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●『ここに泉あり』
病のことをいつの間にかハンセン病と呼ぶようになった。「癩」の文字が難しいことと、癩病患者が差別されて来たからでもあるのだろう。癩菌を発見したのはハンセンという北欧の人で、病名をその名前と取って横文字にすると、癩病とは違う病気と思われる。



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差別をなくすために同じ病気でも名前を変えればよいとの判断だ。病名よりむしろ地名がそうだ。大阪市内でも差別をなくそうとの考えによって、地名が変わった場所は少なくない。地名が変われば差別がなくなるかと言えば全くそうではない。今流行中のヘイト・スピーチは昔はなかった。表現の自由を正しく理解出来ない、また品位のない人物者が増えている。今日取り上げる映画は品位とは何かを考えるのに役立つ。京都文化博物館のフィルムシアターで8月28日に家内と一緒に見た。戦後間もない頃に群馬の高崎市で興った市民フィルハーモニーの苦労と成功の物語で、クラシック音楽好きにはよく知られた話なのだろうが、群馬や高崎市がどこにあるのか地図を思い浮かべることの出来ない関西人は多いはずで、どちらかと言えば東京で人気があった作品ではないだろう。映画の中で演奏家たちが群馬各地を演奏旅行するその道筋がアニメーションで表示される場面があり、まるで社会の授業のための映画を見ている気分になるし、また群馬県内の各都市の位置を知っている人でない限り、ほとんど意味のない場面だが、つまりはそれほど熱心に県内各地を隈なく演奏して回ったということだ。それは当時の日本では特筆すべきことであったのだろう。東京にはもっと実力のある楽団があったはずで、実際本作ではそのことが示されるが、さて大阪や京都はどうであったかとなると、市民がオーケストラを作るようになるのは60年代以降ではないか。もっとも、オーケストラの規模や楽器編成はさまざまで、短期で解散した場合もあるはずで、調べるのは容易ではないかもしれない。本作に描かれる楽団は今も高崎市にあって「群馬フィルハーモニー」と呼ぶそうだが、WIKIPEDIAに詳しい。創設が1945年で、本作がその10年後に当たり、全国的な注目を集めたとある。それによって各地に同様のオーケストラの設立が始まったのではないだろうか。本作ではなぜ高崎市でオーケストラ設立の機運が高まったかのかについては説明がなかったが、戦前から演奏家がたくさんいて、音楽文化が盛んであったのだろうか。それと、戦争直後の何もない時代に音楽で人々の心を豊かにしたいと思う演奏家たちが集まりやすい環境があったと考えるしかない。それは街の大きさがちょうどよかったのかもしれない。集まって練習する場所の確保がまず必要だが、集まりやすい、つまり比較的狭い地域に団員が暮らすことも合奏を手助けする要素になる。そして、やはり戦前から音楽に理解のある人たちがいて、自分の子どもたちにクラシック音楽を学ばせようとしていたことも要因であろう。そのことについては本作で描かれていたように、経済的な事情の改善にもなるという一石二鳥だ。筆者が驚いたのは。小学生の子どもたちがヴァイオリンを学ぶために団員のもとを訪れて個人教授を受ける場面が何度かあったことだ。その子たちはおそらく本当に楽器を学んでいて、エキストラ出演したのだろう。昭和30年であるから、そうした子どもは筆者より数歳年長で、そのことを家内に言うと、本作が公開された昭和30年頃にはすでにヴァイオリンを学ぶ子が大阪でもたくさんいたと返事した。それはそうで、筆者の周囲にもそのような子がいた。そのため、本作で何人もの子が団員に教えを乞う姿は高崎市に限ったことではない。だが、その子たちの身なりは今と比べれば学校の制服を着て、しかも田舎じみた顔つきで、生活ぶりがうかがえた。今とは比べものにならないほどに経済的に貧しいにもかかわらず、ヴァイオリンを学ぼうとする意欲と、またそれを促す親がいたということに、本作のヒットの理由もあるし、またそれほどにすでに当時の日本は音楽文化に目覚めていたのであって、そのことに感動する。
