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●似たもの同士
侶は長年連れ添うと似た者同士になるのだろうか。さきほど家内が筆者のことを、何を考えているのか昔からよくわからないと思っていたが今もそうだと言った。これは家内に隠し事があるのだろうという意味だ。そのことが気になるらしい。



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たいていのことはブログに書いているから、それを読めば筆者が現在何をどう思っているかはおおよそわかるはずだが、家内は読む気が起こらないらしい。今日ネットで読んだことの中に、老いて来ると駄洒落が多く、またくどく説明するようになり、しかもセクハラ同然のことをよく口にするようになるらしい。筆者はどれも当てはまっているので苦笑したが、このブログもよくもまあ毎晩どうでもいいことをくどくど書き、丸っきりの老人を示している。だが、老人が老人らしくあるのは自然なことだ。駄洒落もくどい説明も卑猥な発言も「さびしい」というのが理由らしく、そのさびしさを若者はなかなかわからないだろう。誰でもさびしさはあるが、老齢に達した時のそれは若い頃のそれとはかなり違うのではないか。先日のNHKのTV番組で立花隆が死ぬ瞬間に人間は何を感じるかについてあちこちに赴いて意見を聞く番組があった。予想したとおり、これが真実であると言える意見はなく、誰もが死ぬ直前にならねばどういう世界を見るかわからない。家内の母は死ぬ間際に病院のベッドの上で目を剥いてものすごい形相をしたそうだ。死への抵抗に見えたと家内は言う。その見たこともない顔つきが、ふっと朗らかなものに変わった途端、死が訪れた。それは立花隆の死ぬ瞬間の研究には大いに役立つのではないか。つまり、死の瞬間に誰もが平和で美しい花畑のような景色を見る。そのように人間の遺伝子が設計されているという意見もあり、立花はその意見に賛成しているようだ。死は誰にとっても恐怖だが、後戻り出来ない生から死への変わり目に平和な景色を見て心が和むのは人間にとって最期の神から与えられた愉悦で、そのことで人生を思い残すこともなくなるのだろう。だが、そのことが生きている者に確実にわかるようになれば、死への興味を抱く者が急増するだろう。快感を好む人間は絶えず究極のそれを求めている。そしてそれが生から死への交代時に味わえるとなると、死を待つことが我慢出来ずに急いで死にたがる者が出て来るに決まっている。そのように考えると立花の興味ないし研究はかなりアホらしい。永遠にわかるはずがない。そしてわからないことは人間にとって幸福なのだ。それは精いっぱい生きている間は生きろということで、死んでみなければ味わえないことがあるのはそれはそれで待てば必ず誰もが味わえるのであるから先を急ぐこともない。一方で臨死体験を語る人があるが、死のぎりぎりまで行くということはあり得る話で、死の間際に作動する楽園のイメージが眼前に広がる仕組みが何らかの形で多少動くのだろう。植物学者や気象学者ならその死の間際の楽園のイメージを具体的に知りたいと思うが、誰もが共通したイメージが浮かぶかと言えばそれはわからないが、昨日書いたスズキコージの展覧会の題名ではないが、原始の力が大きいだろう。ヒトがいつ猿から明確に分かれたか知らないが、猿でもヒトと同じように落ち着く環境があるだろう。危険がなく、よい香りが漂い、色鮮やかな世界だ。それは花畑ということになる。植物学者ならその花を見て同定したがるが、おそらく誰も見たことのない太古の花畑で、それが人間の奥深くに記憶され、遺伝子がそのイメージを今に伝え続け、死の間際に想起させる。話は変わるが、昨日のTVニュースで熊が今年は大変な餌不足で、人の住む地域によく出て来ているらしい。熊の子はとてもかわいらしい。それが、あるいはその親が人間に捕まって殺されると思うと悲しい。熊も餌が豊富に山中にあれば人里に下りては来ない。熊にとって木の実が豊富にある山中は楽園に思えるだろう。人間が死の間際に見るイメージもそのようなもので、そう考えると人間は熊より随分不幸と言える。熊は生きている間、楽園のような山中で暮らすからだ。だが、気候変動によって木の実が激減する年がある。やはり熊にとっての現実も、人間同様に楽園ばかりとは限らない。となればせめて人間は熊のように家族を持ち、仲よく暮らすことだ。それが地上の楽園ではないか。
