詣でるというのは高い所に行くことだ。山地に神様が住むという考えがあったからだろう。苦労して山を登り、天に近い場所に立って気分を新たにする。山登りが全く好きではない筆者は聖なることとは縁がなさそうだ。昨日載せた2枚目の写真は背後に山が聳えている。
愛宕山だ。撮影時にはその山を切株の円形の上に被さるような角度を選んだ。そしてその写真をブログに載せることがあれば愛宕山に言及しようと思ったような気がする。とはいえ、筆者は愛宕山に登ったためしがなく、その山について何か書くことは出来ない。その代わりでもないが、今年は姫路の書写山に行って来た。ロープウェイで一気に山頂まで連れて行ってくれるので、詣でるという気分はない。便利になると畏敬の念やありがたみが薄れる。書写山は山頂まで車で往復出来るようで、山という気がしない人もあるだろう。あるいは登山愛好家もそうで、書写山程度の標高は散歩にもならないと思っているかもしれない。足腰を鍛えるのに登山は最適だろう。いい空気を吸い、いい景色を眺め、体力維持にもよい。家で終日籠っているとろくなことを考えず、体力の衰えも早いだろう。体力が減退するとろくなことを考えず、ろくなことを考えないでいれば身体もろくな状態になりようがない。せっせと運動すべきで、それにはお金がかからない散歩が一番だ。そう思いながら、何でも癖のもので、最近筆者は徒歩でムーギョに行かなくなった。今日は8月下旬の市民検診の結果が届いたが、去年と似たり寄ったりの結果で、「要医療」の項目がある。ほんの少しは全体的な数値は改善したようだが、ひとつだけ悪化した項目がある。それは運動で改善されるはずで、重い腰を上げてまた散歩に精出すべきだ。一昨日は「風風の湯」に久しぶりに行き、体重を測ったところ、64・5キロあった。サウナに合計40分入って汗を絞り出したところ、ちょうど1キロ減ったが、帰宅してビールを飲んだのですぐに戻ったであろう。60キロが筆者にとっては理想の体重らしいから、4,5キロ分を減らすべきだ。去年も同じことを書いたが、さっぱり減ってくれない。おやつをほとんど食べないようにしたので、健康診断の結果は去年より多少はましと出た。次は運動しかない。涼しくなって来たのでまた散歩再開だ。日頃の運動不足を思っているからでもないが、書写山はロープウェイを使わずに下山した。麓の駅で切符を買う際、往復か片道かを訊かれ、片道と即答した。数日前からそう決めていた。そして地図を調べ、どの道をどう辿れば麓まで歩けるかを記憶した。にもかかわらず、結果はその予定した道とは別の道を歩いた。そしてそのことを知ったのは1週間ほど前で、いかに筆者が方向音痴であるかを再確認し、またぞっとした。家内は筆者の後ろを50メートルほど遅れて着いて来るだけで、筆者が間違った坂道を下っていることは露とも知らない。また筆者もそうで、とにかく下り坂を進めばいつか麓に着くと考えた。それは正しいか。登山ではそうでもないらしい。下り切った場所がとんでもないところであったりするし、また麓に着かず、ふたたび上り坂となってますます山深く迷い込む。だがそんなことは全く心配しなかった。標高が知れているし、行き交う人が数人いたからだ。
麓のロープウェイ駅で切符を片道しか買わなかったことに家内はいささか奇妙な思いを抱いたそうだ。そう思っている顔を見て見ぬふりをし、帰りはどうするかを一切家内に言わなかった。ヤフーの地図では下りは志納所のすぐ近くの坂を辿ることになっている。途中で二筋に別れるが、すぐにまたひとつになる。そうして麓の駅の少し西側の住宅地に出て来る。その下り坂の起点を筆者は確認しなかった。確かそういう標識はなかった。これは下りもロープウェイを使ってほしいからではないか。あるいは標識があっても見えにくい場所なのだろう。それは志納所から摩尼殿に向けて歩く場合には見えなくてもかまわないから、筆者が気づかなかっただけの可能性が大きい。