閤という字は「太閤」でしか見かけないが、「閣下」の閣とどう違うのか気になって今調べると、どちらも御殿の意味だが、前者は「婦人の寝室」の意味がある。となると、太閤秀吉は婦人に不自由しないところからの呼称かと想像してしまうが、WIKIPEDIAには「太閤」は「摂政または関白の職を子弟に譲った人物」のこととある。

秀吉のことは後で触れるとして、昨日は家内と半年ぶりに北野天満宮の縁日に出かけた。4月に出かけた時は
上七軒の歌舞練場でランチを食べ、そのことはこのブログに書いた。昨日は見事な好天で、数日前に家内が天神さんに行こうと言った。珍しいことだが、家内も筆者もそれなりに北野天満宮で確かめたいことがあった。縁日の露店を見て回るのはついでのようなものだが、筆者は顔見知りの露店商が何人かいるので、そうした人が元気でいることを確認し、また言葉を交わすことの楽しみももちろんあってのことだ。天気のよさと土曜日であったため、人はいつもより多いように感じた。そのことを骨董品の露店商のSさんに話しかけると、人の多いのは確かだが、冷やかしの客や大きく値切る客ばかりで景気はよくないと言った。確かにそのような様子で、日本の景気をまともに受けるのがSさんのような露店であることを思った。Sさんは亀岡に店舗を持っているが、何分辺鄙なところでもあって、売り上げはあまり期待出来ないだろう。市バスに乗って出かけたが、車内は中国人が目立った。そして彼らは筆者と同じく北野天満宮前で下りた。中国人はぱっと見は日本人と大差ないのでわからないので、縁日に来ている外国人の何割を占めるかわからず、青い目の西洋人が多いように感じるが、実際は中国人や韓国人が多いだろう。昨日は珍しくも、まずは今出川通りに面した大鳥居をくぐって本殿に真っ直ぐ向かった。学問の神様なので、家内の手術と入院が無事に終わるように願ってもあまり効き目はないだろうが、せっかく本殿前に来たのであるから、賽銭を投げて拝むことにした。そう言えば毎月25日に開催される北野天満宮の縁日にこれまだ筆者は何十回も訪れているが、最初に本殿前に向かったのは初めてのことと思う。大鳥居前から露店や屋台はひしめいているので、縁日気分を最もよく味わうにはまずは大鳥居から参道を直進するに限る。それが正しい順路だ。筆者が北野天満宮の縁日に通い始めたのは伏見人形を探すためで、10数年前が最初であった。伏見人形などの骨董品を売る露店は天満宮の境内東端とそのすぐ東の道沿い、そして北端の道沿いで、大鳥居をくぐる必要がない。それでめったに大鳥居をくぐって直進することがないが、昨日は参拝が目的というより、筆者は境内で探し物があった。それはすぐに見つかり、写真を数枚撮ったが、今日の投稿には関係がないので触れない。その探し物目当てに昨日天満宮を訪れたのは筆者だけであったと思う。それほどに今では忘れ去られているものだ。それを撮影して本殿前で拝み、そして探し物があった場所に戻ってさらに北に進み、右手に見えた東門から外に出ることにした。その外とはたくさんの露天商が集まっている区域で、門を出て30メートルほど北にSさんがいるし、また南には別の馴染みの露店商がいる。筆者は必ず挨拶をし、しばし話すが、家内はいつもそれに加わらない。そして遠巻きに顔をしかめてこちらを見続ける。話に加わればいいと思うが、そうしたくないと言う。それで昨日は早々に話を切り上げた。家を出たのが正午前で、露店を一巡すると空腹を覚え、それで4月と同じように歌舞練場で食べることにした。4月以上に満員で、しばらく待たされた。ウェイトレスはたぶんアルバイトの若い女性がふたりで、そのうちひとりは強く歩くので床がドスドスと音が鳴った。それを指摘されれば気をつけるだろうが、もうひとりは静かに、しかも同じように素早く歩くので、これは女性としての自覚の差の問題だ。厳しく言えば、ドスドスと歩く女性はその店のアルバイトにはふさわしくない。ふたりが慌ただしく店内を歩き回っていたのは満席であるからだが、厨房は男性ひとりが調理をしていた。これでは待たされる客がどんどん増えるはずで、しびれを切らして帰って行く客もあった。また、4人座りのテーブルにひとり就き、しかもすぐ背後で待っている客が大勢いることをさして気にせずに食べている若い女性がいたが、それも女性としての自覚が足りない気がする。こういうことを書くと、女性差別と言われそうだが、男は案外女性のそういうところを見ている。男であれば許されることが女であればそうではないと言いたいのではない。空気を読むという表現が少し前に流行ったが、筆者が言いたいのはそれで、傍迷惑を考えない鈍感な人は背後で顔をしかめられていることに気づかない。男なら注意されると逆上して相手を殴り殺すことがある世の中で、また女の場合は露骨に嫌な表情をぶつけて来るから、筆者はこうしてブログで気になったことを書くだけだ。

