磨りガラスに見せる接着シートがある。シートで覆うので磨りガラスより丈夫かもしれない。そのシートを文字や絵を繰り抜いて透明ガラスに貼ることが今ではあたりまえになっている。
だが、シートの粘着性は貼りつけた隅から弱まるようで、時々めくれ上がって透明ガラスが覗いているのを見かける。その瞬間に興醒めする。本物の磨りガラスではない紛い物の悲しさで、整形美女と同じだ。本物の安定した美しさにはかなわない。とはいえ、そうしたフェイクの流行は下火になるどころか、もう留まることを知らない。薄っぺらな時代なのだ。ごまかしの時代でもある。うまくごまかして誰にもわからなければよいという考えが蔓延し、たとえば議員の半分ほどが政治活動費を生活費に充てる。昔「みんなでわたればこわくない」という言葉が流行った。悪いことでもみんながやれば正義になる。それは悪いことをする連中にとってはであって、依然として真なる正義があると言う人があるが、その考えも揺らぐほどの乱れぶりはどの社会にも昔からある。それはさておき、台風19号は昨日去ったが、今回はどのTV局もかなりおおげさに報道し続けた。京都はさっぱり台風らしくなく、家内とふたりでTV各局の報道ぶりに呆れ果てていたが、念には念を入れようという考えなのか、それとも報道する価値のあるニュースがほかになかったのだろう。後者とすれば放送を停止すればいい。無駄な電力を使わなくて済む。新聞もそうだ。さして取り上げるべき大事件がなければ自動的にTVやラジオのスイッチが切れるシステムを築き、また新聞も休めばよい。どのTV局も同じように台風関連のニュースを流すのではなく、NHKだけがやればいいではないか。こう主張する人もあるだろう。台風をおおげさに取り上げて結果的にさして被害がなければそれでいいのであって、無駄ではないと。だがこの考えにはひとつ落とし穴がある。おおげさに取り上げることが常套化すれば、もはや誰もそれを信用しなくなる。狼少年と同じだ。巨大地震や先頃の噴火の前に何の注意の喚起もなかったことを思えば、地震学者や気象学者は全く気楽な商売だ。古代ならすぐに打ち首になっていた。それほどに責任が問われたが、今は予想出来ないのが当然、外れても仕方ないで済む。研究費をドブに捨てているも同じで、地震学者や気象学者は恥を知らない。それもさておき、台風のニュース映像の中に人がひとりもいないJR大阪駅の構内が何度も写った。百貨店は午後3時でどこも閉店で、台風に備えて万全の態勢であった。在来線は1路線を除いて全部運行中止となったが、それほどの風が吹いておらず、雨もさほどでもない。JRも百貨店もかわいそうに売り上げが大分損した。それを天気予報屋に請求すればいい。それはそうと、「在来線」とは何かと家内と顔を見合わせて言った。漢字としては「以前からある線路」との意味であるから、改めて考えると首をひねる。どの路線もかなり古くからあるから、どれが在来線なのかよくわからない。ニュースを見ていると、新幹線以外のすべての線路であることはわかったが、リニア新幹線が開通すると、今の新幹線も在来線になるのか。「新」がついているからにはそうはならない。今の新幹線が在来線の扱いを受けるには、「在来幹線」と呼ばれなければならない。それはわかりにくいので、「在来新幹線」か。これもややこしい。話を少し戻して、昼間のJR大阪駅構内に駅員以外誰もいない光景はきわめて珍しい。いや、今までにほとんどなかったであろう。台風ひとつで異様な光景が出現する。それほどに今年は防災に敏感な年で、来年以降は防災グッズ業者が大儲けするだろう。街中をヘルメットを被って歩くファッションが流行するかもしれない。そうなると警察や公安はデモが始まると考えて横やりを入れる。そこでヘルメットをファッションではなく被る人たちが集結して本当のデモが起こり、ファッションで被る人と区別がつかず、街中は騒乱状態になる。当然TV局のリポーターもヘルメットを被るから、ヘルメット業者はウハウハ喜ぶ。喜び過ぎて転んでヘルメット集団に踏みつけられ、そこで腹を防御する腹ヘルを発明すればもっと儲かることを直感し、踏み続けられる腹を押さえ、意識が磨りガラスのようにぼやけて来る中、その形は剣道の胴着をどう改良すべきかなどと考える。