 親が子どもの才能を信じて楽器を学ばせるのは今はもっと多いが、一方で子どもをアイドルに仕立てようと熱心な親やスポーツをさせる親もあり、子どもを有名にしようという欲求が本作当時よりもっと露骨になり、また有名になって金も儲けたいという野心が見え透いている。本作に登場するヴァイオリンを学ぶ子どもたちはどうであったかだが、それは教える先生の生活を見ればよい。団員は子どもを教えて生活費を稼ぎ、自分たちの楽団の活動も持続させようとする。今もそういう音楽家は多いだろう。いや、大半の音楽家はそうであるはずで、アイドルや芸能人のように目立ち、また金儲けも出来るはずがない。それを承知しながら本作当時の親たちが子どもにクラシック音楽を学ばせようとしたことは、音楽という芸術の高雅さを信じていたからで、高崎はそういう親がそれなりにいて、そのことが市民フィルハーモニーの底力となったはずだ。つまり、音楽を受容する人たちの裾野が大きかった。それは群馬や高崎ならでは何らかの特殊事情があったのかもしれない。簡単に言えば文化度の高さを持つようになった歴史的な要因だ。人口比からすれば東京や大阪は高崎の何倍もの団員を抱えるいくつかの市民オーケストラが戦争直後に出来ていたはずであるのに、そうはならなかったところに、群馬や高崎の特殊性があるし、また人口の多い大阪であるのに文化度が低いと言われる原因にもなる。それはさておき、演奏家の執念というものが本作では見事に描かれていて、それは音楽を信じるからこそで、その純粋さに打たれる。戦争直後のどうして食べて行くかが大問題となっている日々の中、大作曲家の曲を演奏するなど、芸術に関心のない者からすれば狂気か馬鹿かのどちらかで、同じ問題は今も変わらないはずだが、日本が経済的に豊かになって食うことは戦争直後ほど困難ではない。それで苦労が少なくなった分、演奏に精出すことが出来て演奏の技術が上達したということになるのだろうが、感動を与えるということはまた別問題だ。本作が感動を与えたのは、食うや食わずの状態で、楽器を質に入れては出しを繰り返しながらも練習を重ね、各地に演奏に赴き続けたことだ。もちろん各地で演奏を重ねなければ収入もなかったからだが、本作に描かれるように、ほとんど交通費と食事代しか出ないことがあって、啓蒙活動と言うにふさわしかった。実際そのとおりで、そのことが本作の見所で、感動を与える理由になっている。団員は炭鉱や僻地の小学校、それにハンセン病の療養所などを訪れて演奏するが、団員のひとりがぽつりと漏らす。「彼らは二度とオーケストラの生演奏に接することなく、そのまま同じ場所で死ぬまで暮らす」。当時は日本が高度成長するとは思えず、戦後の貧しい暮らしがずっと続くと信じていたのだろう。田舎に暮らす人ほどそう思っていたはずで、であるからこそ、オーケストラの演奏を二度と経験出来ないほどの楽しみとして味わった。また団員はそういう眼差しを感じるからなおのこと演奏に身が入り、団員が信じるように音楽が人々の心に大きな潤いを与えた。だが、その後の歴史は団員の言葉どおりには進まなかった。確かに小学校で聴いた切り、もはや二度とオーケストラの生演奏に接することのない人は今も昔と変わらぬほど多いが、今はその気になればいくらでもそういう演奏に接することは出来る。そして片田舎でクラシック音楽の生演奏に二度と触れることなく死んで行くのではなく、たいていの子どもは金の卵と囃し立てられて都会に働きに出た。本作に登場する僻地の素朴な少年少女はもはや日本のどこにも見られず、オーケストラが学校に演奏しにやって来ても本作の子どもたちのようには感激しない。そして団員もそうだろう。
 芸術を取り上げた映画は日本ではきわめて少ないが、本作が昭和30年の公開であったことを考えると、経済的な豊かさが芸術を大切にする気持ち必ずしも比例しないことがわかる。当時の日本はまだきわめて貧しく、そうであったからこそこういう映画が作られたが、金満の日本になってからはもはや本作のような芸術讃歌の映画は不要かと言えばそうではない。今や高価な楽器は本作当時に比べると格段に入手しやすい経済状態になって、中学校のクラブでも管弦楽曲を演奏することが珍しくなくなった。それゆえ今さら芸術を讃える映画など恥ずかしくて作れないし、見られたものではないとの意見があるだろう。