肺の生体移植の話題を今朝のTVで見た。3歳になろうとする子どもに母親の肺を切り取り、それを5つに切ってそれぞれをしかるべき場所に移植手術するのだが、日本初のその手術は成功し、子どもがベッド上で微笑んでいた。
移植された肺は子どもの成長とともに大きくなるのかと思っていると、そうではないという。その子どもが大人になれば、また大きな肺を移植しなければならない。不便なことだが仕方がない。大人になるまで取りあえず小さな肺で命をつなぐ。大人になればなった時のことだ。そういう考えは必要だ。高価な買い物をした時は一生ものと思いがちだが、高齢になってからの買い物ならともかく、若い頃ではそう思っていても10年や20年経てば古くさく見え始めてまた新しいものがほしくなる。一生保つ物などまずない。あるとすれば肉体だが、それも加齢とともに古びて来る。それで若返りたいと思う人は昔から絶えない。長年生きていると、体のあちこちの具合がおかしくなるという話をよく聞く。今日は「風風の湯」に行って来たが、湯船に浸かっていると70代後半の老人が何人か目についた。後ろ姿はかなりやつれて筋肉が落ち、背中も曲がっている。筆者がそういう姿になるのに後10数年かと思うと、やはり加齢は面白くない。そしてこんなことも思った。10数年後の筆者は「風風の湯」で現在の筆者の年齢の男から、今日筆者が思ったのと同じことを思われる。そして、現在の筆者も筆者より若い人からは、筆者が70代後半の老人を見つめて感じるようなことを思われている。ま、加齢に伴う肉体の衰えはどうしようもないから、心だけは若く保ちたい。肺の話に戻る。先月の小学校での市民検診に10年ぶりくらいか、家内も一緒に出かけた。その結果が届いたのはいいが、家内の肺に影があった。早速詳しく診断してもらうように通知で、大きな病院に行ってCTスキャンを撮ってもらうと、さらに詳しい「ペットCT画像」が必要だと言われた。それを撮った結果が今朝わかった。肺癌や結核の可能性は低いらしいが、まだよくわからない。貧乏人はせめて健康でありたいのに、家内は定年退職した途端に肺に異常が見つかった。おまけに大腸も精査してもらうようにと別の診断結果も届いている。筆者は保険が嫌いで、癌や入院のための保険に入っていないから、たちまち医療費の心配をせねばならない。家内の母は70代半ばで死んだが、家内もせめて同じくらいの年齢まで生きたいと考えているが、先のことはわからない。ともかく、家内の肺については精密検査がまだ終わっておらず、今はあれこれ考えても仕方がない。数時間前のTVで、57歳の男性が昼と夜のアルバイトで生活費を稼ぎ、年収200万円ほどで生活が苦しく、高齢者になった時が不安だと語っていた。部屋の様子からして独身のようで、また筆者より年齢は上かと思うような深い皺の多い顔であった。それだけ苦労しているか、あるいはずっとアルバイト人生を続けて来た顔とは違っていたので、以前はそれなりにしっかりした会社に勤務していたところをリストラされて今の境遇になったのだろう。そう思いながら次のニュースでは年功序列を止めた会社の話題となり、その会社に勤める女性や男性が映った。みなしっかりとした顔つきで、たぶん筆者が思う年齢より5歳から10歳は若いだろう。業績のいい企業に勤務する人ほど顔つきがしっかりとしている。そのことを筆者は別段いいともわるいとも思わない。顔は環境に応じて正直に変わると思うだけだ。もっと言えば一流企業の会社員はみな同じ顔で、そのことは顔がないのと同じであると感じられる。あるのは会社としての顔だ。それでも当人たちはそれを誇りとしている。自分たちはエリートであり、誰もが同じ立場にはなれないという自信に裏打ちされている。一昨日家内が言うには、筆者はTVを見ていても、よく顔のことを口にするらしい。そして家内にこう答えた。「顔を見ればその人のほとんどのことがわかる」。
似たようなことを保険屋から昔聞いたことがある。人の顔や全身を数秒見ただけで、その人の年収がわかると言うのだ。人の不安で飯を食っている保険屋という商売柄、それは当然であろう。保険屋の前では誰もが簡単に値踏みされる。ただし、それは収入に限ってのことだ。保険屋とは何と下卑た商売かと思う。年収で人を判断し、それ以外は属性であってどうでもいいのだ。筆者とは全く考えが違う。筆者が言う人の顔とは、その顔がほかではほとんど見かけないタイプのものかどうかだ。いかにも一流企業に勤務している人の顔つきは、いくらでも例があって、興味の対象にならない。筆者が惚れ惚れするような顔は芸術の分野に多い。代わりがない、独創が芸術では重んじられるから、芸術家の顔はどれも個性が強い。保険屋の顔とは対極にある。ま、保険屋もさまざま、一流企業に勤務する人もそうであるし、芸術家もいろいろいるので、職業で顔つきが完全に色分け出来るものではないが、職業が顔つきに影響することは無視出来ない。