鴛鴦夫婦という言葉があるが、カモ科の鳥はどれも番の仲がつねによく、また浮気もしないのだろうか。鴛鴦でも実際はそうではないという研究をTVで昔見たことがある。それでも他の鳥は動物に比べると、浮気する度合いが少ないのだろう。でなければ鴛鴦夫婦という言葉は生まれないように思う。
筆者と家内は鴛鴦夫婦かと言えば、傍目にはそう見えているかもしれない。昔一緒になってすぐ、筆者の母が八卦見が好きで、家内との相性を調べてもらったことがある。その答えは「腐れ縁」で、切ろうと思っても縁が切れないと説明を受けた。家内はそれを大いに嫌がった。「腐れ縁」は縁を切りたいと思うことがあることを意味する。長年夫婦をやっていると、そのようなこともあるだろうが、それを言うと家内に激怒されるだろう。それはさておき、11月に入って3日間は悪天候という天気予報で、入院中の家内を見舞うのに自転車では無理だろうと思い、昨日と今日は雨がまだ降っていなかったにもかかわらず、帰りに祟られるといやなので、徒歩で病院に向かった。昨日は28日の検査日に家内と歩いた道をたどった。途中で何度か迷ったので、今度は見迷わないで済むと考えた。その道は地図で調べると最短距離で、山沿いを南下する。自動車が通らない道を何度もくねくねと曲がりながら進む。自転車なら大丈夫かと言えばそうではない。鈴虫寺の前に出て来ると、さらに南下するのに石の階段を20段ほど上らねばならない。そこは自転車では走れない。自転車を持ち上げて上ることは出来るが、その労苦を思えばそこは通らない方がよい。つまり、徒歩専門の細道だ。鈴虫寺を南下すると地蔵院、浄住寺の前を通る。寺社が並ぶ旧街道で、観光に来た気分だ。地図で見ると最短距離だが、坂の上り下りが多い。次に最短なコースは自転車で走るのに持って来いで、坂は途中で長いものがひとつあるが、道筋はわかりやすく、ずっと山沿いの道を利用するよりかえってエネルギーの消耗が少ない。帰りは坂を下りると言ってよいので、往復では所要時間が多少異なるはずだが、自転車で早く走れば20分だ。徒歩ではその倍はかかるが、昨日は山沿いの旧街道を迷わずに、しかも早足で歩いたので、35分で着いた。歩数は5000から6000の間と思う。昨日も今日も徒歩で往復し、久しぶりに有酸素運動をした感じで多少疲れた。というのは、持参する荷物が両腕に下がっているからでもある。そういう時はやはり自転車が便利でよい。おかしなことに昨日も今日も傘を持ちながら、一度もそれを使わなかった。ならば自転車が使えたのに、よけいなエネルギーを消耗した。だが、筆者はそうは思わないことにしている。というのは、昨日は帰り道で面白い光景に出会って写真が撮れたからだ。また、近日中に府立総合資料館で調べなければと思っていたことが、昨日はふと病院のすぐ近くに図書館があることを思い出し、4時少し前に病室を出て向かった。小さな図書館だが、筆者が求めていた資料がすぐに見つかった。その本はとても珍しい部類に入る。それがなぜその図書館の、しかも筆者が真っ直ぐ吸い寄せられるようにして向かった棚にあったのかが不思議だ。すぐにコピーを1枚撮り、わが家に向かったが、総合資料館に行く手間が省けて気分は上々であった。家内の病室では毎日3時間は過ごす。家から往復する時間を含むと5時間といったところだ。午後7時まで面会出来るが、そうなると帰りの自転車や徒歩は面倒だ。それでまだ明るいうちに病院を出る。家内がベッドでうんうんと唸っていれば別だが、もう病人とはほとんど思えないほどに元気で、長居することもない。今日は日曜日で病院の正面玄関が閉まっていたので、坂をかなり上がった別の門を利用したが、平日と違って外来の患者がないため、人気がほとんどない。患者がたくさんいるのに、日祝の郵便局や銀行と同じで、変な感じだ。
