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●『にごりえ』
口一葉は結核で死んだ。24歳であった。その年齢で日本の文学史に名前を残している。小説を書いたのは1年少々で、稼ぎがいいと思ったからだが、明治半ばでは女性に男と同じように収入のよい仕事はほかにはなかったのだろう。



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今は紙幣に印刷されるほどに有名だが、その紙幣が生前の一葉にもっと舞い込んでいれば結核にならず、また多作で長生きしたかもしれない。だが、いつの時代でも生活をどう立てながら、創作活動をするかに迫られる人は無数にいる。夭逝した一葉にもっと寿命と経済的豊かさがあればなどと考えても仕方がなく、彼女が書いた作品で彼女を評価し、また讃えるしかない。それはそうと、結核は近年またぼつぼつと患者が出て来ているらしい。しかも絶滅したと思っていた昔の結核菌よりもっと手ごわく、薬が効かないらしい。そのことで思うことがある。わが家の近くに大きな古い木造住宅があり、その住民が家の周囲のわずかな雑草が気になるのか、定期的に白い粉をたくさん撒く。除草剤だ。ところが風雨でそれが消え去ったかと思うと、カタバミなどの小さな草がまた大量に地中から育って来る。除草剤の効果がないのだ。最初はそうでなかったのに、草は毒に負けてはならじと耐性を進化させたようだ。結核菌もそれと同じことだ。厄介なものを完全に消そうと思って手間暇かけたことが、後でとんでもない仕返しを受ける。薬が効かない結核が増えるとさらに強い薬を発明するのだろうが、それにまた耐える結核菌が登場する。この繰り返しだ。薬漬けにならずに育った食材は金持ち向けに高価だが、人間も同じではないか。ところが今や人間は大量の薬から逃れることが出来ない。薬剤にどっぷり浸った体で死んで行く。結核ついで書くと、昨日家内の診断結果が出た。夫婦で若い医師の説明を聞いた。両方の肺に異常があり、まず左に癌が見つかった。それをただちに除去すると言われた。来週月曜日に担当医の説明を受けるが、出来る限り早く手術を受けたい。ベッドの空きなどの問題もあってひょっとすれば1か月ほど待たされるかもしれない。左の手術が終わり、体力が戻ってから右を手術する。8月の健康診断で陰りが見つかってよかった。肋骨の陰に腫瘍が出来ていたならば発見出来ない可能性があった。そうなれば来年の健康診断で見つかり、手遅れになっていた。片肺だけと思っていたのが両方の肺と聞いてがっかりしたが、仕方がない。家内は80歳まで生きたいと言っているが、手術の後は数年は再発の心配をせねばならず、大きな精神的ストレスを抱える。家内は明後日が誕生日で61になるが、最悪な誕生日なのか、それとも早期発見で喜ぶべきなのか、樋口一葉が生きた時代ではなく、どうにか手術をすればまた生きることが出来るので、生のありがたさを噛み締めねばならない。今朝ネットで調べると、肺癌は手術代が平均150万というから、家内の場合は二度受ける必要があって倍となる。それに入院費で、貯えが底をつきそうだが、申告すると大分戻って来ると聞いた。それでもまずは正規の料金を支払わねばならないかもしれず、家内の体もだが、金の心配もある。そこで樋口一葉だ。彼女はどうすれば生活が楽になるかを考えながら小説を書いた。そのことがよかった。一般に芸術と呼ばれるものは金の心配をせずに済む境遇で作られるべきと言われることがある。生活と制作に困らない金を出してくれるパトロンがいれば、大芸術が生まれやすいとの考えだ。それは一理ある。だが、完全に正しくはない。生活苦に喘ぎ、餓死の恐怖に晒されながら、なお表現せずにおれない何かを持たない限り、生まれて来る作品は高が知れていると考えることも正しい。必死になるからだ。その必死はまさに言葉どおりで、食うに困らない状態にいるのとは天地の開きがある。いい作品を書かない限り、名前が世に出ず、したがって収入もないと一葉は現実をよく知っていたであろう。そういう切羽詰まった状態で次々と作品を生んだが、命と引き換えと言うにふさわしい行為だ。同じように今も作品を作っている人はたくさんいるだろうし、そういう人の中から将来大家とみなされる人がいるかもしれない。
