惹こうとする虫への思いがあるから花は咲く。とにかく目立たなければならない。人間も同じだ。店は客に関心を持ってもらったり、存在を強く印象づけたりするために目立つ看板を掲げる。ネットでも同じで、筆者のブログもそうだと言える。ということは筆者のブログは花や看板と同じで、筆者は目立ちたがり屋ということになるが、それは当たっていないとは言えない。
さて、今朝10時過ぎに家内から電話があった。担当医の検診で、もういつ退院してもいいと言われたとのことで、ならば午後に退院することにし、従姉に電話して入院時と同じように車を出してもらうことにした。1週間前に入院し、手術から丸4日で退院だ。手術が1時間早かったのと同じで、2週間の入院は必要がなかった。もっとも、病院は今週いっぱいは入院してもよいと言った。それでも入院するほどに費用が嵩む。それに家内の4人部屋はひとつのベッドを残すのみで、新しい患者は見舞い客が多く、また重症らしくて夜通し騒々しい。家内は眠られないらしく、睡眠不足になっている。それならば家の慣れた布団で寝た方がよい。抜糸は通院でしてもらえる。それまでは風呂に入ることが出来ないが、手術跡には特製の防水シートを貼り、シャワーなら浴びることが出来る。新品のパジャマを4着も用意したのに、使ったのは3着のみで、何となく拍子抜けしたが、早く退院出来るのはありがたい。病院ではゆっくり出来るが、いろんな人が出入りするので、家内の肺のことを思えばわが家の方がいい。手術前に家内は執刀医からどういう仕事をしていたのか訊かれた。大学で多くの人と接していたと答えたが、それだけ菌に感染しやすい状態にあった。筆者はほとんどを自分の家の中で過ごすので、綿埃が多いとはいえ、菌に関してはさほどでもないと思う。電車の中や百貨店など、多くの人が集まるところで仕事する人よりよほど空気はいい。家内は雑踏の中に出かける時はマスクをするようにと医師から言われたが、どこでどんな菌をもらうかわからない。先日まではエボラ出血熱のニュースが世界を賑わしていた。放射能と同じで、ウィルスは目に見えないだけに怖い。それで思い出した。家内が入院していた病院に自転車で向かう途中、めったに訪れないスーパーがある。松尾橋の東にあるムーギョやトモイチとは違って小さいが、その土地の雰囲気に似合っていて、客筋はよさそうだ。そこでこの1週間、二度買い物をした。その時に気づいたが、通りを挟んで向かい側に何の店か知らないが、玄関脇に背丈の高さの赤と白の巨大な花が置いてある。布製の造花で、薔薇の形だが、葉は花に比べてとても小さくてまた薔薇らしくない。その2本の花は店の看板だ。遠目にも目立ち、客の心を惹きつけようとの店主の配慮だろう。カメラを持っていたので、よほど撮影しようと思いながら、あまりのグロテスクさに圧倒されてその場を離れた。その造花の赤い方を撮影して昨日載せてもよかったと今は思うが、巨大な花を本物の薔薇の花と同じ大きさの画像に加工してはグロテスクさが出ないので、いつもどおりの500×360ピクセルとするのがよいが、もう家内は退院したので、その写真は必要ない。それに、「もどき」ではなく、本物がよい。もっとも、写真は本物の薔薇とは言えない。本当なら、家内の退院祝いに本物の薔薇の花束を贈るべきだが、こうして入院中は毎日薔薇の写真を掲げ、また今日は撮り溜めたものを一斉に出すので、それが花束代わりだ。とはいえ、家内はこれを読まない。お化け薔薇に話を戻すと、気になるものは何でも撮っておけばよいのに、筆者はフィルム・カメラ時代の人間で、よほどでなければシャッターを押さない。そのお化け薔薇は赤も白も人の頭より大きい。そんな巨大な薔薇があると、虫も巨大化する。その虫が人間を襲うかもしれない。
大輪の薔薇は豪華なあまり歓迎されるとはいえ、限度がある。黒澤明監督の『夢』という映画では放射能で突然変異して巨大化した花が登場した。突然変異で極小の花が生まれたとしないところが面白い。黒澤監督にとっても誰にとっても、大きな花はグロテスクなのだ。そこから想像するに、大きな女も筆者はそう感じる。身長が170センチ台でも高さ15センチほどのハイ・ヒールを履く。大女は背が高いことが自慢で、もっと高くありたいと思う。それがとても不思議だ。背が高いと背の低い女を見下ろすことが出来る。それで優越感に浸る。家内は小柄で、しかもこの数年は毎年身長が少なくなっていると言う。背骨の隙間が縮んで来ているのだろう。同じ薔薇の花を毎日見ていると、花弁の淵が茶色に変化し始め、また全体に萎んで行くのがわかる。人間も同じだ。