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●『第五十七回 正倉院展』
正倉院展だけならば奈良に行くつもりはなかった。昨夜書いた杉本健吉展の方がむしろ観たかった。わざわざ奈良まで2時間近くかけて行くからには展覧会ひとつではもったいない。



●『第五十七回 正倉院展』_d0053294_1542483.jpgそれでふたつ観ることにし、さらに帰りは八尾に寄って母親に会い、難波に出て高島屋でもうひとつ展覧会をと考えた。結果的にそのとおりに実行したが、用事が4つも片づいて気分がよい。正倉院展に初めて訪れたのは1974(昭和49)年のことだ。その時に買った図録が手元にある。本文32ページのうすい冊子で、カラー図版はない。その後1980年までほぼ毎年欠かさずに訪れ、次に83年に行ったきりとなった。手元には77年に買った『正倉院展の歴史-奈良国立博物館正倉院展三十年の歩み-』と題する、正倉院展図録とは別に特別に作られた図録があって、これを除けば手元には11冊、つまり11年分がある。半分は行くたびに買ったが、残りの半分は77年の『三十年展』の売店で買ったと思う。今でも数年前までの正倉院展図録のバックナンバーは奈良博の売店で入手出来るが、77年当時でもそうであった。その後古書店で昭和22年、つまり第2回展の図録を買った。今手元で眺めているところだが、『三十年展』の図録にそうした過去30数年分の図録やポスター、絵はがきセットなどの図版が全部掲載されていて、これは見ていて楽しい。正倉院展が戦後直後からどのようなデザインで宣伝されて来たかがわかるからだが、それは天平時代から変わらぬ宝物とは違って、明らかに戦後昭和史のグラフィック・デザインの流行を濃厚に反映していて、その観点からも興味深い資料となっている。よく昭和モダン展が開催されるが、そうした展示の中にこの正倉院展のポスターも混ぜられるべきだと思うが、天皇がかかわる展覧会を民間資料と一緒に展示するなど、とてもおそれ多いという感覚があるのか、まだそんな機会にはお目にかかっていない。正倉院展の第1回から30回までの図録を並べるだけでも、いかに日本が急速に経済発展して来たかがはっきりとわかる。一方で歴史がカラー印刷が安価で普及して行ったとはいえ、それは全く信じられないほどの開花と言うにふさわしいほどだ。
 どうでもいいことのようだが、70年代までは正倉院展は回数が打たれていなかった。そのため、図録の背を並べると、みな『正倉院展目録 奈良国立博物館』とだけ印刷され、どれがいつのものかはわからない。それが83年では『昭和五十三年 正倉院展 奈良国立博物館』に変わっている。この年号がいつ回数に変わったのはかは知らないが、考えてみればまだ今年で57回目に過ぎない。77年に出た『三十年展』図録はB5版で、カラー図版は12ページのみ、まだ現在のような豪華さはない。また、第2回展の目録は文庫より少し大きめのサイズ、本文30ページの後にモノクロのグラヴィア図版が16ページ続く。カラー図版はない。印刷は今も健在の京都の便利堂で定価20円となっている。この当時封書の送料が2円であったので、換算すれば今の800円に相当し、合点が行く価格だ。ところで、この第2回展の目録を見ていると、これでも充分という気がする。現在は分厚く、出品作は当然全点カラーだが、展示数は毎年大差はないし、内容も毎年変わるとはいえ、おおむねどの年でも似たり寄ったりで、特別に豪華な作品ばかりが集められた回はなかったし今後もあり得ない。それがわかって、もう毎年見る必要がないと思ったのが80年頃で、前述のように83年以降訪れなかった。それが22年ぶりに行ったのは、ブログで取り上げるのもいいかと考えたことと、22年でどのように様子が変化したかのちょっとした関心もあったからだ。結果を言えば、昔と全く同じ雰囲気で、新たな感動はなかった。訪れる人は増えているようで、新聞によると初日で1万人以上入ったとあった。正倉院展は毎年の曝凉、つまり点検と虫干しのために宝物庫が開封される機会を利用した展示であるので、会期はいつも10月中下旬から11月上中旬までと決まっている。だいたい2週間だ。これは展覧会会期としては短い方だ。