勃興期があれば衰退期がある。一昨日のネット・ニュースで「餃子の王将」が一斉に値上げするとあった。「餃子の王将」の本店は京都の四条大宮に今もあって、筆者がそこに最初に入ったのは20歳くらいであったと記憶する。
京都に移住してからはもっぱら阪急西院駅の裏手の店を利用し、家内とよく入った。それから40年近い歳月が流れた。それでもたまに「餃子の王将」に入った時には家内は呆れ返る。少しも成長していないからだ。普通ならが収入が何倍にも増え、たまにはホテルで食事というのがいい大人の日常だろう。それが40年前と同じように安いものばかり食べている。家内は貧乏くじを引いたことになるが、今さらどうしようもない。それはさておき、「餃子の王将」は40年前は値段は格安で学生相手の店のイメージがあった。質はよくないが、量だけはたっぷりあるというのが定評であった。40年前は筆者も若かったからそれがちょうどよかった。同店の勃興期がいつかとなれば、70年代半ばでは早過ぎるか。関東に進出したのは何年前か知らないが、京都や大阪より割高に料金が設定されている。物価の違いがあるので仕方ないだろう。近年は「大阪王将」も急速に力をつけて来て店舗数を増やしているが、餃子に関しては「餃子の王将」に軍配が上がるかもしれない。30年ほど前のTVコマーシャルでも「餃子1日100万個」と言っていたが、当時それが大げさではないかと家内と話しながら、店舗数からすればそれくらいは作られているかもしれないなどと思ったものだ。今では1日100万個以上売れているかもしれない。その1個の大きさと価格が釣り合わないので、豚肉以外の肉を使っているなどと冗談半分で話したこともあったが、100万個も売れるのであれば薄利多売で安価せ提供することも無理ではないだろう。それがまた値上げするとは、消費税の影響かもしれないが、そうなると消費税10パーセントになる来秋にはまた値上げされる。そしてそのたびに売り上げが落ちるのではないか。それはいいとして、10年ほど前か、「餃子の王将」がえらく値上がりしたなと思うようになった。それでもう100円か200円たくさん支払うと、同店とは格段に雰囲気も味もよい中華料理店が利用出来るので、筆者と家内はめったに同店には入らなくなった。同店が関東に進出し、たくさんの店を出すことになったのはいいが、味からすれば決して安くはない。むしろ高いくらいだ。筆者は同店の天津飯が40年前から大好きで、店の前を通りかかると衝動的にそれが食べたくなるが、家内に言わせると、御飯に卵がかかっているだけの料理で、原価は100円もしない。それはわかっているが、食べたいものは食べたい。家内が同店で唯一食べてもいいかと思うのは餃子だ。筆者は珉珉の餃子の方が好きだが、珉珉は店の数が少ない。値段は「餃子の王将」が安く、また1個当たりの大きさが全然違う。また珉珉の餃子は軟らかく、家内はそれを好まない。皮がパリッと硬い「餃子の王将」の方が好きだと言う。さて、同店にはめったに入らなくなったが、四条中学校前店では毎月第2,4日曜日に生餃子を販売していて、いつしかそれをよく買いに行くようになった。4,5年前から2か月に一度くらいは買うようになり、ここ1,2年は毎回と言ってよいほど自転車で買いに走った。今日は第2日曜日で、午前中に買って来て、午後から家内と梅田に出る計画を立てた。朝11時の開店で、10時半に家を出れば開店時に着く。いつも店の前に客が10人や20人は並んでいる。生餃子のみは店の外で販売するのだ。そのため、雨では客足はがくんと減る。