昨日は1年もっと前に見た展覧会を取り上げたが、展覧会の感想はほとんど書かなかった。会場にはきかんしゃトーマスのTVシリーズに使われた模型を展示した大きなガラスケースがあった。その模型はどのように接近して撮影すれば、TV画面では大きく見えるのかと思ったほどに小さかった。カメラを通すと実物の大きさがわかりにくい。クローズアップしても粗が見えないほどに精密に模型を作ればいいだけの話だろうが、最もよい適度な大きさがあるのだろう。だがそれは今のデジタル放送ではどうだろう。微細な粗でもくっきり見えてしまうから、模型ではなくコンピュータ・グラフィックスに頼る方が手っ取り早い。だがそこまで行き着くとわずかに見えていた粗すなわち人間の手技がなくなり、温かみが失せるだろう。それはきかんしゃトーマスの物語からすれば認められないのではないか。何しろ時代物の汽車が主人公だ。それでコンピュータ・グラフィックスを使うとしても、粗をわざと添える必要が出て来る。それならば最初から模型を作って撮影すればいいが、手間がかかり過ぎてかえって高くつく時代になっているのではないか。汽車の先頭に人間の顔をくっつけたキャラクターであるから、最初から漫画的で、またそうであれば立体模型を撮影せずに、日本のアニメのようにセル画で表現すればいいようなものだが、何でも自在に描けてしまうそういうアニメでは実在感が乏しい。それでセル画アニメの主人公たちはよく立体で表現され、それが時に着ぐるみの「ゆるキャラ」になることによってさらにアニメの人気が増す。つまり、誰しも立体が見たいのだ。きかんしゃトーマスはそこを心得てTVシリーズが作られた。それを見慣れている子どもは昨日載せた最後の写真の実物大のトーマスに歓声を上げるだろう。元は絵本の挿絵でいわば絵空事であったものが、目の前に立体として現われる。今はそれがブームのようで、「実写版」の映画がよく作られる。そう言えばこのブログの最上段の黒字の帯に描かれる金色の「マニマン」というキャラクターは漢字の「黒」をデザインしたもので、筆者はそれを考えたと同時にその立体も思い浮かべ、紙粘土でそれを作った。立体の漢字は以前に例があるが、動き回ることも可能な擬人化したキャラクター化の例は知らない。そういう筆者であるから、きかんしゃトーマスの展覧会も見に行くが、今日はそのトーマスつながりで思い出した写真を4枚載せる。京都駅でビニール製の実物大トーマスを見た頃、大阪駅で「トリックアート」と題する床貼りの大型シートに遭遇した。大阪駅とその周辺は変化の途上にあり、筆者のような世代は出かけても右往左往するだけで落ち着かないが、道頓堀のような繁華街とは違って未来的ないし高層のイメージが強く、またその分脆弱な印象がある。それを特に思わせるのが、大阪駅の真上にある広場的通路だ。そこはいつ行っても人の往来は多いが、あまりに広いので人影はまばらに見える。そのため殺風景で、味気ない。大阪駅や百貨店がそのことを実感しているのだろう。夏に行った時は今日の4枚の写真の大型画像が貼りつけられていた。コンピュータを使えば、こういう画像は簡単に作ることが出来るのだろう。定められたある場所に立てば、透視図法にしたがって組み立てられた絵が眼前に広がり、それが目の錯覚を誘う。この原理の素朴なものは道路上の白い「とまれ」や「通学路」の文字で、車に乗って見れば縦長が減じて見える。