燥ぎ回る子どものような気分に多少はなったかもしれない。「その1」で3番目に載せた写真を撮った時だ。しんどい山道を上りながら、急に麓を見下ろせる場所が現われる。山登りする人はそういう景色を見たいこともあって登山がやめられないのだろう。
高いところに立つと確かに気分が変わる。書写山はロープウェイがあるので小さな子どもも訪れる。帰りの道では若い母親と小学生低学年の女の子のふたり連れを見かけた。もっと小さな子でもさほど無理なく歩けるのではないだろうか。小さな子どももきっと大人たちが普段とは違う様子で山道を歩くのを目にして嬉しがるだろう。疲れれば抱いてもらえばいいし、また大人が小さな子を抱きながらでも歩けるほどの山道だ。500円と交換にもらった三つ折りのリーフレットを今ようやく開いたが、その内側全面は書写山のウォーキングマップになっている。もらったまま手提げ袋に放り込んだため、どこをどう行けば何があるのかわからない状態で摩尼殿まで辿り着いたが、ま、それはそれで何がどこで待ちうけているかわからないスリルがあってよかった。ウォーキングマップを見ながら思い出すことは、500円を支払う「志納所」を入ってすぐのところで道が二手に分かれていることだ。右を行くと「その1」の最後に載せた写真の仁王門に着く。左は何とバス道で、摩尼殿の手前の本坊事務所前まで行くことが出来る。そう言えば筆者の前で500円を支払った人はバス道がどうのと連れと話していた。バスはロープウェイの時間と合わせて出ているのだろう。そうであれで1時間に4本だが、マイクロバスに違いない。そのバス道は人が歩いては危ないので、バス専用となっているが、筆者は目にしなかったので舗装されているかどうかはわからない。またなぜバスが必要かだが、小さな子どもなら親に抱いてもらえばいいが、高齢者はそうは行かない。そして高齢者に来るなとは言えない。ましてや超高齢化社会に突入している日本で、バスの本数を今後は増やさねばならないほどだろう。ウォーキングマップではこのバス道のみ赤で印刷されている。人が歩いてならないという注意喚起と、バスを利用してほしいという思いによるだろう。もちろんバスは有料のはずだ。このバス道は志納所から本坊事務所までを往復するが、最初にバスをどのようにして山頂に上げたかだ。ロープウェイでは不可能であるから、自走するしかない。そのような道があるのだろうか。そこで思いことは、映画「ラスト・サムライ」だ。そのロケでは頻繁に麓と山頂を往復し、人間も機材も運ばねばならなかった。それが筆者にはどうにも不思議だ。俳優たちはロープウェイで上り下りしたのか。それはまずない。一般人と混じれば騒動になる。一般人からは隠れて行動したはずで、それはウォーキングマップに乗るバス道のような気がする。きっとそうに違いないが、では麓から志納所までどのようにして車が走ったのか。そういう道があるのだろうか。ヤフーの地図を見ると、人が歩く登山道は載っているが、バスが走るような道はない。あるいは人が使う道を車も利用したのか。そう考えるしかない。では、参拝者はロープウェイを利用せず、車で本坊事務所まで行けばいいではないか。そうさせないのは大きな駐車場が頂上にないからかもしれない。それにロープウェイを運営する会社が儲からなくなる。ということは、「ラスト・サムライ」の撮影は円教寺にとっても特別の許可を与えてのことで、映画会社からは桁違いの志納金が支払われたのだろう。映画の世界的なヒットによって書写山は一気に有名になった。筆者もそれで知ったくらいで、遅まきながらも書写山に登ることになった。昨日のクバリブレもそうだが、映画の力は大きいと言うべきだ。
ウォーキングマップには円教寺の建物全部のイラストがあるが、筆者らが訪れたのはそのうちの半分ほどだ。これは道があちこちで別れていて、全部の建物を見るには全部の道を歩く必要があるからで、1日で無理ではないにしろ、山歩きに慣れていない筆者では体力の消耗が激しいだろう。出かける前夜にヤフーの地図から書写山の長城た麓の地図を3枚印刷したが、インクの出が悪く、ほとんど見えないも同然であった。それでもないよりましと思って持って出かけ、結局何の役にも立たなかった。ウォーキングマップを開いていると何かと便利であったのに、それを見なかったのはいかにも筆者らしい。それはともかく、同マップには、麓から通じているらしい道として、西坂、置塩坂、刀出坂、鯰尾坂が記されている。その他にも名前のない道が北方にあって、登山者が利用するのだろう。これらの坂はヤフーの地図には載っていない。ということは人が歩くにも苦労するほどの細い道と考えていいが、ならばどの坂を「ラスト・サムライ」のスタッフたちが利用したのかとまた考えてしまう。それでは話が進まないので、話題を変えると、「その1」の最後の写真の「仁王門」をくぐって摩尼殿まで15分ほどだ。上り下りに平坦が混じった道で、摩尼殿が見えるまでの100メートルほどはなだらかな下り坂だ。両脇が緑に覆われて全景が見えないが、大きな建物であることは遠目にわかる。正面に見え拡大画像の画面が現われる。写真左下の女性は家内でタオルで汗をぬぐっているようだ。家内のすぐ右手奥に赤い矢印が描かれた立て看板がある。「黒田官兵衛×書写山圓教寺 特別展」とあって、これについては後日紹介する。写真正面の石段を上ると摩尼殿と言いたいところだが、3枚目の写真にあるように、さらに石段があってそれを上る。