今日は終日晴天のようで、自転車で往復1時間ほどは気持ちもいいだろうと思っていた。めったにないことだが、何となく開店時間を確認したくなって、ネットで同店を検索した。すると、今月1日で閉店しましたとあるではないか。驚いた。あれほど生餃子がたくさん売れていたのに、急に閉店だ。そのことを家内に言うと、何でもそのように急に変化があると言った。店主は閉店時期を知っているのに、ぎりぎりまでそれを口外しない。たぶん同店は売り上げが芳しくなかったのだろうと家内は続けた。そう言えば、少し東へ行くと西院店があるし、西には梅津段町店がある。北には太秦店だ。京都市内にはあちこちにあって競争が激しい。四条中学前店はあまり立地がよくなかったのではないかと思う。それにしても月2回の生餃子が買えなくなった。家内は至って平気で、「今までどれほど食べて来たことか。もう卒業」と言い放った。筆者は自転車で四条中学前まで走る用事がなくなり、何となくさびしい。それはいいとして、「餃子の王将」は店の数は増える一方だが、値上げを続けるとそのうち客離れも起こり得る。勃興期があれば衰退期があって、それは同店も免れない。衰退期があればまた復興するかと言えば、そうとは限らないが、中華料理店全体として見ればそういうことも言えるだろう。「餃子の王将」の店舗が減少に向かうと「大阪王将」が店を増やすかもしれず、またどちらも衰退に向かうと、別の中華料理店が華々しく店舗数を増やし始めるだろう。消費者にとってはおいしくて安価な店であればどこが盛況になってもかまわない。そのおいしくて安価という基本を忘れた店は廃れて行くのは当然だろう。さて、今日の写真は「餃子の王将」とは全く関係がない。わが家の近くの阪急電鉄が掲げている立て看板だ。数年前にその看板の文字が剥がれ始めている様子が気になった。それが最初の写真で、左端奥に駅前ホテルの建築中の青いシートが見えている。3年ほど前のことと思うが、おおよそ正確な日を知るには「駅前の変化」のカテゴリーに投稿した写真を順に見て行けばよい。今はそれが面倒なのでこのまま書き進む。ともかく、3年ほど前にその看板の文字の状態が気になった。いや、気になっていたのはもっと以前からで、ふと撮影しておこうという気になったのだ。2枚目の写真は左端奥にホテルが完成している。2年ほど前の撮影のはずだ。最初の写真と文字の剥がれ具合はあまり変わらないようだ。また、赤の剥がれが強く、黒は密着している。こうした看板は黒と赤の2色のペンキで文字が書かれることが多く、赤は早く褪色ないし禿げ落ちてしまうため、黒の文字だけでは意味が通じなくなっている看板をよく見かける。全部黒で書けばいいようなものだが、それなら注意喚起にはあまり役立たない。それはいいとして、この阪急の立て看板は毎日のように目にするが、赤い文字の剥がれ具合はさらにひどくなって来たかと言えばそうでもない。実は1か月ほど前にまた撮った。今日はその写真を載せないが、その理由は2枚目とほとんど変わらないからだ。剥がれかけてからがしぶといようで、全部消えてなくなるのは10年かもっとかかるのではないか。そう思っていたところ、先週気づいた。それが3枚目の写真で、看板が新調された。以前と全く同じ文面と色、書体だ。衰退したものがすっかり蘇り、それはそれで喜ばしいが、筆者は何となくさびしさを感じる。新調された看板は10年後には赤い文字が剥がれかけて1,2枚目の写真のように劣化する。そしてまた3枚目の写真のように復元される。復元が可能であるのは、古いとはいえ、現物が存在するからで、人間が大昔から変わらないのも同じ理由だ。その一方で筆者は書写山の摩尼殿を思い出す。今日ネットで調べて、その建物は大正8年に火災に遭い、昭和8年に復元されたものであることを知った。燃えてなくなってしまった状態が15年ほどあったことになるから、復元はどれほど正確に行なわれたかだが、焼け焦げた柱その他があったので、ほとんど同じ建物が作られたはずだ。同じように、三つの堂も今後燃えることがあっても同じ場所に同じものが建てられる。人間が死を恐れるのは自分が復元され得ないと思っているからで、魂の永遠を信ずれば生も死も恐くないということになる。