つまり、帰り道は志納所までとにかく歩き、そこを出て間もない頃に右手に下る坂があり、その入り口付近に標識があるはずだ。それは摩尼殿を背にして初めて見えるものであり、摩尼殿に向かうのであれば背後になって目に入らない。たぶんそのはずだ。筆者らが下った坂は「西坂」と呼ばれる。摩尼殿まで数分というところに十妙院がある。その前がT字路になっていて、摩尼殿に向かって左に折れる道が西坂で、標識には日吉神社や兵庫県立大学と書いてあったと思う。その道をヤフーで調べた下り坂と勘違いした。地図を印刷したのであるから迷わないはずだが、以前書いたように、インク切れでほとんどまともに見えないものになった。ないよりましと思って持参したが、ない方が重くなくてましであった。また志納所でもらったウォーキングマップは開かなかったが、開いてもそこには「西坂」は記されているものの、志納所近くの麓まで最短で往復出来る坂道は印刷されていない。それはやはりロープウェイに乗ってほしいからだろう。それはさておき、摩尼殿に向かう途中で筆者は「西坂」を下りればよいと決め、摩尼殿や三つの堂を見た後、また十妙院まで戻って来た時、意気揚々とその坂に進んだ。最初はごくなだらかで、しかも若い母親と小学1,2生ほどの女の子のふたり連れが前方を歩いていた。その親子が後ろからやって来る家内を勇気づけると思い、筆者の歩く速度は勢いを増し、すぐに親子を数十メートル引き離した。親子が筆者の視界に入っていたのは2,3分だろう。彼らは筆者の右手の平らな土地を進み出し、すぐに見えなくなった。彼らは「ロープウェイ駅方面」という標識にしたがってそっちの方向に進んだのだ。十妙院の際を直進して志納所に至らずとも、もうひとつの道がある。以前書いたバス道路で、親子はそこを歩いてロープウェイ駅まで行ったのだ。親子を別れて筆者は急にさびしくなった。ひっそりとした山道で、誰とも出会わない。とにかくどんどん下りる。ひたすら下りで、平らな箇所は全くない。しかも坂はかなり急である場合が多い。晴天であったので足元は滑ることがなかったが、数日前の雨で地面が軟らかくなっているところがままあり、雨であればロープウェイを利用するしかない。それにしてもロープウェイを使えばすぐに麓に着いて時間を有効に使えるのに、なぜわざわざしんどい思いをいたか。ふたり分の1000円をけちったということも多少はあるが、筆者は往復を同じ道を行くのがいやな性分で、せっかくの書写山に行くのであれば、帰りは下り坂で楽でもあり、また何か面白い体験も出来るかと考えた。そして帰りは歩いたから、こうしてブログのネタも出来た。苦労を楽しむという気分の余裕は誰にでもあるだろう。山登りの嫌いな筆者は、山登りそれ自体が苦労の連続と思っているが、その苦労を大いに好む人がある。自主的に登山することは楽しいからで、強制されると何事もいやなものだ。筆者は自主的に書写山に行った。そして帰りは最初から歩くつもりであった。その別の理由を言えば、映画「ラスト・サムライ」の撮影時に撮影隊や俳優たちがどの坂を利用したのかを知りたかったからでもある。車を使ったからにはそういう道があるはずだが、志納所近くの道は残念ながら歩けなかったので車が上り下り出来るのかどうか知らない。では「西坂」はどうか。