また、文字だけではなく、ブロックが路上に並んでいるように見えるものも大阪にはあって、トリックアートは日常の中にますます使われる傾向にある。そんな時代であるから、大阪ステーションシティと名づけられた建物の広い床のあちこちに人を楽しませる大きな写真が貼りつけられるのはあまり騒ぐほどのことでもないだろう。それでこれは無料で誰でも見られるようにされた。筆者が見かけた時は関心がなくて通り過ぎる人の方が多く、費用をかけた割りにそれが集客にどれほど貢献したかは疑わしい。せっかくであるので筆者は4点ともしかるべき指定された位置に立って写真を撮ったが、人をさほど写し込まず、また人の列に全く並ぶことなく撮影出来たほどに、日中の人の流れがさほどでもないのだろう。
トリックアート美術館が四半世紀前に大阪の港区にあった。海遊館の近くだ。それがいつの間にかなくなった。オープンして数年しか持たなかったように思う。館内は今日の4枚の写真の原理を使った小型の絵から壁画級のものまであって、またラファエロの絵をパロディにするなど、なかなかハイブラウで面白かった。そうしたトリックアートの源はヨーロッパの、しかもルネサンス絵画にある。そのことを再認識させる施設でもあり、美術館と呼ぶことはそれなりにふさわしかった。簡単に言えば「だまし絵」の美術館で、また歴史の残る有名なだまし絵を紹介するのではなく、その原理で笑いを誘いながらそれなりに技術がある人が描いた作品が展示されていた。だが、そうしたいわば中途半端なもので料金を取ることは一度が限界だろう。二度は楽しめない点で芸術ではなく、またそのような面白さはその後ネット時代が到来し、似た画像が氾濫するにつれて金を徴収することが難しくなった。だがいつの時代でもそういう楽しみは歓迎される。そのひとつが今日の4枚の写真の作品だ。トリックアート美術館にあった作品のように、ペンキで描く必要はもはやなく、写真の加工でより現実的すなわちより迫真的なだまし絵が製作出来る。昨日載せたアンパンマン列車は車体にキャラクターを印刷したシートが貼られているが、同じことは今では飛行機や自動車など、あらゆるところに見られる。磨りガラスでも粘着シートを貼ってそう見せるのであるから、今は粘着シート時代と呼んでもよい。それと昨日の4枚目のビニールで膨らんだ立体で、2,3か月前にどこかの城跡で、天守を同じように空気で膨らませるビニールで作って据え置いた映像がニュース番組で流れた。本物の天守の建築は夢であるから、せめて実物大に近いビニール製でかつての威容を再現したのだが、頭の中で思い浮かべるのとは違って眼前に大きな立体が出現することは迫力があって面白かった。ビニールでそのような大型のオブジェを作ることは玩具業界でも活発化し、これもTVで見たが、家庭用の子ども用プールが大型化して滑り台つきのものが売られている。そうしたものを1個ずつ特別に受注して製造する業者もあるようで、夢があって楽しい。空気を満杯にすればきわめて大型になるのに、それを抜けばぺしゃんこで折りたためる。こういう発想とまた製品化は日本が得意とする。さて、今日の写真のうち最初のものはトリックアートとしてのシート上に2名が入り込んだ。それがかえって面白い。上下2枚の別々の写真を合成したように見えながら、実際は床に大型写真が貼られていることがわかる。そのことを楽しむために設けられたもので、誰も人がいない状態よりも人が適当に入り込む方が、効果が発揮されてよい。その意味では2、3、4枚目はまるで台風到来の閉鎖時に撮影したようでさびしい。その後同じ場所を訪れていないので、現在はどうなっているのか知らない。別のトリックアートが貼り続けられると、この場所は名所になるが、あまりに人の足を止めるものであっては具合が悪く、またブラック・ユーモア的なものも駄目で、アイデアはすぐに枯渇するかもしれない。