そのためよけいに館内に人が溢れる。また、国立博物館が独立法人になったため、各館独自でどうにか宣伝に工夫を凝らし、なるべく多くの人に来てもらって図録などで売上増強を計る必要が生まれた。これは22年前にはなかったことだが、正倉院宝物のデザインを模した安いさまざまなグッズが売店で販売されている。別に悪いことではないが、どこかなりふりかまわぬ姿勢を見る気がしてやや痛々しくもある。また、今回は特に気づいたが、阪急電車の車内には派手なキャッチ・コピーを添えた、赤と黒の2色で安価ではあってもどうにか工夫を凝らしたデザインの数種類のポスターがずらりと吊り下げられており、新聞でも大きな宣伝が載っている。読売新聞大阪本社が宣伝しているが、これほどまでの大がかりな宣伝は22年前にはなかった。当時はチラシも作られていなかったはずだ。新聞社が派手に宣伝すると、いやでも目について、あまり関心のない人でも訪れる気が少しは起こるだろう。それに招待券も大量に作られているかもしれない。宝物はしっかりとしたガラスケースの中に収まっていて安全であるから、それならば来場者は多けれ多いほどよいに決まっているという考えがだ。そうそう、『三十年展』の特別図録には第1回展からの入場者数が記載されている。昭和21年は20日間の会期で約147000人だ。これは空前の記録数だが、戦後すぐのことで国民が文化に飢えていたことと、天平時代からそのまま保存される御物が間近に拝めるというめったにない企画であるというもの珍しさが手伝った。第2回はその半分、翌年はまた半減し、昭和26年の第5回展では2万程度となって、これは最低記録だ。それでも1日1000人ほどだから、会場はそれなりに混雑していたろう。昭和24、34年は東京で開催されていて入場者の記載はない。昭和39年は東京オリンピックの開催と並行して展示があったが、一気に前年の倍以上の111000人となっていて、オリンピックで加熱した国民意識の影響が大きい。その後この記録が塗り返られるのは10年後の昭和47年だ。その後は10万人台を記録し、77年の『三十年展』は18万人だ。その後の記録は知らないが、おそらく同程度をキープしているのではないだろうか。今年は新聞社の大宣伝を見る限り、20万に達するかもしれない。奈良博にすれば毎年最高の入場者を誇る目玉展覧会であるので、マスメディアを動員して少しでも多くの人に来てもらいたいところであるし、正倉院展が開催される新館とは地下通路でもつながっている、かつて杉本健吉が描いた旧本館の常設展も見ごたえがあり、しかも今回は民間人による中国の青銅器コレクションも特別展示されていて、鹿をも眺めながら1日をゆっくり費やす価値はある。
 ところで、たくさんの溢れ返る人込みをかき分けて見ていると、疲れも早くて大きい。ソファにでも坐ろうかと思っていると、声をかけて来る人があった。それは中学生時代の友人の姉さんで、年賀状は毎年交わしているが、会うのはおそらく10年ぶり。よくぞ発見されたと思うが、筆者の顔はよほど目立つようで、同じような経験は何度もある。それにしても、その姉さんも大阪からやって来るほどの正倉院展で、今さらにこの毎年恒例の展覧会がポピュラーなものになっていることを思う。さて、図録の話に戻すと、戦後間もない頃はカラー印刷がままならず、正倉院の宝物のきれいな図版を入手出来る機会はごく限られていた。ところが昭和35年(1960)から37年にかけて朝日新聞社が『正倉院宝物』という全3巻のオール・カラー図版本を出した。価格は当時としては異例の18000円にもかかわらず、予約のみで満数になった。こうしたオール・カラーの本が登場すると、正倉院展にわざわざ足を運ばなくても、家にいながらにしていつでも宝物を鑑賞出来ると考える人が増え、博物館にとっては痛し痒しではなかったかと思う。印刷技術がどんどん進歩し、正倉院本も増え、今ではベールに包まれた謎めいてありがたい存在という思いがかなりうすれてしまっているのではないだろうか。画集がいくら精巧なカラー印刷をしても本物とは比較にならないが、実際に正倉院展に足を運んでも黒山の人では、それこそ細部を確認することなどほとんど不可能に近い。そこで細部を拡大した図版を掲載する新手の本が登場する一方、正倉院展の会場でもそうした細部拡大パネルが掲げられる。