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●『二科黄金の時代展』
正倉院展を観た後、母親に会いに行き、その後難波の高島屋に出てこの展覧会を観た。夜8時までオープンしているので、母親と1時間ばかり会った後でも1時間ほどは鑑賞出来ると踏んだが、結果的にそのとおりに実行出来た。



●『二科黄金の時代展』_d0053294_23453151.jpg公的美術館がだいたい午後5時で閉まってしまうのに引き換え、この8時までというのはありがたい。だが、今日西宮で観て来た今竹七郎展で知ったが、1930年代の難波の高島屋は夜9時まで営業していた時期がある。昔の方が大阪人は活発だった。さて、この展覧会はあまり期待しないで出かけた。入場者は少なくて、10人程度であったが、そのためにゆっくりと楽しめた。予想とは違ってとても面白かった。かつて二科に所属していた画家について改めてよくわかったが、考えてみればこうした二科の画家をまとめて観る展覧会は初めてのことだ。日本画では団体回顧展は少なくないが、洋画の場合は筆者が記憶する限り、ほとんどない。今回は「第90回二科展開催記念-二科展を彩った精鋭画家たち-」と副題がついている。チラシを予め入手していたが、いつもじっくりと見ることはないので、今こうして書いていて初めてチラシに列挙される画家の名前を確認している。全部で44名だ。ひとりあたりほぼ2点、計87点の出品で、時代順が意図され、二科の歴史がよくわかった。チラシ裏面の最初の文章を引用する。『大正3(1914)年秋に、石井柏亭、梅原龍三郎、有馬生馬、坂本繁二郎、津田青楓らが、新しい日本洋画の創造を目指して、在野美術団体「二科会」を結成し、東京・上野竹之台陳列館で第1回展を開催して…』。有馬生馬とあるのは、有島生馬の間違いだが、原稿をタイピングした人は美術に関心のない人のように見える。二科が結成されたのは、当時文部省美術展覧会(文展)の洋画部に、画家たちが旧派(一科)に対する新派(二科)を設けて印象派以降の新しい傾向の作品も審査するように働きかけたが、文部省はそれを認めず、11名が創立会員となって10月10日に前述の場所で展覧会を開いたことがきっかけとなっている。当初の賛同は70名以上だったが、旧派の親分である黒田清輝に説得されて藤島武二ら多くの者が文展にとどまった。岸田劉生は当時23歳で、監査委員を推されたが、芸術観の違いから辞退し、草土社を結成しているし、結局創立会員と言えるのはわずか9名だ。会場は「創設期」「大正期」「昭和前期」の3つに分けて構成されていた。図録を買わなかったので詳しくは書けないが、以下、目にとまったことを中心に列挙して行く。
 「創設期」は大正3から5年までとしていたが、実際にその3年間に描かれた作品のみがこのコーナーに並んでいたのではない。所蔵家のつごうや、またひとり当たり2点となれば、なるべくその画家のいい作品を展示するに越したことはないので、年度の下がる作品で代用するのも仕方がない。有馬生馬の「熊谷守一肖像」は熊谷を描いていて印象に残った。これは昭和5(1930)年の第17回二科展に出品された。90半ばまで長生きした熊谷の方が今では描いた画家よりよく知られている。石井柏亭は「厨」という大正7年、第5回展の作品が展示されていた。津田青楓の「頬杖の婦人像」という昭和5年の作品とともに、ヨーロッパの後期印象派をいかにもうまく模倣した感じで、当時としては新しく見えたであろうが、今となってはそれらの作風が時代を越えて持続しなかったものであることがわかる。ヨーロッパに次々と起こる新しい流派を吸収することに汲々として、日本ならではの個性をどう油絵具で表現するかの格闘を、この時代の若い画家たちが日々悩んで格闘していたことを、歴史にやや埋もれたようなこうした作品で改めて確認することは、どこか悲しいが、反面また勇気づけられる気もする。日本の洋画を、結局はヨーロッパの模倣と言ってしまえば話はそれで終わりであり、日本は日本なりの評価であってよい。日本の生活様式が江戸時代そのままのところに欧米風を貪欲に摂取して、折衷的とも言えるものになって来ているのであるから、描かれる油絵もそうであるのは当然で、そのことを悪いと言うのであれば、今の日本のすべてがそうなり、これは明らかに的外れな意見だろう。