 樋口一葉は肖像写真が残っている。それをもとにして凹版の切手が昔発売された。文化人切手だ。つまり、戦後間もない頃に一葉は日本を代表する小説家とみなされていた。その評価は変わらず、ついに紙幣に登場した。一葉より数歳下の日本画家鏑木清方は一葉を題材に名作を描いている。それも切手になった。針仕事の手を休める坐像で、筆者はその絵の一葉の顔が好きだ。写真より美人に描かれているが、芯の強さは同じだ。24で夭逝したが、肖像写真や肖像画に元気な頃の表情を留め、それが今後も人々の一葉像として認識され続けて行く。そう思うと、人間は最も力がみなぎっていた時がまさに花であって、その頃の肖像がその人を思い出す縁となるべきで、筆者ももう遅いかもしれないが、写真館できっしりとした写真を今のうちに撮っておこうか。家内と一緒のも1枚撮っておきたいが、手術後に表情がどう変わるのか変わらないのか。そう言えば昨夜は家内が夢に出て来た。とても若返っていて、筆者に向かって微笑んでいる。そのことを家内に言うと、「何となく死にそうな予感みたいやね」と笑って返した。さて、樋口一葉の小説は若い頃に買ったのに読んでいない。今日取り上げる映画は昨日の『あにもいと』と同様、8月に京都文化博物館のフィルムシアターで見た。20日の昼の部だったと思う。原作の小説を読んでいないので、どれほど原作に忠実かどうかわからないが、昭和28年の作品で、まだ明治時代を演出することは今よりも簡単であったはずで、また白黒画面も手伝って一葉の時代を目の当たりにする気がした。昨日の映画もそうだが、古い映画は、ロケの場面は今はもうない景色が写ってそれなりに楽しいが、最近筆者は楽しさ以上に何だかもう充分という気がすることが多い。自分が赤ん坊であった頃、少年時代の世界にタイムマシンで戻ることが出来るようになっても、筆者はそうしないだろう。過ぎたことはもうどうでもいという気分だ。過去をあまり懐かしがっていると、息苦しくなって来る。それは過去には絶対に戻れないと知っているからでもある。それに過去すなわち自分が体験して来たことは、大半を忘れているとしても、今さら思い出したくないという気がする。たとえば昭和20年代が惨めであったというのではない。当時の日本全体が今より経済的にはるかに貧しく、自分だけが貧しく育ったという思いを持つのはあまり正しくないし、またそう思ったところでもはやどうしようもない。それが過去で、過去のことをほじくり返して思わないようにするのがよい。そこで思い出すのは、若宮テイ子さんが30年ほど前に筆者に言ったことだ。彼女は当時道後温泉に行って来たばかりで、その施設や周辺の町並みが随分みずぼらしく感じたそうだ。それを聞いて筆者は自分の目で見なければわからないと思い、そして今年の春はようやく家内とそこに行って来た。ブログにそのことをさんざん書いたが、若宮さんの印象とは違って、好ましいと書いた。だが、若宮さんの言うことも何となくわかる。古びた施設は歴史の貫禄は確かにあるが、古びていることは確かであり、それはいわば老人を見るようで、その絶対的年寄りの様子に年少者はげんなりする。同世代の老人でもそう思うだろう。老いはそれだけで魅力がないのだ。そう思うと夭逝した樋口一葉はとても幸運であったと言える。老婆になって作品をたくさん書いたとすれば、今の評価は案外なかったかもしれない。夭逝した才能を世間は惜しいと思うもので、早死には神格化される大きな条件だ。
