●薔薇の肖像、その7
d0053294_22534322.jpg礼の花束には薔薇が必ず混じっているのではないだろうか。では入院のお見舞いはどうかと言えば、花束はよくないと聞いたことがある。花がすぐに枯れてしまい、快復の思いにそぐわないからだ。



それでも筆者は何となく家内のこのたびの入院に際して、入院中のブログの投稿は快復祈願もあって薔薇の写真を毎日載せるのがいいと思った。今日はその第1日目だ。同じ題名で「その1」を投稿したのは5月下旬であった。その時に書いたが、薔薇の花の写真をまとめてたくさん載せる気になったのは、筆者のブログの写真がどれも地味で、全体に薄暗く見えたからで、たまにはこれ以上の華やかさはないというような写真を載せたくなった。そのきっかけは、市バスから降りて梅津のスーパーのトモイチに立ち寄ろうとした5月のある日、昭和レトロの雰囲気を持つ古ぼけた店の前の垣根に真っ赤な薔薇が咲いていて、それが西日を受けて輝いているのを見たからだ。その時に撮った写真は「その1」から「その6」までに使わなかった。なぜだろう。その赤い薔薇との遭遇がきっかけになって、わが家の近くや大阪などで、まとまった数の薔薇の写真を撮り、それらを4枚1組にして載せたが、そのきっかけとなった写真はぽつんと離れた位置にあって、4枚1組の1枚として収める気になれなかった。それでも没にするのは惜しく、何かの機会があると思ってヤフー・ボックスに保存していた。そして薔薇の盛りの春は過ぎ、「薔薇の肖像」と題して投稿するとしても、来春まで待たねばならないと思っていた。ところが20日ほど前に春ほどではないが、ぽつぽつと薔薇が咲いているのを見かけた。どれもわが家の近くだ。5月の投稿のように数が多くないので、4枚1組とすることは無理で、また春と同じ花を撮影しているかもしれない。それで春のような投稿は出来ないので、やはり来春まで画像を保管しておくかと考えていたが、家内が急きょ手術をしなければならないことになり、1週間ほど前に、家内の入院中のこのブログ投稿に秋薔薇の写真を1枚ずつ載せるのはどうかと考え始め、結局それを実行することにした。それにはもうひとつ理由がある。病院の玄関脇に、2種の薔薇がさびしく咲いていた。そのうち最初に見かけた方の薔薇の写真を今日は使う。2種の薔薇は車が盛んに出入りする際にあって、ほとんど誰も注目しない。そういう薔薇が筆者は好きだ。梅津のトモイチのすぐ近くに咲いていた赤い薔薇もそうだ。その昭和レトロの古い店はもう営業していないが、隣接した家には人が住んでいて、先日は新聞か何かを取りに出て来た70代の眼鏡をかけた痩せた男性を見かけた。その男性が薔薇を育てているのかどうか知らないが、陽当たりがよいので昔に植えたものが勝手に咲いているのだろう。手入れをされず、誰にも気づかれないような薔薇で、それがよい。今日の最初の写真がそれで、繰り返すと、その1枚が「薔薇の肖像画」のシリーズの発端となった出会いの薔薇だ。蕊が花弁に覆われている様子は椿でよく見かけるが、その形を筆者は大いに好む。2枚目は深い臙脂色で、ビロードの布地を思わせる。これくらいに濃い色を筆者は好む。何となく頑丈な感じがするからだが、写真のものは半ば枯れかかっている。これから咲くものも撮ったが、同じ場所に咲く同じ品種は取り上げないことにしているので、没にするかもしれない。だがそれには惜しいほどに2枚目に写るものとは形が違って、もっと若々しい。人間の年齢で言えば20歳ほどの開きがある。前にも何度か書いたことがあるが、花は枯れかけは歓迎されない。絵画でもそのような状態は好まれない。薔薇の絵は一般受けするのでどの画廊でも見かけるが、どれも枯れたものを描かない。花でも人でも枯れることはわかっているのに、枯れたものを見たくないのは人情だ。そのことをよくよく知っているので高齢者はひがみっぽくなる。そしてそんな高齢者はますます若い世代から振り返られない。筆者が「薔薇の肖像」と題してこれまで6回投稿して来た中の薔薇の写真はどれも壮年と言うべき形や色で、萎びたものは選んでいない。萎びた花は用済みであって、誰しもそんな自分を想像したくないのだ。
