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●和歌山城、その5
と言えば京都の青蓮院を思い出すが、和歌山城の北西角に天然記念物となっているものがあるらしい。国か県か市のいずれが指定しているのか知らないが、北西加須の大手御門の内側に立っていて、今調べると樹齢450年で県の天然記念物だ。



●和歌山城、その5_d0053294_23365410.jpg
ネット上の画像を見ると青蓮院の3,4本あるものより貫禄がある。「その2」の2枚目の写真の「城内案内図」に記した赤い線からわかるように、筆者らは和歌山城内の西半分を縦断しただけで、大手御門までは行かなかったし、広い東堀も見ていない。「城内案内図」の天守から赤いCの文字に連なる道筋を歩いて撮った写真を今日は4枚載せ、そしてようやく和歌山城についての投稿を終えるが、10数年前に訪れた時は城内の北半分を歩かず、追廻門から入って天守に至り、帰りは表坂に至って岡口門から出たと思う。それで今日載せる写真の風景は初めて見るもので、和歌山城の全域を見るにはその気になって数時間を要する必要があることがわかった。城内の北西は庭が見物で、また木造の「御橋廊下」という建物がある。今日の最初の写真がその内部だ。この廊下は天守からも見えていた。ネットで調べると復元竣工は2006年で、前回に訪れた時には存在しなかった。和歌山城はほかにも復元出来る建物があるが、費用の問題のほかに復元した方がよいという意見が多くなければならない。それを誰が決めるかだが、「御橋廊下」の場合はどうであったのだろう。また、これが出来る前は味気ない鉄製の橋が架かっていたのか、それとも橋がなかったのか。なくても別にかまわないようなものだが、池を一周出来るようになったので便利だ。それに靴を脱いで歩き、また傾斜がかなりあるので子どもたちは遊園地に行った気分になれるだろう。本丸や二の丸を復元するよりかは来場者に歓迎されるものと思える。それが理由でもないだろうが、復元には反対はなかったのではないか。橋を建物で囲うのはアメリカにも例があってクリント・イーストウッドの映画『マディソン郡の橋』に登場する。「御橋廊下」は車が通る橋ではなく、人専用の廊下だが、外観は似ていなくもない。こうした橋にした理由は何だろう。二の丸に暮らす大奥の女性たちがキモノの裾をあまり汚さずに庭園との間を行き来出来るようにしたかったのだろうか。平安神宮の池にもよく似た橋があるが、それはこの「御橋廊下」のようにすっぽりと板で囲まれてしないし、また傾斜はない。珍しい形ということで、復元されるべき建物の最上位にあったのかもしれない。さて、和歌山城は天守閣しか内部を見ることが出来ないと書いたが、櫓とつながってわたり廊下(曲輪(くるわ))があり、それら全体は平面的には歪な長方形を成している。天守閣の最上層を見物した後は、玄関口にまた下りて来るが、入った時は違う場所に誘導され、曲輪をぐるりとほぼ一周する。その壁面には、復元されたものかそれとも江戸時代のものなのか知らないが、ガラスを嵌めた障壁画が多少展示され、また日本全国の城の写真が順に貼られ、江戸時代の道具などの展示もある。窓が小さいので薄暗いが、かえって江戸時代もこうであったのかという気分になれる。城内は原則的に一方通行だが、筆者らはそそっかしくて通常とは逆に歩んだ。楠門に通じる最初に入った玄関が見える場所に来たところで、大勢の中国人が前からやって来たので、圧倒された形で彼らと一緒になってまた一周して建物の外に出た。
●和歌山城、その5_d0053294_23362730.jpg 楠門を出ると新裏坂とは反対方向すなわち東へ歩いて売店前の広場を横切り、そして石段を下りた。その真正面の空き地が本丸跡で、それを復元すれば新たな県立美術館となったと思うが、同館が所蔵するフランク・ステラなどの大画面の絵画を飾ることは難しい。もはや現在の美術は江戸時代の建物には間に合わない。それで外観のみ木造にし、内部は現代風にしてもいいではないかという考えが頭をもたげる。そういう柔軟な考えで日本風ないし和歌山らしさを出せば、かえって外国人観光客は喜ぶのではないか。だが、現在の県立美術館の作品所蔵数からして、その保管庫が問題になるとの意見が出るだろう。そこでしつこく食い下がると、二の丸も復元し、そこも使えば現在の県立美術館と同じような展示面積は確保出来るのではないか。なぜこんなことを書くかと言えば、先日書いたように、ネット・オークションでは戦前の和歌山城の写真を使った古い絵はがきが何枚も出品されていて、それらに混じって天守から見た街並みの風景写真もある。それで驚くのは見事な日本建築の屋根の連なりで、フィレンツェに劣らぬほどにそれが美しい。木造建築は火に弱く、また地震や洪水が多い日本は耐久性のある建物が夢であったから、戦後は急速に鉄筋コンクリートの建物、そして高層建築が増えたが、それによって街の景観は統一からほど遠いものになった。政治家は一番大事なのは個人の命で、次は財産という謳い文句で現在の都市を肯定するとしても、街の美しさがなくなればそれは美意識全体に影響を及ぼすだろう。その結果、何度もこのブログに書くように、200年に一度の大雨という、何の根拠も住民の賛成もない考えを国は主張し、それによって嵐山を造り変えてしまおうとしている。日本ほどにコンクリート好きの国はない。