断っておくが、保険屋や一流企業人の顔が芸術家より劣ると言いたいではない。筆者の関心がより大きいのはどの分野に多いかと言うのであって、芸術家があらゆる職業の最高とは思っていない。韓国ドラマの『コーヒープリンス1号店』を見ながら家内が先日言った。「絵描きやミュージシャンという人種、すなわち芸術家はみんないい加減な連中で、性にもだらしない」。筆者はそれを否定しなかった。すると家内は続けて、「あんたも同じや」と矛先を向けて来たのでこっちも開き直った。筆者は自分を芸術家とは思っていないが、会社員ではなく、また自営業と自称出来るほど、今までに営業活動をしたことがないし、また注文らしきものもない。では何者かと自問すると、家内が言うように「遊び人」が一番ふさわしいかもしれない。家内が筆者に言う頻度の高い言葉に、「最近表情が悪い」がある。面白くないことが多いからではなく、単に加齢によるものと思っているが、それにしても「いい顔」に憧れる筆者としてはぎくりとする言葉で、鏡を見る時間を増やして表情を自覚した方がいいかもしれない。前置きが長く、いっこうに本題に入らない。こうして書きながら思い浮かべているのは姫路市立美術館で開催された『聖コージの誘惑 スズキコージの絵本原始力展』において2メートルほど先で目が合ったスズキコージの顔だ。この展覧会はお盆を少し過ぎた頃にNHKのTVで紹介されていた。その時に見に行こうと決めた。それで姫路行きの計画を立て、書写山に登った後に美術館に行くことにした。TVではスズキコージの姿は映らなかったが、1週間に一度程度は会場で描くことがわかった。そのことを調べると、筆者らが姫路に出かけた8月27日はあいにく作家はやって来ないことがわかった。それでも展覧会はかなり大がかりなもののようで、その理由がTVの同展の紹介からわかった。スズキコージは静岡生まれで東京で描いていたが、近年神戸に引っ越したという。山と海が近く、同じような街は日本のどこにもないという理由で、神戸に住んで描く対象に困らなくなったそうだ。筆者はあまり旅行しないので、日本の地方都市についてはほとんど知らない。そのため、神戸に似た街がないと言われればそんなものかと思う。ひとつわかるのは、神戸と地勢がそっくりな街はあっても、神戸ほどの人口、そしてハイカラな歴史を持った街はないことだ。スズキコージはそのハイカラさにも関心を持ったのだろう。田舎度が過ぎれば退屈なのだ。それは東京で暮らしていたからで、筆者のように大阪市内で生まれ育った者も同じだ。その点、神戸は海あり山あり、都会もありで、比較的小さな街に多様なものがぎっしりと詰まっている。それはスズキコージの絵本の原画そっくりだ。大都会東京に疲れたというのではないだろうが、もう少しコンパクトな街並みがよく、しかも東京にない歴史や風土の神戸なら、今後の創作に新しい閃きをもたらすと考えたのだろう。すでに神戸市のポスターなどの仕事をしていて、神戸としてもスズキコージほどの知名度のある芸術家は大歓迎ということだろう。それでというわけではないかもしれないが、姫路市立美術館で大展覧会が開催されることになり、しかも本人の制作の様子を何日も見せるというサービスぶりだ。
ではなぜ神戸市内ではなく姫路になったか。絵本の原画展と言えば西宮市大谷記念美術館が有名で、同館で開催されてもよかった。それが姫路になったのは作家の考えが重視されたのではないか。大谷記念美術館は2階建てで、本展の作品を全部並べることは可能と思うが、姫路市立美術館は天井の高い平屋の、長さ100メートルほどはあろうかと思えるかなり縦長の建物で、作品展示がいくつかの部屋で分散されることがない。そして姫路は今NHKの大河ドラマによって話題になりやすい。その点、大谷記念美術館は立派な建物であるが、閑静な住宅地に囲まれ、来館者は姫路市立美術館よりかなり少なくなるだろう。そういったことを詮索しても仕方がない。とにかく姫路でスズキコージ展が開催されたのは初めてのことで、また関西においても最初の大展覧会でもあろう。10年ほど前か、数人の絵本作家と一緒に原画展が開催されたことがあって、その中にスズキコージが含まれていたので見に行った。たぶん大谷記念美術館ではなかったか。筆者がスズキコージの名前を初めて知ったのはもちろん絵本だ。筆者は片山健の絵に一時夢中になったことがある。1980年代のことだ。スズキコージが有名になり始めたのはもう少し後で、筆者が福音館の絵本で最初に気づいたのは80年代末期であったと思う。絵本好きならすぐにその存在を知ったはずだ。描き込みの密度が尋常ではなく、独特の色感、技巧、そして力強くて明るく、ユーモアも多い。スズキコージという、どこにでもあるような陳腐な名前、だがそれを片仮名表記すれば大いに目立ち、すぐに画風と名前を覚えた。そして大型の新人が登場したと思った。