些細なことがストレスになることがある。筆者の場合はパソコンのプリンターのインクだ。まともに印刷出来るのは10枚に1枚で、その間に数時間を要することがざらにある。大量のインクを無駄にし、手や衣服がインクまみれだ。
プリンターの調子が悪いのではなく、インクのカートリッジだ。手書きの方が100倍速いが、自治会の回覧文書となると今までプリンターを使って来た手前上、そうは行かない。さきほども2時間ほど要してようやく4枚の文書を印刷したが、どの行も文字の下半分がかすれている。カートリッジのヘッドが異常なのだろうが、いくらクリーニングしても同じで、またインクは満杯だ。印刷したものを没にすると、次はもっとひどい印字となるかもしれず、かすれたところを黒インクの万年筆で埋めた。それがまたとても時間がかかり、また仕上がりがきれいでない。文明の利器というのに、手書き時代にはなかったストレスをもたらす。新しい利器は便利なことばかりではない。想像もしなかった禍をもたらしもする。北京では大気汚染がひどくなって生活の支障を来している。車が便利だと誰もが乗るからそうなった。人間は馬鹿だ。遠からず滅びるのは明白だ。その方が他の動物の迷惑にならずによい。人類が滅びた後、ごくわずかな人間が生き残り、新たに登場した地球生命の主人公に飼われ、動物園の中に収められる。その時、どういう人間が鑑賞に最適として選ばれるだろう。きっと最も醜いと判断される者が選ばれる。醜さは鑑賞する側にとっては面白い。「はははは、あれを見ろよ、あの人間、全く醜いぜ。きっとほかの人間に大いに嫌われたに違いない」。だが、そうして鑑賞される醜い人間は馬鹿にされていることを知らず、そのことがまた醜さを倍増させる。精神的なストレスは皆無で、本人は至って元気で幸福を感じている。さて、今日は8月下旬に京都文化博物館のフィルムシアターで見た映画についてまた書く。8月27日に見たと思う。昭和29年(1954)で、筆者が3歳の頃の成瀬巳喜男監督の作品で、原作は林芙美子の3編の小説を合わせた。101分、モノクロで、杉村春子が主演だ。彼女は昨夜取り上げた『にごりえ』でも登場した。彼女らしさがあって、ちゃきちゃきしたドライな性格を演じるのが上手かった。その点、本作は実に適役で、演技ではなく、彼女の本性そのままと思えるほどだ。この映画は彼女が演じる倉橋という中年女性を風刺したものだろうか。筆者は林芙美子の小説を読んだことがないので判断に困る。林芙美子もまた樋口一葉と同様に経済的な苦労にあえいだ。それで逞しく生きる女性の味方をした小説を書いたと思うが、となると倉橋は林の分身で、彼女の金に対する思いが投影されていると見ていいだろう。全部がそうではなくても、倉橋ないし女性に同情的で、他人にはえげつないと見えてもそれなりの事情があると断りを書いておきたかったのではないか。ここまで書くと、倉橋がどういう女性であるかがわかると思う。彼女が信じるものは唯一金だ。それは女性だけではなく、人間なら誰しもそうなる可能性はあるし、また大多数の人間がそうだと言っていいかもしれない。それほど金に執着しなければ金持ちになれない。そのことを誰もが大人になれば知る。執着してもなかなか金持ちになれないもので、人の何倍も金に目ざとい者だけが大金をつかむ。そして世間ではそれを成功と呼ぶ。人間の生きる理由は金であり、金持ちになれば怖い存在がなく、自分が選ばれた格好いい人間と思い、金のない者を蔑み、たかられはしないかと内心怯え、そのためになおさら貧乏人を蔑んで遠ざける。わずかでも隙を見せようものなら、すかさず貧乏人は金をせびる。貧乏人だけではない。金持ちが一番の敵だ。なぜなら金持ちはさらに他人の金をほしいと熱望しているからだ。そういうことをこの映画は描いている。昭和28年も現在も全く人間は変わらない。そのため、本作の原作は今後も何度も映画化され得る。
成瀬監督は倉橋という守銭奴を時代を代表する逞しい女性として賛美したのだろうか。あるいは悲しい女性として描いたのか。映画を見る限り、前者に思える。金を儲けようと必死になることは悪いことではない。身寄りのない中年女性が老後を豊かに生き抜くとして、そこには何よりもまず金の力が必要だ。それ以外に信じられるものはない。金は自分を騙すことがない。金ほどかわいいものはない。倉橋の信念はそうだ。だが彼女にも昔は心がときめいた男性がいた。また言い寄って来る男もたくさんいた。ところがそういう男はみな彼女の金を狙ってやって来る。倉橋が憧れていた男がある日、手土産を持って訪ねて来る。倉橋はいそいそと化粧し、きれいなキモノを着て待つが、やって来た男は酒が入って金の無心をする。そうなると倉橋の変わり様は早い。大事にしていた男の若い頃の写真をさっさと処分し、過去の美しい思い出もゴミ箱に捨てるように忘れる。だが、彼女のそういう態度も理解出来る。かつて仲がよかった異性が打算で接近して来たと知れば、誰でも幻滅するだろう。せっかくのほのかな美しい思い出がぶち壊され、腹も立つ。だがそれが現実で、人生というものかもしれない。林芙美子もさんざんそういう目に遭ったのかもしれない。そこで思い出すのは昨夜の『にごりえ』の第1編の『十三夜』だ。