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👽💚🐸🐛🍀📗🤢😱5月11日(土)、京都河原町三条下るLive House『DEWEY』にて👻『ザッパニモヲ 💐母の日LIVE』午後5時開場、6時開演。3500円👽筆者の語りあり。
●今回は初めての別会場での、そしてザッパ/マザーズの結成日である1964年の「母の日」から60年という節目における、ザッパニモヲの演奏です。チラシ画像はここ。恒例の手製のお土産をくじ引きで配布します。

●朝焼けの頃
鬱病が今もあるのかどうか、近年は鬱病という言葉をよく聞く。では躁病がないのかとなれば、これはいつもはしゃぎ回る子どものことで、たぶん躁病などという病気はないと思う。



躁鬱病は躁と鬱が交互に現われ、その落差が激しいと思うが、鬱病は躁がなくて鬱のみ目立つのかどうか、何となく躁鬱病より深刻な病のような感じがする。鬱病は自覚があるらしい。今日のTV番組でそのことを知った。何年か前に自殺したミュージシャンの加藤和彦がそうであったようだ。彼の自殺には驚いた。今日の番組を見てもそれは変わらなかったが、仲がよかった奥さんが死んでから生きる気力を失って行ったのだろう。張りを失うというか、鴛鴦夫婦であればなおさらそうだ。また彼の場合は経済的に成功して、自分のほしいものは何でも手に入れたが、夫婦揃って高齢になるまで暮らすということだけはかなわず、もう楽しいということがなくなってしまったのかもしれない。誰でも高齢になるとそうなりかねない。昨日書いたように、切れる高齢者は多いようだ。切れなくてもどうして時間を過ごせばいいかわからない老人は多いだろう。特に男がそうではないか、昨日御堂筋を横断した時、歩道の植え込みに2,3人の男が座っていた。待ち合わせではなく、前を通る人を見るでもなく見て暇潰しをしているといった感じだ。その中の70歳くらいの男性がふっと立ち上がったかと思うと、右手を水平に上げ、声を出さずにおぼつかない足取りで歩き始めた。数歩歩いたかと思うと立ち止まり、相変わらず前方の何かに訴えかけているようだ。一見して精神を病んでいるように見えた。周囲はもう暗く、いつまでそんなところで時間をつぶすのか、また帰る場所があるのだろうかと思った。そういう変な人をたまに見かけるが、女性も含む。そうした人は自分の行動を自覚しているのかそうでないのか。また他人に指摘されて自覚するようになるのだろうか。誰でもそれなりに癖のような行動があって、たまたまそれが何度も繰り返されて目立つだけなのかどうか。人間は心身で出来ていて、体の病気はわかりやすいが、心の病気はそうではない。それは自覚が難しいからでもあるだろう。加藤和彦が鬱を患っていて、ふとした拍子に死にたくなったのは、心の病であると自覚しながら、それに打ち勝つという気力が肝心なところで出なかった点で、心の病気は体のそれより怖い気がする。とはいえ、加藤和彦の奥さんのように、手の施しようのない癌も同じように恐ろしい病気だ。人間いつか死ぬとはいえ、癌や鬱にはなりたくない。そう言えば先ほど自治会の会計から電話があり、今朝自治会のある人が死んだと言った。詳細を筆者も会計も知らず、明日動こうということにした。亡くなった人は会計より数歳下で70歳そこそこらしいが、筆者は一度だけ遠くから顔を見たことがあるだけで、名前すら知らない。それでも文書係の筆者は明日には訃報の回覧文書を書き、また場合によっては通夜や葬式に出なければならない。ところが10分ほどしてまた会計から電話があった。亡くなった人は今春自治会を辞めたとのことだ。それで自治会からはお花代を出すこともせず、また回覧文書も作らない。それに自治会からの参列もない。ただし、個人的に交際のあった自治会に所属する人たちは明日は忙しいだろう。今は家族葬というのが流行っていて、自治会に所属する人でも自治会長らの参列を求めず、葬式を終えた後に家族が「亡くなりました」と会長に伝えに来ることが多い。自治会に所属していれば回覧文書で死んだことがわかるが、前述の人では大半の人は知らないままになるだろう。だが、もともと大半の人と交流がないから、誰もさして困ることはない。