 本作は130分もあるが、三編をつなぐオムニバスだ。どれも面白いが、第1話と第3話が特に印象に残った。3編とも金に困る話で、一葉が置かれていた立場が反映されているのだろう。そしてもうひとつの大きな特徴は女の弱い立場だ。明治半ばは戦後の自由恋愛とはほど遠かったうえ、女は生まれて死ぬまでただただ耐えて生きることを強いられた。だが女が物のように扱われるのは明治だけではない。もちろん江戸時代はもっとそうであったし、また今もさして変わらないのではないか。今は学校の教師をしながらアダルトビデオに出演する女性がいるほどだが、人口比で言えば裸を晒して収入を得る女性の数は今は昔に比べて多いのか少ないのかとなれば、さてどうなのだろう。江戸や明治のように餓死するかどうかの瀬戸際に家族が置かれ、泣く泣く娘を人身売買の形で女衒に売ったというほどの経済的困窮は今は少ないはずだが、それでも性を売る若い女性が多いのはどういう理由からだろう。やはり、いかに経済大国になったとはいえ、大きな借金を抱え、餓死もしかねない立場に追い込まれる女性がいるということか。それはさておき、第1話は「十三夜」で、これは金に困っている男と金持ちの家に嫁いだ女の物語だ。ふたりは相思相愛であったが、結ばれることはなかった。明治ならよくある話だ。官吏の家に嫁いだ「おせき」は子どもを産んだが、姑にいじめられ、それが耐え難く、十三夜に実家にひとりで戻る。満月が美しい夜で、老いた両親は娘の様子を察するが、我慢して暮らすように諭す。父が座る背後に二枚折りの屏風があって、それは中国の寒山寺で有名な「寒山拾得」の拓本を貼りつけてある。今でも同じ拓本は土産物として人気があるが、それがこの映画が作られた当時、あるいは一葉の生きた明治半ばにもあったということになって、美術を担当した人の趣味がわかって興味深かった。ま、そういう小道具を見る楽しみが昔の映画にはある。おせきは両親に言われて嫁ぎ先に戻ろうとするが、いかに満月の夜とはいえ、長い夜道はひとりで歩いて行くことが出来ない。そこで人力車を呼ぶが、乗ってしばらくすると車夫は降りてくれと言う。まだ遠いというのに下ろされればたまったものではない。観客はそこで追剥かとぎくりとするが、おせきも同じ心境だろう。そこでおせきは何度も頼み込み、せめて次の人力車が見つかるところまでは乗せてほしいと懇願する。するとふとした拍子におせきは車夫がかつて愛し合った録之助であることを知る。彼は離婚し、今はひとり暮らしで、しかも車夫をするほどに金に困っている。その様子を察したおせんは懐にあった金を差し出し、それで再起を図ってほしいと言う。録之助はそれを拒まずに受け取る。録之助がもっと経済的に豊かであればおせんと結婚出来たはずだが、おせんも両親を思えば経済的に安定した男と結婚しなければならない。おせんは姑にいじめられる存在だが、金に関してはある程度自由になるのだろう。懐にどれほどあったのか知らないが、それをぽんと録之助に与えるところは感動的だ。ふたりはもう永遠に会わないかもしれない。きっとそうだろう。金によって阻まれたふたりだが、金に余裕が出来た女がかつての男を助ける。これは一葉が姉御肌であったことを示すのだろうか。好きであった男を後先を考えずに援助するという人妻のおせんの行動は倫理にもとると非難する人がいるかもしれない。だが、それは血も涙もない人だ。おせんと録之助が反対の立場であっても同じことがふたりの間に起こったであろう。好きな人が窮地にいると、それを助けたいと思うのが愛で、そこには打算などは入り込まない。録之助はおせんの行動を純粋なものとして受け取り、おせんも純粋な気持ちで金を与えた。それくらいの愛というものが他人にわからない形でこの世にいくらでもあるのでない限り、またそのことを信じられないとすれば、人は生きて行く価値がない。
 第2話「大つごもり」は久我美子が資産家に奉公するみねを演じる。資産家の夫婦は金に細かく、自分のふたりの娘たちには豪華に着飾らせて、贅沢な生活をしている。特に母親のあやがいわゆるがめつい人物で、みねをこき使う。夫婦は再婚で、夫には前妻との間に息子がひとりいる。石之助という放蕩息子で、父は再婚した妻のそそこかしもあって資産を継がせないと考えている。だが、男の子孫は自分ひとりであるから、店の跡継は自分が第一で、資産のいくばくかをもらうのは当然と考え、しばしば家に出入りして金を奪って行く。そのことにしかめ面をする夫婦だが、実子であるからには仕方がない。みねの実家は当然貧しく、みねの働きで暮らしている。そしてみねに大晦日までにまとまった金を用立ててほしいと言う。優しいみねはあやに借金を頼む。すぐに返事をしないあやで、みねは気が気でない。そういうところにかなりの大金を店が回収し、それをあやはみねに夫婦の大事な小さな引き出しに入れておくように命じる。