貧困に喘ぎながら名作を書いた樋口一葉のような才能はイメージしにくく、一流の芸術家になるにはまずしっかり勉強し、また経済的にも恵まれ、東京芸大といった一流の芸術大学を卒業しなければ誰からも相手にされない。作品のよしあしが評価される前にまず学歴や肩書が必要な世の中だ。そうした人たちが芸術界を牛耳っていると自認し、またそのことを当然で正しいと思っているから、そういう人たちの仲間になれるだけの物を持ち合わせない限り、まともに相手にされない。そういうことは美術よりも音楽の方がきついと思うが、本作を見る限り、どういう大学を出たか、どういう師について学んだかといったことは問題ではなく、まずどういう演奏技術を持っているかがお互い凌ぎを削る一番の観点になっている。そしてそういう思いは親から教えられて今では数歳の子どもでもあたりまえのように持っている。前述したように、本作に登場するヴァイオリンを学ぼうとする子どもたちは何を夢に描いていたかだが、教えてくれる先生たちが生活に困っている状態を知っていて、金持ちになるということは考えていなかったであろう。それなら商人になればよい。だが、今ではなるべく有名な学校を出て、有名な師に就くという考えは常識になっていて、その選択を誤れば町のちょっとした音楽家で埋もれてしまうと思われている。それが不純とは言わないが、本作が与える感動と比べると大きく違っている。本作ではマネージャーが登場する。彼は演奏の仕事を各地から取って来ることだが、あまりの財政難で家族は食事に事欠き、妻は家を出てしまう。そんなことになってもなお音楽から足を洗わない。そういう生き方はすべて芸術の名の下で許されると本人は思っているし、またそれほどの根性があったために楽団は有名になって行った。先に書いたように、そういう生き方は普通の人には狂気で、つまりは芸術は狂気の産物ということだ。感動を与える行為には狂気がついて回る。これも狂気なのかどうか、本作でびっくりさせられる場面は前述したハンセン病の療養所での場面だ。本物の病院の講堂のような部屋で本物の患者を集めてロケしたと思うが、低い舞台が設えられ、最前列脇に医師と看護婦数名と陣取り、その背後に数十名の患者が居並ぶ。患者のひとりが感謝の言葉を述べて演奏が始まるが、団員は10名ほどだ。演奏が終わって患者たちは拍手するが、両手の指がない人が多く、パチパチという音にならない。その場面は、患者の実態をそこまで晒すことはないと非難を受ける恐れがあって、今では撮影が難しいかもしれない。筆者が最も感動し、また涙が出そうになった場面は、僻地の小学校での演奏だ。そこに登場する子どもたちは今は70歳前後になっているが、みな恥ずかしがり屋で純粋な顔をしている。そういう子どもはもう日本からいなくなった気がする。演奏が終わった後、子どもたちは山道を歩いて分校へと戻って行くが、その場面をかなりのロングショットで撮影しながら、子どもたちが歌うオーケストラの伴奏つきの山田耕筰作曲の「赤とんぼ」が流れる。その旋律と歌声があまりにも清らかで、これほどの名曲を日本が生んだことに今さらながらに感じ入る。この映画はベートーヴェンやシューベルトなど、西洋の大作曲家の音楽がふんだんに演奏されるが、「赤トンボ」は例外で、そこにこの映画に出演する山田耕筰の意地があった。山田はこの映画の最後の場面に少しだけ登場する。筆者は動く彼の姿を初めて見た。眼力が鋭く、そこには音楽に命を懸けた生涯が現われていた。本作の監督は今井正で、本作の前に先日取り上げた樋口一葉原作の『にごりえ』を撮った。また、1976年に室生犀星原作の『あにいもうと』を撮っている。「にんじんくらぶ」の女優の岸恵子がヒロインのピアニストを演じるが、実際に演奏している場面があって、それなりに練習を重ねたのだろう。また太鼓やコントラバスの奏者として加東大介が登場し、誰よりも印象深かった。今は地方再生と政治家がまたうるさく言い始めているが、本作は東京と比べて遜色のないオーケストラを抱えていた地方都市の物語でもあって、地方再生を主張する政治家は必見すべきだ。そして、掛け声だけでそう簡単に地方が活性化するものではない事実を知るだろう。
by uuuzen | 2014-10-20 23:59 | ●その他の映画など
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