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●『夢の超特急展-みんなの夢をのせて半世紀』その1
然とさせられる外国人観光客が多い日本のようで、新幹線のあまりの速さにプラットフォームで悲鳴を上げながら躍り上がっている人の映像をYOUTUBEで見たことがある。日本にいればあたりまえのことでも外国ではまだまだそうではないらしい。



●『夢の超特急展-みんなの夢をのせて半世紀』その1_d0053294_22551485.jpgその反対もあるが、外国人が日本の優れたところを誉めるTV番組は人気がありそうで、よく放送される。それだけ自信をなくしかけている日本ということか、あるいは素直に喜ぶべきということか、ま、そのどちらの思いも番組制作者にはあるだろう。今夜もそのような番組を少しだけ見た。イギリスとフランスから中年男性がふたり東京の地下鉄を視察に来て日本のやり方に驚くというものだ。車輛の車輪を検査する時、小さなハンマーでボルトの頭を叩く様子を見て、イギリスで長年地下鉄を運転している男性はSL時代の作業で、今ではイギリスではやらないと言った。ボルトが緩むなど考えられないからだ。つまり、無駄な作業はしない。そんなことを作業員に強制すると怒るとも言っていた。だが、日本の作業員は100パーセントの安全を考えてハンマー叩きで異常音を察知することは今後もやめないと語った。ボルトが緩むことは万にひとつの可能性もないが、億にひとつの可能性はないとは言い切れない。そう考えると、無駄な検査と思えることでもやっておくに越したことはない。そのようにJRでは作業を徹底している。そういう完璧主義のために電車を秒単位で駅間を走らせ得る。人間の技術を機械以上の正確さに保ったままにしようということで、それほどの完璧さを追求すれば事故も限りなく減るという考えだ。それは外国人には確かに驚異であろう。だが、彼らは日本にいる間は驚きながら、本国に戻ると自国流にまた戻る。そのことでイギリスやフランスの地下鉄が日本以上に事故が多いかとなると、話は少し違うような気がする。筆者が思い出すのは信楽高原鉄道の事故や、尼崎で起こった脱線事故だ。後者は秒単位の正確さで電車を次の駅に走らせるという決まりのあまり、運転手が遅れを取り戻そうとして規定よりかなり速く列車を走らせてしまった。人間は訓練によって機械以上の正確な行動が出来るようになる。江戸時代の職人や画家がそうであった。ひとつのことに集中し、訓練を重ねると誰でもそういう能力を獲得出来る。話は変わるが、筆者が中学生の時か、「ワンマン」と書かれた市バスが急増した。それが年を追うごとに運転手に課せられた作業が多くなった。ドアの開閉や券の販売、次のバス停を告知するテープを再生するなど、運転手は両手両足と両眼両耳をフルに使うことを強制され、もはやロボットと言ってよかった。実際ロボットのような正確さを求められることはその後も減ることはなく、増える一方であることは今夜の番組からわかった。東京の地下鉄の運転手はシミュレーターを使って徹底的に癖を直すことが求められると同時に事故のない安全運転の極地の技術を身につけることを求められる。筆者はそれを見ながら地下鉄の運転手にはなれず、またなりたくないと思った。同じような職人的技術をほかの面で活かしたい。ロボットのように正確な技術が求められるのであれば、他の誰かでもよいはずで、地下鉄の運転手はその技術において個性を持つことは許されない。そして自分がいなくても他の誰かが自分と同じように教育され、同じ技術を獲得する。つまり、代わりは無限にいる。そういう事実を知ることはつらい。これが絵を描くとか、詩を書くとか、作曲するとなると、人の顔がどれも違うように、作者はいやでも個性を作品に刻印する。イギリスとフランスからやって来た東京の地下鉄の見学者も安全運転を求められているから、日本の運転手と同じようにロボットのような作業をしていると言えそうだが、2,3秒の差を問われるような運転は強いられない。