それほどにみねは信用されている。ところが大晦日になってもあやはみねに金を貸さない。実家から小さな弟が金をもらいに来る。みねはついに手をつけてはいけない引き出しの金から必要な分を奪い、それを弟に手わたす。その部屋では石之助が眠っていた。彼は実はみねがあやから普段いじめられ、また大晦日に金を用立てねばならないことを知っていたのだろう。眠っていたかに見えたのは狸寝入りかもしれない。そのことは観客にはわからないままだ。あやが帰宅し、引き出しに入れさせた金を確認しようとする。引き出しを開けた途端、そこには石之助の手紙があるばかりで、全額をもらって行くと書いてある。それを見た夫婦はまたかという顔をする。みねの行為は夫婦にはわからない。みねの行為は窃盗だが、どうせ腐るほど金がある家だ。黙っていればわからない。石之助は放蕩息子だが、まだ両親よりも人間的で、貧しいみねに同情したのだろう。そのことは一葉の原作を読まねば本当のところはわからない。
 第3話「にごりえ」は悲しい。まるで文楽で描かれる世界で、一葉が江戸時代の文学の後継者であることがよくわかる、主人公は小料理屋に勤めるお力だ。彼女の父は腕はいいが、きわめて貧しい調金師で、一家は毎日食うや食わずだ。お力が子どもの頃の様子が回顧場面となって挿入される。父が稼ぐ金では一家はまともな物が食べられない。それでお力は残飯屋に向かう。そこには同じように貧しい人たちが量り売りされている残飯を買う。鍋に一杯買ったお力は夜道を走って家に戻るが、ぬかるみに足を取られて転倒し、手にした食べ物を泥の中に落としてしまう。泣く泣くお力は立ち上がるが、もはや食べられない状態だ。そういうように育ったお力は、江戸や明治ではたくさんいたように、春を売るしかない。お力は美人で、店の中では一番の売れっ子だ。毎夜店の前にやって来る男がいるが、お力はその姿を見ると2階に逃げる。以前馴染みであった男だが、金がなくなって店に通えなくなった。金のない男は用がないお力だ。だが、本心はどうか。それに同じ料理屋で働く女たちはみな男がかつて本気でお力を愛したことをよく知っていて、せめて言葉を交わすくらいいいではないかと言う。男は以前は店を経営し、羽振りがよかった。それに妻子がいる。妻のお初を演じるのは杉村春子だ。お力は淡島千景で、このふたりの対照は見事だ。色気たっぷりのお力をお初は化け猫といったように夫や子どもの前で呼び、ますます夫はお力への思いが断ち切れない。そのことをお初はことあるごとに諭し、また罵り、夫の心を取り戻そうともがくが、それは妻としては当然の振る舞いで、お初の立場になればお力が憎らしいのは同情出来る。お初の言うように、夫は精力をお力にすっかり絞り取られ、もはや全く仕事に身が入らない。お初の内職だけが一家を支える収入というありさまで、それでもなお夫は毎晩お力会いたさにかつて入り浸った店の前を歩く。ついにお初の小言に爆発した夫はお初を家から追い出す。お初は子どもを連れて家から出るが、行く当てはない。それでほとぼりが冷めた頃に戻って来るが、家は鍵が架かっている。裏に回って中に入るが、もぬけの殻だ。そして夫がお力と情死しているところを人々が発見する。お力は抵抗した後がなく、ふたりは心中したようだ。結ばれない男女の最後の手段がそのような死に方であったのは江戸時代ではいくらでも例があった。今は簡単に離婚するし、また再婚する。男女がどうにもならない状態に陥るというのは江戸や明治頃より少なくなっているのではないか。いくらでも不倫のし放題で、飽きればまた別の相手を探す。そんな男女は無数にいるだろう。だが、この映画では不倫ではあっても男女がお互い忘れられない純愛を描く。ふたりは周囲の迷惑も考えず、馬鹿なことをした人物と言われるに違いないが、死ぬことでしか自由を得ることが出来なかった。そこまで女も男も愛に命を懸けることが出来るかという話で、一葉は激しい女性であったと筆者は想像する。
by uuuzen | 2014-10-17 23:59 | ●その他の映画など
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