今日書きたいのは題名にあるように、北野天満宮に因む「長五郎餅」だ。筆者はそれを何年か前に雑誌で見たかTVで知った。それでもその店がどこにあるかわからなかった。たぶん上七軒通りのどこかにあると思い、またそれらしい店は縁日に訪れるたびにその前を通って来た。その店とは前述した門を出て東へ50メートルほどのところにあって、上七軒通りの西端に近い場所で、その店の前にもたくさんの骨董商が露店を出す。筆者は甘党というほどでもないので、秀吉が命名したとされる「長五郎餅」を食べたいとは思わなかった。ところが、昨日は10数年経って初めてその餅を売る店を見つけた。本殿で拝んだ後、本殿の東脇を少し北上し、東門から出たことを先に書いた。その門の内側のすぐ近くに超五郎餅を売る大きな店があった。25日の縁日のみそこで長五郎餅を売ると書いてあった。前述したように、筆者はめったに大鳥居をくぐって本殿前まで行くことがない。それで今まで気づかなかった。それにしても10数年も知らなかったとは、人生はほとんど何も知らないままに人は死んで行くと思わせる。実際そのとおりで、物知りと言われる人でも無知と言うのがふさわしい。いかにも物知りを自負し、また世間からそう言われる人があるが、筆者から見ればそういう人でもほとんど何も知らないも同然だ。TVのクイズ番組を見ていて、最後に外国旅行が当たるという肝心の質問に答えられない場合、筆者はいつもそのことを思う。物知りと言われる人はたいてい芸術には無関心で、芸術分野では常識の最たることでも答えられないことがしばしばある。それはさておき、長五郎餅の販売に遭遇し、どこでそれを売っているのかという思いから瞬時に開放され、6個入りを買って帰ることにした。店の中で茶と一緒に食べられるが、昼食前で甘い物を先に食べることを躊躇した。帰宅して調べると、煎茶と長五郎餅2個で税込380円で、抹茶では580円だ。長五郎餅は6個入りで907円だ。1個150円程度で、煎茶代が80円、抹茶代が280円ということになる。秀吉が北野天満宮で茶会を開いたのは天正15年(1587)、陰暦の10月1日とされる。その時に秀吉は長五郎餅を食べ、その名前を授けた。それ以来400年以上も同じ餅が作り続けられているのであるから、京都の凄さがわかる。大阪や京都に住む人は、秀吉が茶会を開いたのと同じ場所で長五郎餅を食べることを一度は体験しておくべきだろう。来月の25日に家内が退院出来て元気であれば、今日の写真に写る天満宮内の店で抹茶を飲みながら頬張りたい。今日の2枚目のパノラマ写真右下端に野球のグローヴのようなものが写っているが、筆者は東門にほとんど背を当てんばかりに寄って撮影したので、停めてあった自転車の一部が写った。ネットで調べると、長五郎餅の本店は天満宮正面の道をしばし下がったところにある。そこはほとんど筆者は歩いたことがない。長年京都に住んでいても知らないことだらけで、人生は短い。そして心の片隅に留めていたことが突如わかったりする。長五郎餅は小さいので2個食べるものだろう。あるいは6個でも足りないという甘党が大勢いると思うが、太閤さんはどうであったのだろう。抹茶と一緒とすれば1個か2個で、物足りなく思う程度がちょうどよい。3枚目の写真は箱だが、白梅紅梅の下に赤い長方形が3つ描かれる。これが何かと考えたところ、緋毛氈を敷いた床几であることがわかった。梅を見ながら外で食べるのがよいということか。寒くて抹茶では暖まらない。秀吉の茶会の10月1日は、今の暦では1か月近く遅く、10月25日辺りと考えてよい。その日に筆者は家内と自宅でお茶をしながら長五郎餅を食べた。ただし、飲んだのはアメリカンのコーヒー。