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 話を戻して、立花隆はもう死まで数年かという年齢に達して感じることがあると語っていた。一言すれば「さびしさ」ではないだろうか。それで20年ほど前から気になっていた臨死体験や死の間際に見えるイメージについてもう一度考えるようになった。それほどに死が切実なものになって来たのだろう。だが、求める答えがわかったとすれば、もっとさびしくなるのではないか。あるいはより詳しく知りたがるかだが、どっち道死ぬ時にわかるのであればそれまで待てばいいではないか。それがそうでないのは、知り得たことを他者に伝えたいからだが、誰もがいつか経験するのであれば、そのことにどれほどの意味があるだろうか。穿った見方をすれば、生きている間は誰も知り得ないことを知ってそのことで自分の名を現世に留めたり、また金儲けしたいのかもしれない。そのように考えさせもするところ、臨死体験の話など全く下衆なことであり、臨死体験したという人の話は「ああ、そうですか」と聞き流すのがよい。話はまた変わるが、立花隆は10年ほど前からかなり腹が出っ張ってそうとう運動不足に見える。また奥さんがいるのかいないのか、どうもいないような感じがする。そのことはどうでもいいが、伴侶がないとなれば気楽に行動出来る。スズキコージが神戸に転居したのも同じ理由ではないかと思ったりもする。60歳くらいに住み慣れた地域から遠く離れたところに移住するのは大きな覚悟が必要だろう。上田秋成も60歳で大坂から京都に移住したが、それは奥さんが京都人であったからでもある。その奥さんは50いくつで急死してしまい、秋成はさびしさを噛みしめながらその後の長い晩年を暮らす。よく出来た奥さんであったようで、秋成のようには肖像は残っていないが、美人であった気がする。子どもはいなかったが、それもまたよかった、あるいはよしと考えるしかなかった。子どもがいれば秋成に似た大人になったであろうか。それはわからない。夫婦で似た者同士になることはよくあるが、親子で似るかと言えば一概にそうも言えない。それは遺伝子よりも時代や環境で人間が大きく変わることを示している。さて、以上が前置きだ。今日は先月27日に日帰りで行った姫路への往復で思ったことを書く。いろいろ思った中で一番記憶に残っているのは、舞子近くになると瀬戸内海が見え始め、車窓から見える景色が四国の松山へ行った時の車窓からの景色に似ていることだ。どちらも瀬戸内海に面しているので当然のことだろう。温かい陽射しは瀬戸内海沿いの北も南も同じだ。それで次に思うことは、瀬戸内海と地中海が似ているのではないかということだ。地中海には行ったことがないのでわからないが、たとえばイタリアの南部の明るさは瀬戸内海に面する地域のそれに似ている気がする。スズキコージが神戸に住む気になったのは、静岡の生まれ育ちで、同じく海に近いことが理由としてあるかもしれない。つまり似たもの同士だ。人間は似たものを求める。そして似たものを集めて分類することも好む。筆者のこのブログもそうだ。似たものをカテゴライズし、しかも同じカテゴリーの中でもいくつかの似たものをシリーズ化している。それで今日は何について投稿しようかと悩みながら、姫路への往復の電車の中で家内相手に車窓から見える景色がどことなしに四国の瀬戸内海沿いを走る電車の窓からの景色と似ていると話したことを思い出し、今月3日から断続的に投稿し続けて来た姫路での思い出の締めくくりをすることに決めた。それで最初の写真は帰りの電車で撮ったもので、空を黒い雨雲が覆っている。姫路駅で大雨が降ったことは先日書いた。それはいいとして、写真に写る景色は本意ではない。似てはいるが、もっとクレーンが多い景色を朝は車窓から眺めながらシャッター・チャンスを逃した。なぜクレーンが林立する光景を撮りたかったか。それは2枚目の写真で説明出来る。それは松山から帰りの電車の中で撮った。新居浜辺りであったように思う。港が近いか、工場地帯なのだろう。写真と似た場所が3か所ほどあった。1枚目と2枚目とでは似たもの同士とは言えないが、2枚目を想起させる景色が山陽にもあるということだ。