この坂を下っている途中、二台の軽乗用車に遭遇した。一台は前方から上って来て、もう一台は筆者の背後からやって来た。車を運転しない筆者であるのでわからないが、「西坂」はとても急でしかも極端な曲がり角がいくつもあり、車で上り下りするのはとても無謀と思う。小型車ならまだいいかもしれないが、大型は無理ではないか。一歩踏み外せば転がり落ちて行く急な坂を車が上り下りするのは覚悟が必要だろう。ほとんど下り切ったところに道幅いっぱいに鎖のロープが張りわたされていて、その取りつけ箇所に「許可なき自動車は道を利用出来ない」と書かれた札があった。ということは出会った二台は寺の関係者だろうか。そして「ラスト・サムライ」の撮影では「西坂」を頻繁に利用したのかもしれない。そう考えると、この坂を歩いて下るのは貴重な体験ではないか。下りに要した時間はたぶん40分ほどで、意外に長かった。30分ほどすると左手眼下に学校の校庭が広がり、運動する学生の声も小さく響いて来た。その少し手前で大学の学生らしき男子数人が走って登って来るのに出会った。またそれとは別にもう少し前に3人の一般人がこちらに向かってやって来て、擦れ違い様に「こんにちは」と声をかけた。山道で出会えば声をかける習慣があることくらいは知っているので、筆者の「こんにちは」もほとんど同時に出た。さすが男が筆者の後方を上って行くので、家内の無事を確認するためにしばし立ち止まったが、家内の顔が小さく見えるや否や、また先を急いだ。今日の最後の写真は親子と別れて間もない頃に撮ったが、ひっそりとした雰囲気が伝わるだろう。こういう坂道を40分も下りるのはよほどの山好きか変わり者だと後日家内は文句を言ったが、麓の日吉神社を出たところで一緒になったところ、あまりいやな顔をしておらず、むしろ顔を紅潮させ、スリル満点の経験をしたという喜びが見て取れた。それは履き慣れた靴を出かける際に選んだことの自らの判断の正しさを誉めたかったからでもあろう。家内と山歩きをしたのはこれを書くわが家の3階の窓から丸見えの嵐山から松尾山にかけて縦断して以来だ。そのことについては
4年半前に「松尾山を歩く」と題して投稿した。つまり4年半ぶりに山道を歩いた。こうなると次は愛宕山詣だが、筆者にはその自身がない。山は上る時よりも下りの方が足に力がかかって体力を消耗すると聞くが、どう考えてもそれは正しいとは思えない。自転車でも車でも下りは楽でエネルギーを消耗しない。下り坂は足に負担がかかるというのも本当だろうか。筆者は書写山を歩いて下る気になったのは、上りよりはるかに楽なはずと思ったためだ。人生はどうだろう。還暦を過ぎると下りばかりで、終日家に籠って何もしないでいれば気楽であり、また時間の過ぎ去るのも早く感じるだろう。それはそれで仕方のないことでもあるが、下り一辺倒に抵抗して上りとまでは行かずとも、平らな道を歩み続けるのが、寝た切りの暮らしを少しでも遅らせるのに役立つ。筆者のこのブログは毎日同じような雑文を書いてまさに平坦を維持しているのではないか。悪あがきと言われそうだが、上昇は望めなくても下降は拒否したい。書写山に行って来た落ちがそれでは情けない気もするが、ま、楽しい経験をした。今日の写真の最初の3枚は食堂内部の宝物だ。撮影禁止の貼紙は別のところにあったから、これら3枚はたぶんブログに載せてもよいと勝手に判断する。鬼瓦は額中央に宝珠が造形されているのが珍しい。もっとほかにもたくさんあって、鬼瓦に興味のある人は必見だ。狛犬の木像は13世紀のものと思う。MIHO MUSEUMUで狛犬展が開催中だが、書写山に登った4日後にその内覧会に行った。その感想は後日書く。そうそう、日吉神社前の参道を歩きながら、どこに立っているかわからなかった。近くの大学のラグビー選手がひとり向こうからやって来たので最寄のバス停を訊いた。なかなか紳士的な態度で、真っ直ぐ突き当りを右に折れればすぐと言う。そこは大学の正門前のバス停だ。10分ほど待ってバスが来た。そのバス停はロープウェイ乗り場前より西に3,4つに位置し、姫路駅前までのバス料金は往路より90円高かった。「しんどい思いをして坂道を下りたのにバス代が割高とは面白くない。その料金は大学生にも優しくない」と家内は言った。筆者の思うところ、書写山ロープウェイを利用してくれる客は特別待遇で、それで姫路駅前から270円という割安に設定している。