 先日家内が随分たくさんの人が亡くなって行ったとぽつりと話した。そう言えばそうだ。家内は知らないが筆者が知っている人でおそらく何年か前に亡くなった人のことをたまに筆者は思い出す。そういう人の笑顔やまた声を思い出すと、さびしい。年齢の順に死んで行くとは限らず、まだ20代であったのに癌で死んで行った人もある。今思い出したが、阪急茨木市の駅から徒歩10分ほどのところに画廊があって、万博美術館からの帰り、そこで染色展をしていることに気づいて入ったことがある。個展ではなく、2,3人展であったと思う。ローケツ染めで、素人くさい作品ばかりであったが、出品者のひとりの高齢の女性と話をした。彼女の作品は目のつけどころが面白く、そのことを伝えると笑顔がもっと明るくなり、話が弾んだ。その後年賀状をもらうようになり、それが何年か続いた。その後は展示の機会がなかったが、染色は続けていたようだ。ある年、その御主人から奥さんが亡くなったことを知らせるはがきが届いた。画廊で話したのは15分ほどか。一期一会にしてはよく顔を覚えている。その画廊は今もあり、その前を通るたびに10年ほど前のその染色展や彼女のことを思い出す。筆者が死んだ時、そのことを何かの形で知って筆者のことを思い出す人があるだろうか。あったところで筆者にはわからないからどうでもいいが、ま、生前はせいぜい人に怨まれるようなことはしたくないものだ。話が暗くなっているが、今日はそんなことを書くつもりではなかった。「和歌山城、その2」を書こうと思いながら、どうも気分が乗らず、それで昨日の続きのようなことになった。老人が人生の夕焼けとすれば、数歳の子どもは朝焼けか。夕焼けは誰も見るのに、朝焼けはめったに見ることがない。そうであるから子どもを人生の朝焼けとたとえるのは具合がよくないのかそうでもないのか判断に苦しむが、これからどのような人生が待っているかわからない幼ない子どもはやはり朝焼けにたとえていいだろう。こうして書きながら、今日の写真を心配している。寝坊助の筆者は朝焼けの写真を撮ったことがない。これからもそうだろう。それではほかにどういう写真がいいかだが、昨日の夕焼けや夕日と対になる写真がない。それについては書き進みながら考えるとして、朝日のような子どもについて書く。2週間ほど前、大阪の国立国際美術館に行った。その帰りのことだ。同美術館は科学韓館と隣り合っている。その日はその科学館で特別の催しがあったのだろうか。いや、思い出した。両館の間には広場があって、その奥で大道芸人が2,30人を集めて芸を披露していた。それがちょうど終わったばかりで、道具類を片づけ始めていた。科学館を見に来たのか、たまたま通りかかって大道芸をみかけたのか、30代半ばから40歳くらいの夫婦とふたりの数歳の男児の家族が筆者のすぐ脇を通って帰路に着いた。奥さんは女の乳飲み子を前に抱えていて、5人家族だ。両親はさっさと歩いて行くのに、ふたりの男児ははしゃぎ回って両親の後を着いて行こうとせず、筆者の目の前で、兄が幅跳びの格好をして1メートルほど跳んだ。すぐに弟が兄の真似をするが、少し背が低いので、同じ場所に立って2秒ほど躊躇し、そして力いっぱいに跳んだ。そしてふたりは走って両親のもとに行ったが、筆者は立ち上がってふたりが跳んだ場所を確認した。そこは本来は花壇とすべき高さ60センチほどの煉瓦造りの細長い囲いで、土の代わりに那智黒石が敷き詰めてあった。ただし、その囲いの端から数十センチは水溜まりになっていて、蚊が湧くような泥水であった。兄弟はその水を飛び越えてその向こうの砂利に着地しようとしたのだ。一歩間違えば足をくじいて60センチほど下のコンクリートに倒れ込むから、子どもは無鉄砲だ。だが、自分の跳躍の能力を自覚していて、水溜まりを越すことが出来ると判断したのだ。弟が兄の成功に刺激され、同じ行動を繰り返したのは逞しい。これからも何度も兄の真似をするだろう。
