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👽💚🐸🐛🍀📗🤢😱5月11日(土)、京都河原町三条下るLive House『DEWEY』にて👻『ザッパニモヲ 💐母の日LIVE』午後5時開場、6時開演。3500円👽筆者の語りあり。
●今回は初めての別会場での、そしてザッパ/マザーズの結成日である1964年の「母の日」から60年という節目における、ザッパニモヲの演奏です。チラシ画像はここ。恒例の手製のお土産をくじ引きで配布します。

●がんもどき、さらに、なおも
●がんもどき、さらに、なおも_d0053294_0155493.jpgられる。SMの話ではない。物事に囚われることだ。執着という言葉がある。金や権力、生など、誰でも何かに縛られる。それは生きる意味でもあって、縛られなくなるともう生きている意味がないと言う人もあるだろう。家内が入院して何となく自分やまた生活を見直す機会が持てた。



見舞いに行っている間はこれまでになかった時間で、また帰宅してからも独身と同じ生活と言ってよいから、これまでに味わったことのない日々を過ごしているが、そのことに今日は何となく慣れた気がする。それは幸いにも家内の左肺の腫瘍は癌ではなかったためで、安堵したためだろう。つまり、以前の生活がすぐに戻って来るから、家内がいない不便さが苦にならない。だが、一方では癌であってもあまり気持ちは変わらないのではないかと想像もする。筆者が自治会長をして2年目、隣りの自治会の会長Uさんと親しくなった。筆者より7,8歳年長と思う。いなせな人で、初めは気が合わない気がしたが、何度か会ううちに親しく話すようになった。その頃、別の日とからUさんが奥さんを亡くして間もないことを聞いた。そのことをUさんから聞いたことはない。ひとり暮らしであることは知っていたが、死に別れて間もないことは初耳で、そのことを知って改めてUさんを見るようになった。いつもさっぱりした格好をしているし、自転車でよく出かけ、なかなか行動的だ。道で出会うと必ず立ち止まって話をする。笑顔を絶やさず、奥さんがいないことのさびしさがうかがえない。娘さんがひとりいて、京都市内に住んでいるが、めったに会わないようだ。ということはほとんどいつもひとりでいる。そのことを思うと、筆者も家内を失った時、Uさんのように生活出来るだろうかと心配になる。そして筆者はUさんが筆者が想像出来ないような悲しみを乗り越えて元気に暮らしていることに一種の尊敬の思いを抱く。夫婦はいつかひとり暮らしになるが、70代に死に別れると、もう再婚は無理だろうし、またその気も起らないのではないか。筆者は美女好きだが、最近はTVで美女と言われる女性を見てもほとんど何とも思わない。それどころか、厄介だなと思う。その美女が目の前にいたとして、相手をするのがしんどいという意味だ。美女にどれほどの値打ちがあるのだろうとも思う。その美女を数年で色褪せ、また別の美女が世間を賑わす。こんなことを書くところ、筆者はもはや美女には縛られない境地に至ったのかもしれない。そうだとしても、それがさびしいことだとはあまり思わない。話を戻して、家内がいない家にいて、洗濯をし、食事し、布団で寝るという生活をしていると、何となく家内がもうこの世の中にいないような気になる。そしてそういう生活がさびしいかというと、筆者がすることは家内がいなくても同じで、さびしさを感じる暇がない。それは前述のように家内が近いうちに退院することを知っているからだが、そうでなくても同じ気持ちではないかとも思う。筆者がそのように感じることを家内は昔から気づいていて、それで家内は自分が先に死んでも筆者はひとりで充分生きて行くと事あるごとに言う。そこには家内のさびしさが混じっている。疎外感だ。筆者は家内がいなくてもやろうとすることがあれこれとある。洗濯機をこのたび生まれて初めて使ったが、こんなに簡単であったのかと思うほどで、苦にならない。となれば、ますます家内の存在価値がない。数年前に亡くなった友人Nは奥さんの料理に死ぬまで文句を言っていた。筆者は何度も自分で台所に立って料理すればと忠告した。自分で作れば味に納得出来るからだ。Nは料理下手ではなかったので、やろうと思えば出来た。だがNはそうしなかった。その理由を訊くと、Nの奥さんの仕事がなくなるからで、離婚が早まると言うのだ。つまり、Nは奥さんの料理を死ぬまで我慢しながら、その不満を筆者に会うごとにぶつけ、奥さんには言わなかった。それは奥さんに対する最後の砦的な優しさであった。
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 こんなことも考える。家内が戻って来ると以前と同じ生活になる。それが嬉しいかと言えば、家内は筆者の部屋が足の踏み場もないほどに散乱していることに毎日不満であるし、そのほかにも家の状態を改善したかがっていることがたくさんある。入院中にそれらを全部家内の望みどおりにしたいつもりがあるが、見舞いに行き、また洗濯や食事の用意、自治会のことなどをこなすと、自由時間はわずかしかない。とても大がかりな掃除や整理は無理だ。つまり、家内が帰宅しても以前と同じ乱雑な状態で、そのことを家内は想像してうんざりしているし、家内がそう思うことを想像すると筆者もうんざりする。それで入院を契機に生活を多少改めねばと思う。