ヨーロッパに認めてもらえなくても、日本の洋画が1世紀以上も続いて来ていることはそれなりの価値がある。国際的などという言葉を引っ張り出すと話がややこしくなるわけで、日本でしっかりと創作を続けていれば、後で自ずと国際的価値はついて来るものではないだろうか。津田は1907年に渡仏し、ジャン・ポール・ローランスの指導を受け、4年後に帰国しているが、今から100年前に洋画に命を賭けて熱心に本場の芸術を習得しようとした若い才能がたくさんあったことを今にして思うと、ある種の劣等感ゆえとは言え、当時のハイカラという観念にいかに日本中が染まっていたかを改めて思う。それがあったからこそ日本は100年で先進国の仲間入りを果たした。石井や津田よりも現在もっと評価されるのは梅原と安井だが、この両者が二科の双璧と言ってよい。梅原は大正10年の「ノートルダム寺院」が展示されいた。明らかにマルケ風で、梅原の初期を知るうえで面白かった。安井の大正13年の「奈良」は牛島憲之の作風に似ていて、おやっと思ったが、今調べると牛島は12歳年下の1900年の生まれだ。大正13年の牛島の作風は安井の「奈良」とはかなり違っている。
 続く「大正期」は大正6(1917)から15(1926)年までを扱っていた。二科は1919年に彫刻部を新設した。そしてキュービズムやフォービズムに学んだ作品が目立つ時期だ。二科展はヨーロッパの画家の作品を展示することに意欲的で、1923年にはマティス、ドラン、ピカソ、デュフィ、ブラック、アンドレ・ロートらの作品を特別陳列している。また、その翌年には大阪信濃橋に洋画研究部が新設され、小出楢重、鍋井克之、黒田重太郎ら関西の二科の画家たちの拠点になった。このコーナーで最も目を引いたのは萬鉄五郎の2点の作品であった。「筆立てのある静物」と「雪景色」で、どちらも大正6年に描かれている。前者はキュービズムス風だが、色彩が茶色を基調にし、萬しか描けない味があり、今見ても新しい。「雪景色」は何でもない風景だが、微妙で渋い暖色の色彩がよく、日本の情緒というものがあって、小品ながらとても印象に残った。ヨーロッパにはないものを萬は表現し得ている。同じように迫力があるのはやはり小出だ。昭和5年に描かれた「六月の郊外風景」は、最晩年の同じ年に描かれた名作とされる「枯木のある風景」と同じ構図のもので、何でもない風景を描いてこれだけ強い何かを観る者に感じさせる絵も珍しい。関西の洋画家の最高峰の小出にもう少し制作の年月があればどれほどの絵を描いたかと惜しい。大津生まれの黒田重太郎は、先月滋賀県立美術館で大きな回顧展があったのに、つごうがつかず観に行かなかった。「蘆生ふる渓間」は昭和6年の作品で、同回顧展のポスターにあった人物像とはまた違った側面があった。向井潤吉の昭和3年の「司厨夫」は、後年の茅葺きの民家とはまるで違った人物像で、その意外性が面白かった。林武の「静物」は大正11年の作品だが、この画家の大きな展覧会はまだ観たことがない。どこかスーチンのまだ極端なデフォルメが行なわれない初期の絵のタッチを思わせるところがあり、油彩画としては正統的なものに思えて好感が持てる。野口弥太郎の「門」は昭和6年の大きな作品だ。これは以前どこかで観たことがあるが思い出せない。今は中之島のリーガ・ロイヤル・ホテルの所蔵だ。中央の石造りの建物のアーチ門の前に顔が曖昧に描かれた黒服の若い女が立ち、右端に赤い上着の門兵がひとり立っている。ロンドンの王宮かどこかではないかと思う。なかなか達者な筆さばきで、日本の油彩画がもうここまでこなれたものになっていたことを実感させる。ほとんど現在と変わらない洒落た感覚があると言ってよい。林重義の昭和5年の「les Fratellini」はドーミエをそっくり思わせる人物像、一方昭和4年の「踊り子」はピカソの青の時代風で、フランスのさまざまな時代の絵に次々と心酔していたことがわかる。
 続く「昭和前期」は昭和2(1927)年から19(1944)年までを扱っていた。