●朝焼けの頃_d0053294_244190.jpg

 その家族が去った後、10分ほど筆者らはその付近にいた。美術館隣りの広い空地の端に、8チャンネルのTVのロゴマークをつけた空気でふくらました巨大なアラブの神殿のような建物があったからだ。そこで何をしているのか。家内はサーカスだろうと言った。見ていると、数人の子どもが走って中に入って行く。誰でも入ることが出来るのか、あるいは入場券がいるのか。確かめたいと思いながら、駐車場の前の道を通って帰ることにした。信号待ちの際、小さな立て看板が目に入った。レストランが営業している。それだけにしては巨大過ぎる臨時の施設だ。渡辺橋の近くに来た時、先ほどの親子連れを見かけた。幼ない子の歩みに合わせて歩いているので、筆者らの倍から3倍の時間がかかる。渡辺橋をわたろうとする時、筆者は家内に言った。「あの親子の後をつけよう」「変なこと言わんとき」。それでも筆者はほとんどそう決めた。梅田方面に行くようであるから、追跡する気がなくても姿はずっと目に入るだろう。だがそれには筆者らがいつもの倍から3倍は遅く歩かねばならない。家内がそのことに同意するはずがない。そう思っていたところ、彼らが信号をわたった途端、赤になり、筆者らは2分ほど待つことになった。彼らが北に向かって歩いて行く様子を見続けると、まるで楽しい動物一家だ。男の子は揃えの青緑色の半袖で、双子というには弟がわずかに小柄だ。たぶん年子だろう。ちょこまかと両親の後ろや前を歩き、小犬のようにかわいらしい。父は猪首で小太り、背は低く、顔が大きく眉が濃い。どこか漫画的だが、奥さんはすらりとした美人でまた賢そうだ。お似合いではないが、似合ってもいる。というのは、男性がいかにも真面目そうで、また父親の貫禄があった。筆者らが渡辺橋をようやくわたり始めた時、親子はすでに橋の向こうの信号をわたった。筆者らとの距離が開く一方で、もう蟻のように小さくなった。彼らはたぶん堂島地下センターを歩くと予想したが、そうではなく、地上をそのまま行くから蟻のように見えながらも姿を見失うことはない。以前書いたことがあるが、渡辺橋の上に立って待ち合わせた家内が向こうからやって来るのを待ったことがある。蟻のように小さな家内を見つけた時、その写真を撮った。ブログにそれを載せたことをその親子を見ながら思い出した。もっとも、家内は堂島地下センターを通ってその南端の出入り口から姿を見せたが、親子はそこよりもっと北にまで歩いている。それほどに信号を二度待つ間に人は動く。さて、ようやく信号が青に変わり、蟻親子を追いかけた。そのことを家内に悟られるのはまずいので、平静を装いながら、いつもの速度で歩いた。すると蟻がみるみるうちに大きくなって来る。何しろ筆者は彼らの3倍は速く歩く。ついに追いついた。桜橋交差点の少100メートルほど手前だ。自販機の前で男児ふたりが何かをせがんでいたからだ。まだ暑い頃で、喉も乾いたのだろう。彼らの脇を通り過ぎる時、筆者はもうこれで永遠に会わないなと思った。桜橋を北東にわたり、大阪駅前第1ビルに入った。筆者と家内が20代の頃、そのビルの食堂で何度か食事した。その店の場所は忘れたが、眼鏡をかけ、白衣を着たお運びの男性の顔や姿はよく覚えている。そのことを家内に言うと、家内も覚えている。「まだその人は生きているかな」「あの頃40代半ばとしたらもう80を越えているから死んだかも」。そして筆者はその頭の禿げたおとなしそうな男性がどのような老後を送ったかを想像した。人生は短いものだ。家内と何度か入ったその店は今はないが、ビルの内部は当時のままの空気だ。第1ビルの東に第2、第3と同じようなビルが続き、ビル内通路は途切れることなく、その両側に店舗が張りついている。それらの店は変化が激しいだろう。数年前はたくさんあった古本屋を見かけない。その代わりに喫茶店が増えたのではないか。家内は第2、第3ビル内を歩くのはほとんど初めてだ。窓がないので、時間がわからず、夢の中の光景を見つめている気になる。家内もそう思ったのか、早く出ようと急かせる。