家内も萎みが目立つようになって来ている。そういう筆者も同じはずで、気づけば筆者の顔に茶色のシミが目立ち始め、さらにそれが増えてしかも大きくなっていることに気づく。そして、鏡を覗くと口元が「へ」の字のように曲がって来ているのがわかる。「面白くないぞ」という表情で、年配者にはそういう顔立ちが目立つ。齢を重ねるほどに楽しいこともいやなこともたくさん経験し、もはや本当に面白いことがないような気になって来る。それで男も女も口を「へ」の字に曲げる。そうなると、なおさら人が寄らず、さらに「へ」がひどくなる。そのことを思い出してせめて真一文字になるように心がけるべきで、それには毎朝鏡を見ることだ。女性はその点、男より鏡を覗き込む時間が長いので、「へ」の字の口元は少ないはずだが、案外そうでもない。家内は母親似で、年齢を重ねるほどに頬肉が垂れる。そうなると自ずと口元が「へ」の字になる。梅干しだの「へ」の字だの、悪口ばかり書いているが、それほどに一昨日は家内の口元から下、首の辺りに目が行った。いつの間にか家内が老化したという感じがし、またその責任の多少は筆者にあると自覚する。それを本当に思うのであれば、家内がいつも口うるさく言っている筆者の仕事部屋の掃除やその他、家の中の気になる部分を全部すっきりしてやりたいが、1週間で退院すればその作業の時間がない。それでも遅まきながら、少しずつ家内の望みどおりにして行くつもりでいる。話をまた戻す。店の看板は店が目立つようにとの店主の思いが反映している。赤白のお化け薔薇の造花を店前に飾るのは、かなりグロテスクで、逆効果ではないか。なぜなら筆者はその店が何を売るのか記憶に全くない。ただただ夢に出て来そうな怖い巨大な薔薇だけが脳裏にこびりついている。やはり撮影しなくてよかった。
家内の入院は2週間の予定で、最近撮り溜めていた薔薇の写真の数とほぼ同じで、入院中の投稿では必ず1枚を載せることに決めた。ところが1週間で済み、また入院中に新たに撮影したこともあって10数枚のあまりが出た。それを今日は一挙に載せる。最初の1枚は3日前に近所で撮った。寒くなって来ているからか、春よりかは枯れる速度が遅いように思う。それでも今日のような好天であれば春と変わらず、薔薇の命はいつ咲いても同じようなものか。昨夜家内は枕のシーツが臭いのでファブリーズと、そして肌荒れが目立つのでアロエ・クリームを持って来てほしいと電話して来た。今朝はもう退院するから洗濯したパジャマもファブリーズもアロエ・クリームも、それにおやつも何も持って来ないようにと言った。そう聞きながら筆者はアロエ・クリームだけは持って行った方がいいのかもしれないと思案した。そのクリームは手に塗るのだろうが、一昨日家内の顔を見て筆者は口元の皺が以前よりそうとう目立つことに気づき、やはり入院したためかと思い、そのことを口に出した。家内の口元が時に干しの皺状に見えることに気づいたのはもう何年も前のことだが、一昨日はその状態がとてもひどく、筆者は梅干し婆さんのキャラクターの漫画を思い出した。その口元の皺を指摘すると、いつも家内は唇を横にいっぱい広げて皺を伸ばすことが習慣になっているが、その日もそうしながら、クリームを塗っていないからだと言った。つまり、普段は化粧でその皺をごまかしているのだが、これからはますます厚化粧しなければその皺が隠せなくなる。厚化粧は見にくいから、口をよく動かして口元の縦皺が寄らないようにしてほしいが、それには筆者とよく話をするしかない。ふたり暮らしでよく話をする方だが、それだけは足りないのだろう。一昨日はふとした拍子に家内のその口元の縦皺とまた顎や首の皺がとても目立った。いつまでも若々しくいてほしいが、それは一緒に生活する筆者の責任もある。ともかく、入院中の家内はこれまでよりも老けて見えた。アロエ・クリーム程度でそれが幾分ましになるのかどうか知らないが、今日は退院と決まって元気を取り戻したのか、一昨日の皺は目立たなかった。化粧道具を持参していて、それを使ったのだろう。素顔のままでは退院出来ないと思ったようで、ま、あたりまえと言えばそうだが、男は女の化粧道具には関心はなく、筆者は家内がいつの間に帰り支度をし、化粧をしたのかわからなかった。入院する時と同じ服装になったのはいいが、まだ手術の糸は残っていて、痛みもあるから、入院時の元気さを求めるのは無理だが、それでも手術前の不安が晴れたので、また別の明るい表情になっていた。来週の月曜日に担当医との話がある。その日、筆者は大阪に用事があるので、従姉夫婦にまた病院に連れて行ってもらうことにした。