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 尼崎の事故では運転手の顔が日本中に晒された。死んだ状態で発見されていたそうだが、それを聞いて筆者は何となくほっとした。彼が生きていれば世間はどれほど悪行と罵ったであろう。死刑にしても足りないと言う人もあったかもしれない。だが運転手には両親がいるし、両親の申し訳ない気持ちを想像するとあまりに憐れだ。たくさんの人が死んだので、運転手が悪いのは確かとしても、運転手だけが悪いと言えばこれは大きな間違いではないか。列車の整備士たちは完璧な仕事をしていたろうが、完璧の合言葉が昂じてダイヤがこれ以上は過密にするのは無理というほどに秒の時間に縛りつけられた運転をしなければならなかった。ところが、車両から出入りする客は誰もそんなことはおかまいなしだ。自分たちが多少のろのろと下車、あるいは乗車しようが、運転手の技術によって次の駅への遅れは取り戻せると思っている。またそれをあたりまえのようにこなすのが運転手の役目で、それが出来ないのならロボットに運転させろと言う人も多いだろう。尼崎の事故ではその遅れが取り戻せないほどに大きかった。それで速度を上げるしかない。そのような切羽詰まった状態に置かれた運転手の焦りを想像すると悲しい。彼でなくても同じダイヤならいつか誰かが同じような事故を起こしていたのではないか。だが、その事故以来何がどう改善されたのか知らないが、今夜の番組を見る限り、運転手はさらにロボットになることを訓練される。速度計を目隠しして運転させ、今時速何キロで走っているかを当てさせる訓練があって、運転手は見事に45キロと答えていたが、それはトンネルの中の照明が20メートル間隔で取りつけられていて、それが後方に消えて行く速度を目視することで電車の速度がわかると言う。見事な職人と言うべきだ。だが、運転手に求められるのはそれだけではない。その100倍200倍もの量の注意事項があって、それら全部に正確に対応する必要がある。ワンマンバスの運転手にしても同じようなものだ。それほどに訓練されているのに事故が起きる。訓練しなければもっと起きるという考えだが、さてどうだろう。ロボットのような運転手は限界がある。人間であるからだ。それでいつか日本のバスや地下鉄はロボットに運転させる時代が来る。それはあまり遅くはならないはずで、2,30年後にはそうなっているだろう。人間は間違いを犯す存在で、それは締めつけられるほどにそうだ。ロボット的技術を数十年も保つことはまず不可能だ。その前に人間は壊れる。精神的にだ。その例が尼崎の事故だ。だが、今夜の番組で紹介されたように、東京の地下鉄は短い時間帯に集る万単位の人を運ばねばならず、2,3分置きに電車を走らせねばならない。そのことによって運転手は1,2秒の遅れもないほどの運転をする必要がある。そしてそのような運転は100パーセント安全な整備や点検で支える必要がある。ということは、問題は地下鉄のダイヤにあるのではなく、そういう過密ダイヤにする必要のある日本のサラリーマンの勤務の仕方にある。問題は複雑に絡んでいて、電車だけではどうにもならない。また、あらゆるものが絡み合って秒単位の電車の走りを強制している日本は、国全体がロボットのような正確さを求めて来たためとも言える。その果てに経済の反映を享受し、イギリスやフランス風のどこか余裕のあるおおざっぱな働き具合にすることは出来ない。イギリスやフランスに呆気に取られながらも日本は今のやり方を改めず、ますます人間をロボットのように扱って行くはずだが、そのことで豊かな経済力を保っているとすれば、それはあたりまえのことで、筆者には驚きも感心もない。そして、そんな日本に幻滅を感じる若い人は増えているのではないか。ロボットのような地下鉄やバス運転手になれないというより、なりたくない人はではほかにどのような素敵な仕事があるかと言えば、ブラックな企業に飼い捨てられる現実が立ちはだかり、生きていても楽しくないと思うだろう。まともな神経のある人ほど生きにくい。
●『夢の超特急展-みんなの夢をのせて半世紀』その1_d0053294_18065181.jpg