話は変わる。鴛鴦は雁ではないが、同じカモ科であるから、「がんもどき」と呼んでもよい。鴛鴦の雄は特徴のある形をしているので鴨とは思えないが、雌は全くの鴨だ。昨日の投稿を終えた後、思い出したのは韓国旅行のお土産にもらった小さな鴛鴦の木彫りだ。韓国では結婚式に実物大の鴨の木彫り人形を2体登場する。それを用意するのはどういう人か知らないが、新郎新婦が1体ずつ持つ光景を写真で見たことがある。同じ形の鴨で、鴛鴦ではない。ということは、韓国では「鴛鴦夫婦」という言葉はないかもしれない。また、鴛鴦でなくても鴨全般が、番は生涯離れないと思われているのだろう。では筆者が思い出した鴛鴦の小さな木彫りはどういうことだろう。雄は全くの鴛鴦そのもので、雌は鴛鴦の雌ではなく、鴨全般を指すような曖昧な造形だ。そういうところが韓国らしい。よく言えばおおらか、わるく言えばおおざっぱでいい加減だ。量産の安物と思うが、合成樹脂製でないだけまだ味わいがある。日本で同じものを手で製造すると、1体1000円で買える価格になるだろうか。たぶん無理だろう。それで合成樹脂で作られ、また誰しもそのことに不平を言わない。いかに精巧に出来ていようが、型で量産されるものは味わいが乏しい。精巧に出来ていることは二次的な魅力だ。ざくざくとした造りでも、温かみが感じられるものがいい。それは民藝の魅力を知っている筆者以上の世代の思うことかもしれない。それはさておき、2体の鴛鴦の木彫りはもう20年近く同じ場所にある。先ほど手に取ってみると埃だらけだ。ティッシューで拭き、また磨いて撮影のために掌に載せてみた。鴛鴦の雄は華麗だが、この木彫りは全く冴えない。むしろ雌の方が少し大きく、貫禄がある。結婚式で使う実物大の木彫りの縮小版と言ってよく、筆者は雄より雌の方がよいと思う。両方とも嘴の上に糸房が結んであるが、その意味はわからない。なくてもいいようなものだが、何か特別の意味があるのだろう。昨夜思い出したのはこの小さな木彫りだけはない。1年前に撮影しながら使う機会がなかった2枚の写真を思い出した。それを今日は使う。1枚は鴨川にたたずむ鴨の番だ。たぶん番だろう。同じ形に見えるので同性かもしれず、ならば人間でも認められて来ている同性婚か。もう1枚は地元郵便局の裏手、山沿いの旧街道のすぐそばを流れている小川沿いで休憩する番だ。手前の青い羽が一部見えるのが雄ではないか。同じ格好で並び、気持ちよく居眠りしているようで、撮影の際は最大のズームにした。カモ科はたくさんの種類がいるだろうが、筆者にはどれも正式な名前がわからず、また色や形の特徴も知らない。それで2枚の写真とも鴨としか呼べないが、ひょっとすれば「雁擬き」かもしれない。鴨は夜行性ではないと思うが、時々深夜にわが家の裏の小川で鴨の鋭い鳴き声が轟き、水音がする。だがそれもまた鴨ではなく、「雁擬き」かもしれない。そうそう、ついでながら書いておくと、10月12日に地元小学校で開催された学区民体育祭に自転車で向かう朝の6時50分、筆者は生まれて初めて頭上に鳥の両足を感じた。烏が筆者の頭のてっぺんに一瞬乗ったのだ。すぐに飛び立ったというより、低く飛んでいる時、筆者の頭が通りがかり、たまたま足が触れたのだろう。だが、触れたというにはあまりにもリアルにふたつの足の感じを味わった。それは鶏の足から想像出来る。バサバサという音とともに頭に鋭い爪のようなものを感じたので、一瞬首をすくめ、すぐに振り返ると、烏が屋根に舞い上がって行く羽音が聞こえた。自転車を止めると襲って来る気がしたので、そのまま猛速度で学校へ向かった。姿を見ていないので、烏ではないかもしれない。ひょっとすれば筆者の頭をつかんで連れ去ろうとした鷲か鷹か、あるいは鳶ということもあり得るが、雁ということはあるまい。最初の赤い薔薇はわが家の近所で今朝病院に向かう途中で撮った。ひとつだけ雨のしずくまみれになって咲いていた。