1930年に児島善三郎、里見勝蔵、林重義、林武らによって独立美術協会が、36年には石井、有島、安井らが一水会を、38年には吉原治郎や斉藤義重が九室会をそれぞれ結成し、二科会は43年の30回展を最後に、44年に解散した。これは当然戦争のためだ。当時「美術展覧会取扱要綱」というのがあって、戦争中は美術活動に制限が設けられたのだ。先日杉本健吉展でも少し触れたように、戦争中は戦争に非協力的でなければ絵具の入手もかなわなかった。そんな状態の中で、二科会は全員の一致によって解散が宣言された。戦後すぐにまた元会員の中から再建の意見が上がったが、向井潤吉ら9名は新たな出発を目指して8月15日の敗戦から3か月後の11月に行動美術協会を設立した。そのため、現在の二科展は一応歴史が途絶えた後に復興されたもので、創立から昭和前期の錚々たるメンバーを揃えた時代とは一線を画すると言ってよい。現在の二科展で筆者がその作風を知るのは織田廣喜ぐらいだ。この展覧会が第90回記念を謳っているのは正しいとしても、戦後の再興についての説明パネルは一切なかった。そのためもあって、あくまでも「二科展を彩った精鋭画家たち」という副題が意味を持って迫る。現在の二科展を覗いたことのない門外漢の言うことかもしれないが、今は二科と言えば芸能人が出品して話題になる程度で、巨匠が居並ぶという雰囲気はない。さて、この3つ目のコーナーが最も面白かった。山口薫、松本竣介、佐伯祐三、清水登之、宮本三郎、岡田謙三、藤田嗣治、山口長男、吉原治良、岡本太郎といった、夭折の画家も含めて、美術ファンなら誰もがよく知る名前が並んでいた。もう日本に戦争がなければどのように二科会が進展していたのかと思わせる。だが、戦争がなくても相変わらずどんどん変化するヨーロッパの新しい絵画の潮流の刺激を受けて日本の洋画も変化したことには変わりなく、いずれ二科はもはや支え切れない多様な絵画の展開期を迎え、会を離脱する者が続出したに違いない。最初は権威に反旗を翻す在野の団体として出発したものが、世代が交代することによって権威主義が芽生え始め、当初の生き生きとした気風を失って行くのは仕方のない話だろう。人間もその集合の団体にしても同じことで、何でも長く生きると腐敗や停滞が生じる。適当なところで新しいものが生まれるのがよい。
 最後にこのコーナーで印象に残った作品を少し上げておこう。宮本三郎の「寝たる裸婦」は、チラシやチケットに大きく印刷されているが、1934年の制作で色彩もヴォリューム感も圧倒的なものがあって印象深い。迷いのない、それでいてかなり速筆で描かれたように見えつつ、力量をよく伝える。宮本は藤島武二に師事し、関東大震災によって関西に移住して黒田重太郎に就いた。1938年に渡欧しているが、戦時中は藤田や小磯良平らとともに戦争記録画家として南方に行っている。二科からこのような戦争協力が示されると、自由であるべき画家活動がもはや終焉を迎え、会を解散するのもやむを得ないとなる動きが出ても当然だろう。宮本は戦争画でも名作と言われるものを残しているが、戦争時に画家がどういう行動を取ったかについての論議は今もあまり活発ではない。GHQによってそれらの戦争画は撤収され、1980年代だったろうか、かなりが返却されて東京ではたまに観る機会もあるようだが、あまり触れられたくない歴史と考えているのか、美術館が積極的に宣伝をしているとは言いがたい気がする。宮本は1947年に熊谷守一、田村孝之助らと二紀会を結成し、やはり再興の二科には残らなかった。会場の作品の最後は岡本太郎で締め括られていたが、その手前に1909年に京都市に生まれ、77年に亡くなった伊藤久三郎の100号ほどの大作2点が並んでいた。知らない画家だが、抽象と具象を混ぜたようなさらりとしたタッチの不思議な感覚がとてもよかった。「合歓の木」は昭和14年、「雨或いは感傷」は昭和12年の作だが、野口謙蔵をもっと爽やかにした色彩と描法で、どちらも戦前とは思えない瑞々しさがあった。本当に最後の最後の壁には大きなガラス・ケースがあって、そこには二科の図録がたくさん並んでいた。第23回までは文庫本程度の大きさで、24回からは一気にその倍のサイズになっていた。正倉院展の図録だけではなく、こうした団体展のものもまた年々豪華になって時代をよく反映していたことがわかる。
by uuuzen | 2005-11-03 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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