 さて、8月30日は和歌山城に行き、帰りは難波の高島屋で本展を見た。ついでだ。筆者はほとんど新幹線に興味がない。電車列車汽車を撮影する大人も子どもも多いが、筆者はその趣味がない。というより理解出来ない。そうであればなぜ本展を見たか。運転開始から半世紀という新幹線は筆者の中学生を時代をまざまざと思い出させるからだ。東海道新幹線の開通は1964年10月1日で、当日は筆者は中学校で運動会があった。その日は記念切手が発売され、学校帰りに学校近くのたばこ屋で1シート買った。たばこ屋は切手も販売していた。そのシートは今も持っている。新幹線の先頭車両が描かれた切手のデザインは、当時は大味で面白みに欠けるかなと多少思ったが、60年代半ばの空気を実によく表現していて、それ以上のデザインは無理であった。その後も新幹線の開通とともに記念切手は発売されたが、東海道新幹線の10円切手は単純なデザインが力強く、以降のものを圧倒している。その切手は以前の投稿で紹介したことがある。「姫路と商店街」の最初の写真で、姫路城の10円切手の真下だ。そう言えば同じ1964年は姫路城の修理が完成した年で、それが今年また修理が終わったので、50年に一度は姫路城を修理することに今後もなるだろう。そして新幹線は本展によって回顧され、今後の発展が期待されるが、敗戦から20年、高度成長期に実現した東京オリンピックと新幹線は対で取り上げられるほどに日本の大成功の象徴となっている。それと比肩するほどの栄光を日本はその後味わったとは言い難い。万博は大阪の祭りで、オリンピックほどには感激がなかったように思う。とにかくオリンピックの華々しさは当時の少年を夢中にし、世の中が明るいものと思わせるに充分であった。そういう感動を持つ筆者のような大人が本展を企画したのではないだろうか。それはオリンピックや新幹線の開通を知らない世代への自慢が大きく混じっているが、自慢していいだけのエネルギーが当時の日本にはあった。それは本展を見る少年も理解するだろう。本展について書くべきことは少ないと言いながら、今日は「その1」としたのは載せるべき写真がたくさんあるからだが、撮影自由であった本展会場で撮ったものばかりではない。今日は本展のチケット画像に続いて今年4月に道後温泉を訪れる際に車窓から撮った新幹線の生みの親である十河(そごう)信二が生まれた新居浜の西条にある伊予西条駅プラットフォームの写真を載せる。最初の写真は右端に十河の銅像が見えている。十河が生んだ新幹線の0型車両が建物の中に展示されているようで、鉄道ファンにとっては聖地だろう。3枚目の写真は本展の会場内で、0型を初め、その後の車両の模型が並んでいる。十河については現在ドラマが放送されるなど、今年は一気に知名度が上がった。新幹線が走って50年にしてようやく本当の偉人の扱いだ。明治人の気骨を持ち、彼なくしては新幹線の実現はなかったか、もっと遅れた。先を見越した大きな賭けであったと言えるかもしれないが、新幹線の構想は20世紀に入って間もなく浮上し、それが戦争で中断されたのであって、そういう長く伏線があったからこそ、戦後20年で実現した。「夢の超特急」は戦後に登場したものではなく、そのことは親から買ってもらった絵本や少年サンデーなどの漫画週刊誌で知っていた。「夢の超特急」と言う言葉の響きがとてもロマンティックで、当時の小学生は誰でもその言葉に酔った。戦前は「弾丸列車」と呼ばれて計画されていたことも少年時に知ったが、その言葉もまたとても恰好よく聞こえた。当時の少年漫画は戦争ものを含み、また戦闘機や戦車のイラストが多かったからだ。機械ものに関心を持つのは男子と決まっていて、その代表が戦艦や戦闘機、そして拳銃で、その後に「夢の超特急」が続いた。殺人にまつわる戦争の道具に「弾丸」が含まれ、その言葉を持つ「弾丸列車」すなわち「夢の超特急」「新幹線」は少年の憧れとなった。
●『夢の超特急展-みんなの夢をのせて半世紀』その1_d0053294_225756.jpg

by uuuzen | 2014-10-11 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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