てっきり筆者よりかなり若いと思い込んでいたところ、筆者より3歳上であることを今回知った。美術館に入ったのは午後3時頃で、トンネルのように細長い建物の奥の突き当りから音楽が小さく流れて来る。そしてその少し手前に大型の横長画面に向かって描いている作家の姿が小さく見えた。当日は美術館にやって来ない日であったにもかかわらず、気が向いたのだろう。神戸市内から姫路まではJRの新快速なら30程度だろう。家で描くより、同じように好きな音楽を鳴らしながら、広々とした美術館で描く方がよい。この美術館に前回訪れたのは酒井抱一展で、その時は仕切りがいくつも設けられて掛軸が鑑賞しやすい小部屋が連なっていた。それが今回はすべての仕切りを取っ払い、まるで飛行機の格納庫ほどの大きさと言ってよいほどの一個の縦長の空間となった。普通はそういう展示場であれば寒々としてしまう。ところが作家が制作中の絵は300号ほどか、同じような超大作が所狭しと天井近くまで2段に並べられ、館内はお祭り気分真っ盛りだ。そういう空間は子どもが特に喜ぶ。そして家では味わえない開放感から走り回ったりする。そういうことを見越して作家はこの美術館を指定したのかもしれない。それに夏休みであるから絵本原画展は親子連れに最適だ。筆者らが訪れた時は親子連れが多かったが、筆者より高齢と思しき男性がひとりで入って来る姿がいくつか見えた。描くことを職業にしている人たちのようであった。館内はエントランス部屋のみ撮影可能で、今日はそこで撮った写真を4枚載せる。
展示は両側の壁面と館の縦長方向中央の島で、その島を中心に縦長の楕円を巡って左右に作品を見続ける。点数は全部でどれほどであったろう。1点ずつじっくり眺めると1日かかるだろう。それで、中央の島の作品展示の合間に置かれているベンチに座り、突き当りのテーブル上に置かれたⅰPodから流れる音楽を聴くともなく聴きながら、作家の描く姿を眺め、カラフルな作品群が醸し出す館内の雰囲気を楽しむ人がほとんどではなかったか。大型の作品は300号、小さなものはノート大や色紙程度で、また立体作品もあり、花綱状につなげられた左右対称の絵模様の色紙切り絵が天井からぶら下げられ、しかも作家が描く床は色紙の紙吹雪が撒かれているなど、館内のどこを見てもスズキコージの原色の氾濫世界が味わえるようになっていた。そのため、今後もこの館内は本展以上の賑やかさになることは絶対にないだろう。玩具箱を引っくり返したという形容がふさわしく、またその言葉はスズキコージの世界を一言で表現するのに最適ではないだろうか。TVで紹介された時、完成している絵にさらに加筆しているとアナウンサーが言った。それは会場で確認出来た。スズキコージは絵具のチューブと筆を持って、大画面を眺めては近寄って細部を描き加えていた。ピンク色で10センチほどの小さな人物を紺地に描き始めたかと思うと、5分ほどで完成させた。手を入れるのはそうした目立たない細部で、遠目には気づかない人が多いだろう。気になる箇所の加筆が終わったのか、キャンヴァスの端を持って半回転させ始めた。同じサイズのキャンヴァスが背中合わせにされ、2枚は車のついた木製の台に載せられている。ゴロゴロと音を立てながらキャンヴァスの台を回転させた時、下に敷き詰められた紙吹雪が散らばり、また台は制作場所の仕切りをかなりはみ出したが、それにはおかまいなしに作業を進め、キャンヴァスが壁面に対して直角に成ろうとした時、すなわち裏の画面と表の画面がちょうど等しく館内に姿をさらした時、作家は筆者の2メートルほどの距離に来て、振り向いた作家と筆者は目が合った。活気がないと言えば語弊があるが、青白い顔でまた肺活量が乏しいように見えた。迫力ある絵に精力を注ぎ込み続けているからかもしれない。無表情ながら、どこかさびしげで、また仙人半分といった表情だ。筆者より年齢が上でもあって、風雪を経て来たゆえの達観といった雰囲気も伝わったが、それは保険屋や一流企業人にはあり得ない。作品の印象よりもわずか1、2秒見たその顔つきが本展に赴いた最大の収穫であった。そのほか印象に残ったことは、フェリーニ映画祭のポスターだ。それはチラシにも印刷され、そのチラシを筆者は持っている。20年から30年前のものだ。特徴のある色使いと絵で、それがスズキコージの作であることを初めて知った。そのほかの映画のポスターも手がけたようで、映画好きなのだろう。会場で流れていた音楽はブラジルのものだろうか。耳慣れないがなかなか楽しい、また聴いたことのないタイプのもので、どこでそういう音楽を見つけて来るのか気になった。CDが回っていれば演奏者がわかったが、ⅰPodではそうはいかない。会場内の簡単な年譜によれば、スズキコージの父か叔父かが堀内誠一と知り合いであった。そこに絵本画家の道へ進む条件がすでにあったのだろう。美大の学生を装って学校に出入りしたそうだが、独学でも有名になったのであるからそれも面白く自慢に出来る。