またそのためのいい機会が入院であったと考えたい気持ちもある。その多少改めねばと思う気持ちの最たるものが、前述したひとり暮らしが案外とさびしくないという気持ちだ。それは予想しなかった。これも先に書いたように、美女に関心がなくなったのと同様、筆者は老境という新たな人生の段階に入って、物事を達観出来るようになったのかもしれない。それは「仕方ない」という諦念でもあるだろう。人生には思いどおりにならないことがある。それを誰しも理解する。親や身内、配偶者の死もそうで、いつかはすべてのものと別れなければならない。若い頃でもそれを知っているが、真に理解は出来ない。年齢を重ねるほどに死者を多く見送ることになるが、そのことを通じてどんな変化をも仕方ないと受け入れることが出来るし、また受け入れない限り、悲しくてさびしくて残りの人生を過ごすことに耐えられない。Uさんが奥さんを亡くしてもそのことが傍目にはわからないのは、仕方ないと現実を受け入れたからだ。悲しいことに長く縛られなくなったと言い代えてもよい。心の内側を覗けばたちまち奥さんの死が蘇るだろうが、その瞬間それを忘れるようにと本能がささやき、そして笑顔で外出するように仕向ける。話を戻すと、家内が戻って来ると、今までと同じ生活が始まりはするが、家内も筆者も何かが変わっていると思う。残りの人生をよりよく過ごそうという気持ちが以前より増えているはずで、そのことを先日書いた「塞翁馬」の話と結びつける。災難があってもそれをきっかけにいいことを望むべきなのだ。さて、今日は自転車で病院を往復した。途中にあるスーパーで家内が好きなスナック菓子などを買い込んで駆けつけた。4人部屋にひとり切りであったのに、今日はふたつのベッドが詰まっていた。ひとりは夜に救急車で運ばれて来たらしい。家内はかなり元気で、いつものように筆者がふざけたことを言うと笑いをこらえていた。もういつでも退院出来るような雰囲気で、救急車で運ばれて来た人とは別の患者が家内を見て全く病人には見えないと不思議そうに言ったそうだ。ヴァージニア・ウルフの短編集を一昨日持参したが、文字が小さくて読みにくいと言うから、今日は山田無文の本を持って行った。面白い話がいろいろと書いてある。仏教や禅のことをたまには考えるのもよい。病院のベッドにいる時はなおさらだ。
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 昨日は帰り道で1枚の紅葉したモミジの葉を見かけた。1,2秒してそれが造花であることがわかった。周囲を見回すと、楓の木はないし、また路上のその葉のように鮮やかな色合いの葉はない。造花でも本物とそっくりなものがあって、触って見るまで造花とはわからない場合もあるが、造花とわかった途端、その精巧な作りに感心する気持ちよりがっかり感が増して来る。「もどき」もいろいろだが、概して悲しさを宿す。贋物ゆえの悲しみだ。だが「がんもどき」は「贋もどき」ではない。「贋もどき」となれば「本物」ということになるが、贋物のような本物は確かにある。その方が本物らしい本物より凄いことではないか。本物らしい本物はどこにでも溢れている。百貨店はその代表だ。贋物らしい本物は、たとえば一山1000円で売られている掛軸の束に若冲の真筆が混じっていることだ。そんな夢みたいな話がないと誰しも思うだろうが、現実はそうではない。贋物か本物かの区別がつかない人の方がはるかに多いので、本物はしばしば贋物に間違われて侮られる。話を戻して、造花の紅葉したモミジの葉の写真を撮ってから5分後、今度は柿の葉だろうか、アニマル柄に紅葉した葉を見かけた。緑の斑点が油滴天目のようできれいだ。だがもっときれいに赤くなるので、平凡な紅葉の1枚だ。本物の方が造花より地味に見えるのは正しいことだ。造花が地味であれば誰も買わない。贋物は常に目立つ。人間でも同じだ。本物は人に知られない。いつの時代も「もどき」がもてはやされる。もちろん腫瘍でもそうで、「癌もどき」がいいに決まっている。さて、枚数に縛られているのでもないが、地面にぽつりと落ちている葉の写真が2枚だけでは少ない。3段落であれば3枚か4枚は載せられる。どうしようかと思っていたところ、去年春に東京に行っての帰り、阪急桂駅のプラットフォームで見かけたオンシジウムの花ひとつの写真を思い出した。それをずっとスマート・メディアに保存したまま、消す気になれなかった。いつか使い道があると思っていたからだ。それを先ほど思い出し、今日の投稿用に加工した。この花は結婚式の花束を賑わせるのに使われる。誰が落としたのか、早朝の駅にこの小さな黄色い花はとても目立った。階段を下り立ち、体の向きを変えた途端、足元にこれがあった。見た瞬間、造花ではないことはわかったが、本物にはそういう迫力がある。造花でこの小さな花をそっくりに作る人はいないだろう。同じラン科でも、もっと大きく華やかな種類に人気がある。人気のないものには「もどき」も登場しない。今日の最初の薔薇の写真は昨日撮った。一昨日載せた小さな赤い薔薇と同じ花壇に咲いている。不思議なことに、わが家から病院までの道のりのどこにもその場所以外に薔薇が咲いていない。
●がんもどき、さらに、なおも_d0053294_0164242.jpg

by uuuzen | 2014-11-03 23:59 | ●新・嵐山だより
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