 歩き疲れたのでどこかで休憩しようと思った。適当な喫茶店はいくつもあるが、どこも煙草の煙が見える。家内はそれを吸うのが大嫌いだ。禁煙席の多い喫茶店を探そうということになり、ついに筆者も初めて歩くところに達した。地上がどうなっているのか見当がつかない。喫茶店はHOLLY‘Sだ。京都にもいくつもあるチェーン店だ。満員で、通路に面したとこに陣取った。そこなら煙草の煙は届かないだろう。コーヒーを飲んでいると、突如先ほどの家族が筆者の前に現われた。彼らの後を着いて行くつもりでいたのに、彼らが筆者の後を着いて来た。5人は筆者の目の前を通り、店内に入ってソフトクリームを4個注文した。どこに座ったかは見えなかった。自販機でジュースを買ってもらえなかったのだろう。しっかり者の奥さんはもう少し歩けばソフトクリームを食べさせてあげると言ったのだろう。子どもは転がるようにして父親と一緒に混雑する店内に消え、すぐに父親がカウンターで注文している奥さんのもとに来た。ふたりで注文したものを席に運ぼうというのだ。筆者はとても愉快であった。永遠の別れと思っていたのに、20分ほどしてまた出会った。広くて迷路のような第1,2,3ビルの内部を同じように歩いて同じ喫茶店に辿り着くとは縁があるではないか。筆者らがコーヒーを飲み終わろうという時、父がふたりの男児を左右の手でつないで店を出てきょろきょろし始めた。筆者から3メートルもない。トイレを探していたのだ。筆者の前方へと姿が消え、その1,2分後に赤ちゃんを抱っこした奥さんが店を出て、夫と子どもがどっちへ行ったかを目で探し始め、そして筆者の目の前で立ったままとなった。間もなく父と男児ふたりは戻って来て家族は合流、そして筆者の後方へと去った。それから5分ほどして筆者らも席を離れ、彼らが歩んだ方向に向かった。店を出て気づいたが、頭上に方向指示板がある。地下鉄谷町線の東梅田方面に彼らは歩んだ。そして喫茶店からほんの20メートルかそこらで見覚えのある通路に出てまた驚いた。そこは東梅田駅の改札口で、その横を通り過ぎてビル内の階段を上がって地上に出ると、昔旭屋書店のあった近くだ。阪急梅田駅から南に直進すると東梅田駅の改札の前に出て来る。そこで地上に出てさらに南下すると淀屋橋で、中之島図書館に行く時には必ずその東梅田駅改札横を通る。改札は南に向かって左手にあり、また地上に出る時も筆者は必ず左手のビル内の階段を利用する。そして右手にもビルがあり通路が見えるが、そこを進むとどうなるかは長年知らなかった。それが科学館の横で見かけた親子連れを意識したことによってひょんなことでわかった。第3ビルの東端は東梅田駅に接しているのだ。あたりまえと言えばそうだが、西梅田から第1,2,3ビル内を通って東梅田に出たのは初めてのことだ。親子連れはきっと谷町線を利用して帰路に着いた。大阪のどこに住んでいるのやら。夫婦の顔は覚えているので、どこかで出会えばわかるが、子どもは成長が早い。その子らが20歳になった時、筆者はもういないかもしれない。彼ら5人家族が健やかに暮らしてほしいものだ。今日の写真は当日渡辺橋の上から南を向いて撮った。これから朝日新聞社ビルが建設される。以前のレトロなビルがいつの間に解体されたのだろう。
by uuuzen | 2014-10-05 23:59 | ●新・嵐山だより
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