d0053294_2254781.jpg 家内は2週間入院する予定だが、手術してみないことには正確にはわからない。鞄ふたつに必要な品物をこの1週間で揃え、今朝は9時に病院に行った。ふたりで自転車を連ねて行くことも出来たが、鞄は大きい。従姉夫婦が車に乗せてくれると言うので言葉に甘えた。従姉もその旦那さんも同じ病院に入院した経験があり、勝手がわかっている。筆者は20歳の時に手術を受け、40日ほど入院したことがあるが、それ以来入院したことがない。家内も出産時以外はそうで、またこのたびは診断を受けて手術までの日数がわずかで、実感が湧かないと言っていた。パジャマに着替えてベッドにいるものの、至って元気で普段と何ら変わらない。にもかかわらず、内臓の一部を切り取らねばならない。放置すると数か月か2,3年後には深刻な状態になり、体も心も萎んだ花のようになるのは確実だ。昔はみなそのようにして死んで行ったが、今でも発見が遅れる同じことになる。26日の総合防災訓練では自治会の防災委員から、友人の62歳の女性が十二指腸癌が見つかって半年後に亡くなった話を聞いた。誰もが同じ境遇になり得る。咲いた花は萎む。その萎みの状態が癌などの病気だ。ではそう考えると納得出来るかと言えば、そうではないだろう。そういうところに宗教の入り込む余地がある。そして筆者はこの10日ほどは江戸時代の禅僧のことを思っていた。独身を通した彼らは妻子がない分、悩みが少なかっただろうが、その分さびしさもあったのではないか。個人のさびしさは他人には推し量れないが、愛していた妻子のある者が妻子を何らかの理由で失うと、さびしくなるのは当然で、そうした人は同じ境遇の人の孤独や、あるいはずっとひとり暮らしをして来ている人のそれを想像して同情しつつ慰められる。自分だけがひとり暮らしではないのだという思いだ。30年後の東京は半分弱がひとり暮らしになるとネットで読んだし、また今日は子どもの声がうるさくてたまらず、また遊んでいる姿を見たくないので保育園に文句を言う人がいるということをTV番組で知った。数歳の子が楽しく遊んでいる姿を見たくないというのは、自分の萎んだ姿に耐えられないからだろう。老齢を認めたくないのはわかるが、若さに嫉妬しても仕方がない。だが、それほどまでに老人が孤独になるということで、当人もまさかそうなるとは若い頃に想像しなかったであろう。肉体が萎むことは心までそうなることで、そのことが子ども嫌いという形に表われる。今年の4月に家内と道後温泉に行った時に泊まったホテルの部屋には大正時代の掛軸があった。あちこち破れて骨董品としての価値はゼロにほぼ等しいが、そこに描かれていたのが良寛と彼にまとわりつく子どもたちだ。そのような老人になることが理想だろうが、今や子どもに下手に声をかければ警察が飛んで来る時代であると、昨夜のTVでは言っていた。子どもを見守るのはいいとしても、それは数メートル離れてというのが条件で、体を触るなどとんでもない。そういう現実は高齢者にも子どもにとっても不幸だろう。今年の地蔵盆では雨が降って足元が悪かった。筆者はひとりの3,4歳の女の子の体を持ち上げてテント下の床に運んだが、女の子は親からそういうことをされるので拒否もしない。その子の体の肋骨と腹の中の内臓が手に感じられ、筆者はぎくりとした。それはまだ弱弱しい人間の真実の姿だ。子どもの体がそういうか弱いものであることを実感すると、命のはかなさと、それを大切にしなければという思いが湧く。ところが、そういう経験が少子高齢化に向かって得難くなって来た。そして、30年後の東京では半分の人がひとりで静かに萎んで行く。
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by uuuzen | 2014-10-29 23:59 | ●新・嵐山だより | Comments(0)


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