また3枚目の写真に写っている石燈籠の屋根にたくさんの小石が積み上げられている。よくある光景だが、筆者の立ち位置の背後にもいくつか燈籠があって、そのどれもが同じ状態になっている。きつい雨風で簡単に落下してしまいそうだが、落ちればまた誰かが積む。最初の写真に戻れば、石段脇に「西国霊場第二十七番 書寫山圓教寺」の石碑があって、「写」と「円」は旧字だ。このブログでは「円」のみ旧字という中途半端なものにしたが、ウォーキングマップでも「書寫山圓教寺」と印刷されていて、そう書くのが正しいようだ。撮影位置のすぎ右手は木造の大きな茶店で、暇そうにしていたが、うどんその他腹ごしらえの出来るものが食べられる。その向井い、つまり写真右端から切れたところは休憩所のような建物で、人が数人座ってこちらを見ていたので接近しなかった。2枚目の写真は最初の写真の石段を上り切ったところで摩尼殿の下部構造を撮った。京都の清水寺そっくりで、また実に堂々なるものだ。改めて思ったのは、これほどの建物を山に建てる労力だ。この寺の歴史をホームページで読むと天災と人災で悲惨な経験を重ねて来ていて、現在の姿はよくぞ保たれていると思う。比叡山と同じ天台宗で、開山は平安時代、10世紀半ばだ。最もひどかったのは秀吉が本陣として使ったことで、その際に仏像などが多く持ち去られ、また27000石の寺領は全部没収された。それではひどいということであったのか、500石が戻され、江戸時代は千石になったが、明治維新では寺も山も国に没収され、太平洋戦争では荒廃した。保存修理は戦後のことで、近年仏像の調査や修理が始まったばかりという。摩尼殿についてはホームページに記述がないのが不思議だが、創建当初建物だろうか。100年や200年は経っているように見えるが、もっと古い建物としても、何度も修理は行なわれて来たろう。
摩尼殿を見ながら、「ラスト・サムライ」ではどのように映ったのかと思ったが、たぶんわずかなカットではなかったか。この寺が使われたのは、古いたたずまいのまま保存されているからで、観光地化した京都や奈良、鎌倉でももう似た寺はない。このことは、日本にやって来る外国人観光客が、やがては京都奈良に飽きて、日本人でもあまり知らないようなところに本当の日本があることを知って行くことを示唆している。そしてそういうことが21世紀のほとんど最初に作られた「ラスト・サムライ」が発端のひとつになったとすれば、書写山圓教寺は今後もっと人気が出るように思える。ただし、その果てに俗臭が増すと元も子もないから、現状のまま、もっと認知度が高まり、失われた文化財の研究が進むのがよい。さて、摩尼殿に入るのは無料だ。志納所で支払った500円で寺全域を見ることが出来る。これは小さな塔頭に入るたびに500円払うのが常識である京都に比べるととても安い。今日の4枚目は摩尼殿の内部を撮ったもので、右端の後ろ姿は家内だ。最初の写真もそうだが、これは写し込もうと考えてのことではなく、たまたま撮影した時に入った。したがって家内は写されたことも、こうしてブログに載せていることも知らない。2枚目の写真からもわかるように、摩尼殿のすぐ前はたくさんの樹木がある。これらは秋に紅葉するらしく、書写山に登るのであれば秋がいいだろう。4枚目の写真で言えば左端奥の向こうに石段があり、それを上り切ったところで靴を脱いで堂内に入る。入ってすぐ左手に住職らしき人と作務衣姿の若い女性がふたり受付的囲いの中に座っている。お守りやおみくじを買う人があるし、また西国三十三か所の朱印を求める人もあるから無人というわけには行かない。若い女性が下を向いて熱心に般若心経を書いていたが、文字の練習だろう。客と応対しない間の時間を無為に過ごすのはもったいない。その若い女性の窓口に、「元三大師のおみくじ」と墨書された小さな貼紙があった。去年の夏、比叡山に行って
元三大師堂に入った。そこでは角大師の護符が売られている。角大師つながりで奈良の不退寺に今春出向いたが、閉門間際で入らなかった。来月か再来月には訪れたいと思っているが、それとは別に意外なところで元三大師に出会った。そのいみくじは200円で、よほど買おうかと思いながら、角大師像が印刷されているならいいが、どうもその可能性は低いように感じ、また何となく「凶」が出る思いがあったのでやめた。それにおみくじは1月に引くだけでいい。それで1年を占ったのに、また途中で引くと、くじの効果がないも同然ではないか。話を戻して摩尼殿内部はさほど大きくはないが、重厚感がひしひしと伝わり、京都や奈良にないどことなく鄙びた感じがよい。書写山を詠んだ和歌の扁額がいくつか堂内正面天井下に架かっていて、今調べると和泉式部のものが有名で、それは「暗きより暗き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ山の端の月」というものだが、最後が「書写の山」で終わっていたような気がするから、別の人物が詠んだものかもしれない。木の板を彫って文字上に金箔を被せたものもあって、その扁額の寄進者である姫路在住の女性の名前が最後に刻んであった。元三大師堂では大津絵を描いた額が2,3飾ってあった。書写山も長年地元住民から信心されて来ているが、西国三十三か所に含まれるので近畿に住む信心深い人ならよく知っているだろう。筆者は霊場巡りに関心がなく、こうした歴史ある寺にたまに訪れると小学生の時の遠足を思い出し、心がはしゃぐ。