なくなったが、下の妹は内職の手伝いだ。それに赤ちゃんもいる。まだまだ銀子は稼がねばならない。証文を破り捨てて銀子を開放してくれた女将だが、銀子の健康が戻るとドライなものだ。また以前のがめつい性格を丸出しにする。銀子の方も芸者しか出来ない。それで以前と同じ生活が始まる。そのようにして銀子は歳を重ね、あるいは病によって芸者をやめる時が来るだろう。生活のためにいやいやながらだが、それしか出来ることはない。仕事とは本来そういうものであるかもしれない。銀子は美貌が優れて金持ちの旦那が切れ目なく現われるので、まだ恵まれているかもしれない。銀子は7人ほどの同僚がいるが、女将はそれとは別に下働きの若い女性を雇っている。飯炊き女だ。彼女は芸者になれない。そのため銀子のように収入は多くなく、また食べ物も粗末なものばかりだろう。銀子にその仕事は出来るだろうが、親から売られた身であり、もっと儲けの多い仕事に就かされた。つまり、商売道具なのだ。若い女の魅力を売り物にする世界は今はもっと広がっている。先日ネットでアダルトビデオの女優になりたくてもなれない女性の座談会の様子を読んだ。彼女たちは普通の女性のようにまともに働くのがいやだと発言していた。かといって、性を売り物にする女優になるための合格ラインに達していない。アダルトビデオ女優が今は1万人だったか、銀子時代の芸者の何倍も多い。それは簡単に金になることと、銀子時代にように貞操の観念がないからだろう。セックスを売り物とすることに恥じらいがない。確かに金に困って一攫千金の思いがあってのことだろうが、そればかりではなく、セックスが好きであるからだ。本作では銀子はそういう女性とは描かれていない。そこに本作の時代性があるし、監督の貧しい女性への同情がある。だが、今でも銀子のようにいやいやながら男相手の仕事に携わっている女性はいるだろう。そういう女性の思いが表に出てきにくいのは、そういう女性を抱えている会社の思惑が働いているからではないか。アダルトビデオ女優が1万人で、しかも望んでもなれない一種の花形の職業とネットに書かれると、挑戦しようと思う女性が増えるだろう。銀子の時代より今はもっと悪質になっているかもしれない。銀子と同じように使い捨てされるのは同じであるのに、「女優」という甘い言葉に惑わされ、自分をエリートと思い込んでしまう。哀れさは銀子以上ではないか。繰り返すと、本作では銀子の同僚はみな癖があって、銀子以上のドライであるかのように表現されている。そういう女性は、今の好きでアダルトビデオ女優になる女性と同じで、今も昔もいることを思わせるが、ならばなぜ今もいるはずの銀子とのような女性を主役にした本作のような映画が撮られないのか。それだけ若い女性の性を巧妙に売り物にする仕組みが出来上がっているからだろう。そう考えると、古めかしいような本作に時代を越えた真実味が溢れていることがわかる。芸者遊びするような男は銀子をまともに扱うはずがない。銀子はそのことをよく知っている。だが、毎日芸者として仕事していては、芸者遊びなどしない男性とどうして出会えて、結婚まで出来るか。結局生きた玩具として扱われるしかなく、またその生活を繰り返していると、まともな男と出会っても結婚は無理だろう。未完に終わった原作だが、最後まで書かれたとしても、銀子の未来は見えている。本作の中で出征する兵士を見送る一団を銀子の家の前の路地から見通す短い場面があった。若い男は戦場に駆り出されて死んで行った。銀子は男の玩具となって同じように若くして消えて行くことを徳田秋声は書きたかったのではないか。その一方で、銀子の体が目当ての一部の金持ちは生き残って行くが、その図式は今でも同じで、それが縮図ということだ。
by uuuzen | 2014-11-16 23:59 | ●その他の映画など
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