きれいな自然や環境を優先するよりも、まず公共土木工事だ。そういう考えにおそらく戦後の日本の街並みが出鱈目に改造されて来たことがある。山は樹木が放ったらかしで、荒れるがままとなり、そのために大規模な山崩れも起こるが、樹木の使い道がないと嘆くのではなく、木をもっと使うことにすれば一般住宅もそれを見倣うのではないか。フィレンツェは数百年後に訪れても街並みは変わらないと言われる。日本は数百年経てば全部建物がそっくり建ち変わるはずだ。和歌山城が鉄筋コンクリートで復元されたのは戦争で焼け落ちたことが最大の理由だろう。爆撃されれば鉄筋コンクリートでもひとたまりもないが、まだ木造よりは破壊はましという考えがあったのだろう。それは仕方なかったこととして、本丸や二の丸の合った場所は平らに地均しされたままの状態で、江戸時代と全く同じ形は無理としても、似た建物は出来るのではないか。また図面があっても復元された建物が江戸時代のものとどう違うかは誰にもわからない。そこで外観は木造とし、内部は鉄筋で補強しながら現代風の空間にすれば日本でも目だった美術館になる。そういう発想はバブル期になかったのだろう。当時はいかに奇抜か斬新かが問題とされ、未来的な建物が各地に建った。そういう中で黒川紀章の設計が採用された。天守から見るその建物は悪くはないが、もっとほかにも方法があったのではないかと思う。
●和歌山城、その5_d0053294_23373093.jpg 昨日のTVで宮津城をパソコン画面上に7,8年要して復元している男性の紹介があった。60代半ばと思うが、自分でこつこつと作り上げ、今では本物を見るのとさほど変化ないほどのコンピュータ・グラフィックスの映像が完成した。その試みの発端は明治の絵はがきで、そこには城の門が写っている。その門は今はないが、男性はそれを映像で復元し、その門から入って城内部の敷地の周囲を眺められるようにした。映像の復元は門だけで、天守については平面図などの資料がないのか、あるいはあってもそこから立体をイメージするのは不可能なのか、更地の状態に見えていた。図面がないのであればだいたいの位置にだいたいの建物の映像を組み立てればいいと思うが、真面目そうなその男性はそういう出鱈目はしたくないのだろう。だが門ひとつでは絵はがきを見ているのと大差ない。城の専門書を読めばそこそこ宮津城がどういう規模の建物群であったかがわかるのではないか。それはさておき、60代半ばとおぼしきその男性が地元を愛する思いから執念によって宮津城の門を映像で復元しようとしたことが今の若手に受け継がれるだろうか。日本のどの街も似たものとなり、個性が消えたと言われる中、城は街を代表する目印の役割を担う。明治維新の際に壊されたたくさんの城は、日本が最も金を持っていたバブル期に復元出来たであろう。それをしなかったところに日本の街の景観に対する意識の低さがある。明治の和歌山の街並みは当時の京都や大阪と同じように瓦屋根がどこまでも続き、かえって現在の人たちは個性がないと言うかもしれない。だが、街並みに統一感がありながら、街ごとの個性があったはずだ。今は街並みの統一がどこにもない状態を前提にしての個性だ。それでは個性は見えにくい。話を戻す。本丸敷地前を右に進めば表坂に通じるがその途中で右手に動物園が見える。そして岡口門に至り、県立美術館前の三年坂通りに出る。筆者らは本丸跡を左に折れ、裏坂の石段を下りた。折り切った正面が二の丸跡で、今は何もない広場となり、ところどころに樹木が植えられる。二の丸跡前の左に折れて進むと右手に牡丹園があった。二の丸跡やその周囲はちょっとした植物園の機能を果たしているようだ。牡丹園の際を右に入ると御橋廊下に至る。これは一方通行ではなく、どちら側からも出入り可能だ。靴を脱いでそれをビニール袋に入れて廊下を進むが、坂なので滑り止めに40センチほどの間隔で突起となる横棒が打ちつけられている。それがなければ出口まで滑り台になっていいが、反対側から入った場合は上るのに困る。その橋を出ると池の畔で、西の丸庭園だ。紅葉渓庭園とも呼ばれるから、秋が見物だ。池は水の流れが悪いのか、水面の藻が泥の塊のようになって汚物に見えた。池は堀とつながっているから、何が原因かわからないが、これは興醒めだ。財政難で維持管理がうまく機能していないのかもしれない。さすがにそういう場所を避けて写真を撮ろうとした。池の畔を半周すると西端の砂の丸跡前に出て来る。そこは最初に入った追廻門の北だ。天守に向かう新裏坂に至るには追廻門を入ってすぐに砂の丸跡とは反対方向に進んだ。つまり、城内の西半分を見て北の出口から出た。そこは観光案内所や土産品ゼンターなどが並び、どれも昭和レトロの建物だ。土産は何が有名だろうか。そこで買わなくてもいいようなものだが、8月末で南海和歌山市駅ビルの高島屋は閉店したので、南海電鉄を利用して和歌山市を訪れる人はその土産店センターで買った方がよい。それほどに店というものが見当たらない市内だ。同センター前に観光バスの駐車場があり、2台のバスが停まっていて、中国人たちがちらほら乗り込んでいた。そこを出てすぐ左手に市役所前のバス停があり、そこでバスを待った。
●和歌山城、その5_d0053294_23365841.jpg

by uuuzen | 2014-10-10 23:59 | ●新・嵐山だより
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