今回それが目について興味深かった。思わず拡大図をスケッチしたほどだ。つまり、工夫次第でいくらでも変わった角度で正倉院の宝物を見せることは出来る。毎年の宝物はすでに本でよく知っているものばかりと言ってよいのに、正倉院展自体が進化していて、見せ方に少しずつ新しい工夫が凝らされているわけだ。ここで予想出来ることは、昔訪れた時にも展示されていたが、精巧な複製を集めた複製正倉院展やその常設展示だ。これは奈良博にいつ訪れても、正倉院御物に接することが出来ればよいという人の期待に応えるだろう。複製は複製なりに面白いし、どのようにして複製したかの技法的な説明を同時に行なえば、手づくりで今でも同じものを生むことが出来るという、それこそ物づくり精神の伝達の役目を幾分かは果たすのではないだろうか。
 さて、正倉院の宝物は中国で作られたものや、中国からもたらされたものが数多いが、光明皇后が聖武天皇亡き後、756年に東大寺の大仏に遺物を奉献したものあって、東大寺の所有物と言ってよい。だが、光明皇后の施入から約30年後に朝廷から曝凉使が派遣され、東大寺側の立会いのうえ、御物の点検がなされた。その後も3年や5年、あるいは50年、100年という間隔を置いて同じようなシステムで曝凉が続けられ今に至っていて、勅封、つまり天皇の命令による封印によって厳重に保管されているために、全面的に東大寺の持ち物とは言えない事情がある。それはさておき、どこの所有物にしろ、今まで1250年もの間、ずっと保存されて来たことと、宝物と一緒に納められたいわゆる目録と、伝わる宝物が一致している由来正しき点が、世界的にも希有なことと言われている。正倉院宝物と同時代の同じようなものはほかにもあるが、それらはこの由緒がわからなくなっている。そのためにあまりありがたみがない。これは考えてみればおかしいことのようだが、現代でも美術品に鑑定書があるのとないのとでは価値が全く違うのと同じことで、権威による保証づけというものが何事にも必要なのだ。したがって、正倉院展に足を運ぶ人は天皇によってしっかりと守られて来た宝物を拝むという意識を持つ人が少なくない。もし、正倉院の宝物が現代において外国からお金を出して買ったものやどこかの山から発掘されたものであれば、今のような丁重な扱いは受けない。光明皇后が納めた756年は中国では唐時代真っ盛りだ。先日書いたように唐は平和な時代であった。李白や杜甫などが出現して文学、美術が最盛期を迎え、阿倍仲麻呂が遣唐使として長安に赴き、科挙に合格するなど、日本との交流も深かった。そうした当時の国際都市としての中国文化の香りがそのまま密閉された形で正倉院に伝わっていて、その実物が毎年ガラス越しにしろ拝めるのはやはりありがたい。江戸時代ならば庶民はまず見ることもかなわなかった。中国には正倉院どころではない、さらに1000年以上遡る、しかも迫力のある宝物が何万点も発掘され続けていて、しかも日本の百貨店内の美術館で気軽に見られる機会が少なくない。それを思えば、正倉院御物に大騒ぎする必要は何だかおかしい気もするが、伝承がはっきりしているうえ、天皇による勅封という一種の神秘性を帯びた儀式と相まって展示されていることから、ありがたみという点で比較にならないのだろう。中国でも同じように、古代王朝の発掘品の名品を門外不出扱いにし、毎年ごく限られた期間のみある一定の場所で厳かに展示する方法を採れば、もっと重要性が増して見え、それを鑑賞するために観光客が大挙して押し寄せるかもしれない。しかし、そういうことが今後実際に行なわれないとも限らないし、また正倉院御物も毎年の曝凉はあるとしても、博物館での展示は見合わせるという事態が出て来る時代も来るかもしれない。そうすれば、またよりいっそう正倉院御物のありがたみが増すことになる。何でも見せ過ぎると価値は下がる。さて、来年はどうしようかだが、ついでに別のいい展覧会に回れるのであれば出かけたい。つまり、来年になってみなければわからない。
by uuuzen | 2005-10-31 23:55 | ●展覧会SOON評SO ON
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