そこでは金持ちに嫁いだ女性が車夫に成り下がったかつての恋人に施しをする。それとは正反対のことを描くのが本作で、どちらが現実に近いかとなれば断然本作で、またそれは女が中年になると、若い頃のように純粋さを失うという真実も示している。林芙美子に言わせれば女だけではなく、男も全く同じで、実際そのとおりだ。純粋さとは馬鹿や無能のことで、そういう属性をさっさと捨て去った者が金持ちになれる。残念かもしれないが、それが現実で、林芙美子はそこを見抜いていた。それでは生きていても嫌われるばかりで、どんな夢や楽しみがあるのかと言う人があるかもしれないが、金がたっぷりあればそんな心配はまずしない。したがって、まずは金持ちになってみなさいと林芙美子も成瀬監督も言っているのだろう。倉橋がますます金持ちになって行く様子が描かれるが、知り合いに金を貸し、利子をしっかりと取る。そしてまとまった金で値上がりしそうな物件をよく調べ、不動産を買う。土地転がしというやつで、金は累乗で貯まって行く。倉橋のような女性が当時の東京ではたくさんではなくても何人かはいたであろう。やがてオリンピックが始まると言って土地はさらに値上がりし、倉橋は億単位の金を手にしたであろう。そして金目当ての男を寄せつけず、若いツバメを何人も囲い、ますます若返る。つまり、彼女は男と同じなのだ。
そして聾唖の若い娘をお手伝いさんとして雇っている。かつては芸者をしていて、男というものをさんざん見て来ている。若い頃、心中までしようとした男がいて、彼女に会いたがっているが、金が目当てと知っている彼女は会おうとしない。また昨日の『にごりえ』を持ち出すが、林芙美子はすっかり一葉の世界から脱却した女性像を描いた。いや、一葉時代にも倉橋のような女性はいたろう。だが、林芙美子は一葉のように貧困でしかも若死にすることを拒否し、女ひとりで生きて行く現実の中で、どのような生き方があるかを考えた。そして倉橋の生き方は非難されるどころか、堂々とまたまともに金儲けをし、新しい時代の女性の鑑としたのだろう。男から見ればそれでは身も蓋もないと映りがちで、そこは林もよく自覚していて、本作では倉橋とは対照的な同じ芸者仲間であった他の3人の女性を脇役として登場させ、彼女たちの生き方にも妥当性があるとする。菊は花の時期が長いが、「晩菊」は枯れる前であり、本作に登場する4名の女性をたとえている。その中で倉橋は子どもがないが、同じように子どもがない女性も登場するが、倉橋と違って夫がおり、また器量がよくないので独身という女性もいる。それに年頃の娘をひとり持つ女もいるが、娘を演じるのは有馬稲子で、好きな男が出来たので鞄ひとつで駆け落ちしてしまう。つまり、本作が描いているのは、女性は子どもがいようがいまいが、中年になればその後の身の振り方を考えるという現実だ。当時の平均寿命はたぶん50代ではなかったか。となれば、倉橋も金持ちになってからそう長生きもしなかった。他の3人の女性も同じで、みな現状を維持するのが精いっぱいで、格好いい男性が現われるとか、また宝クジに当たったように金持ちになることもまずない。それどころか、子どもがいればいたで、その子に悩ませられる。全く現在と同じで、晩年になって生き方が急に変わることがない。現状維持でも困難で、たいていは悪化する。そういうことを知っているからこそ、倉橋は金にすがるのだろう。金さえあれば他人に迷惑をかけることもない。それはそうと、今朝ネットで読んだ記事に、70代で身内に殺された女性が大金持ちで、派手な身なりが村では浮いていて、評判があまりよくなかったとあった。子どもを嫌い、犬と同じように見ていたというが、大金を持ってなおさら鼻持ちならない人格になったようだ。この映画の倉橋も周囲からはがめつい女性と見られ、親しい交際はもはや出来ず、仲がよいのは不動産屋だけということになっている。それでも彼女は平気だ。金持ちになれば金持ちと付き合うのは当然で、貧乏人はただ金を貸す相手に過ぎない。そのことを貧乏人は蔑むが、金持ちはそれでびくともしない。それが現実で、倉橋は同世代の誰よりも精神的にも肉体的にも逞しい。彼女が大金を遺したまま死んだとしても、それは本望であり、誰もが真似の出来ることではない。本作は倉橋を否定的に描かず、女性はかつての熱烈な恋に決して惑わされず、きっぱりと切り捨てるほどの潔さを持っていることを伝える。またそのような性格が金持ちになる条件であることを教える。現在の女性は大いに参考にすべきだ。中年になって接近して来る男など、みな何かよからぬ企みがあるもので、寄せつけないことだ。そんな腐った男を相手にせず、20代の若い男に貢ぐ方がはるかにましだ。女が男より長生きするのは本作を見れば納得出来る。結局人間は男と女の騙し合いで、騙す者、騙されない者が成功すなわち金をつかむ。そして騙される男は馬鹿の最たるもので、人間的魅力もない。そんなことを言ったところで、誰しも自分を生きるしかない。他人の目など些細なこととして気にする必要はない。そんな暇もないほどに懸命に生きれば世間で言う成功者になれるだろう。ストレスになると感じることは務めて排除し、人生の線路をまっしぐら。