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 3枚目は松山市に向かう電車の中から撮った。5枚ほど同じように撮り、そのうち最も空と海以外何も写らないものを選んで加工した。海と空をちょうど上下に二分する形で、これは以前にも同じ形式の写真を何度か載せたが、杉本博司の写真を真似している。右端に白く小さく船が写っているが、そのことで筆者には瀬戸内海であると記憶出来る。瀬戸内海が地中海と似ているかどうかを示すために4枚目を載せる。これは映画『イル・ポスティーノ』の画面を撮影し、加工した。波荒く空に雲が浮かぶが、この写真からイタリアの海だとわかる人はいないだろう。では海はどこも同じかと言えば、似ている場合があっても全く同じということはない。そしていろいろあるのが楽しくてよい。似ていながらどれも違う。筆者はそういうものを探すことに関心がある。似ているものをつなげて行ってたくさん集めると、最初と最後とでは全然似ていないということにもなるだろうが、それもまた面白い。こうして書きながら思っていることは、どれほど違えば似ているものがそうとは思えなくなるかだ。先日のTVで顔中に髭を生やした若い父親が1歳にならない子どもを膝に乗せてあやしていた。その子は父親が大好きできゃっきゃと声を上げてはしゃぐ。そうしておいて父親はすぐに髭を剃ってその顔を隠し、また子どもを膝に乗せて顔の覆いを取ると、子どもは初めて見る髭なし父親の顔に困惑し、大きな声を上げて泣き始めた。覆いを取った瞬間、子どもは2,3秒きょとんとしていたが、脳細胞が全力で働いて眼前の顔が父かどうかを判断していたのだろう。髭がないことにどうしても合点が行かず、それで拒否感を示したと見える。だが、その子どもは髭だけで父親を判断していたのではなく、目鼻や臭い、自分を扱う手触りなども記憶していたはずで、ただ髭だけがなくなっていたことに戸惑った。そのため、父親と認識しなかったのではなく、見慣れた髭が消えたことに驚いたのだろう。それはさておき、どこまで変わると当人かどうかわからなくなるかは研究のし甲斐があるテーマではないか。目鼻や口その他部分がかなり似ているのに顔全体の雰囲気はまるで違うという場合もあれば、各パーツはさほどでもないのに全体の雰囲気が似ているという場合もある。化粧する女は男以上にいくつもの印象を持ち、捉えどころがないと言えるが、顔以外の部分を併せた全体の雰囲気となるとやはり個性が誰にもある。芸能人はスタイルのよさや美人度を競うあまり、美容整形に走って顔その他をいじくり、老いるにしたがって手を入れた箇所がひどい状態になって来るが、そのことは手術によって肉体を造り変えても遺伝子によって決められた老化の仕組みが圧倒的に人生を通じて死ぬまで影響を及ぼし続けることを感じさせる。親から受け継いだ体で誰もが満足すべきであると言えば、いろいろ異論を言う人もあるが、筆者が好ましいと思う顔は努力し続けて体現して行くもので、生まれながらにして美人や男前でなければそういう顔つきになれないというのでは全くない。顔には生きて来た人生が集約されると自覚している人の顔はたいてい深みがあるものだ。そして誰しも好みの顔というものがあり、人間は海に住む魚と同じように住み分けている。したがって筆者が好み高く評価する男女の顔つきというものを全くそうとは思わない人もあるはずで、結局誰しも何かの点で似た者と親しくなって行く。似た点があり過ぎると喧嘩が多く、夫婦がすぐに離婚してしまうということにもなるから、伴侶はお互い何が似て何が似ていないかを自覚し、相手の神経を逆なでしないことに勤めるのがよい。ちょっとした言葉で相手が大きく傷つく場合があり、それは国家間でも同じことで、日本と中国、日本と韓国も似た者同士であるがゆえに今は感情が行き違っている。
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by uuuzen | 2014-09-27 23:59 | ●新・嵐山だより
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