「
慕う」は芳中が女性であるような気がして来るので、ほかにもっとよい言い回しがなかったかと思う。琳派は戦後京都の出版社が西陣の帯の図案を描く人向けにさんざん発掘されたと言ってよく、その流れの中で芳中の作品も図版で紹介されて来た。

また琳派の流れを汲む近代の作家に神坂雪佳がいて、戦後の京都の図案家はそういう流れの遺産を受け継ぎながら、新琳派と呼ぶほどの仕事をした人はいない。ここ2年ほどか、京都の高島屋では中元歳暮の宣伝に木村英輝の図案を採用し、その直前には神坂雪佳の図案を用いていたことを思えば、新琳派の代表格は木村英輝と認められていると言ってよいかもしれない。木村の作品は濃い青や赤で描いた対象の輪郭を金泥で縁取るもので、祇園のどこかの寺の襖に蓮の絵を描いて有名になり始めた。だがそれは正直なところ、ひどい作品で、中学生が描いたかと思ったものだ。同じ画風のまま、対象をもっと細かく描くようになって来て、ここ1,2年でようやく画家と呼べるような出来栄えが見られるようになった。人気が出ると引く手あまたで、数をこなさねばならず、自然と画風は洗練される。今はちょうど絶頂といった時期にあるようで、今年の祇園祭の間、高島屋の1階ホールでは彼が描いた屏風も展示されていた。彼の画風は琳派を多少思い出させる。見る人によれば多少どころか、現代の琳派の代表格で、ようやく雪佳の後継者が現われたと言うかもしれない。それはさておき、今日は細見美術館で6月29日まで1か月ほど開催された中村芳中展について書く。水曜日に行ったのはチケットに貼られた臙脂色の入館証からわかるが、いつであったかは今すぐにはわからない。今日のように雨天であったから、それから調べればわかりやすいか。鳥博士さんから送ってもらった招待券を使ったが、本展はまとめて送ってもらった招待券のうち、最後に感想を書くものだ。チラシがすでに当館になく、図録を買わなかったので、いつも以上におおまかな感想になる。芳中の展覧会は初めてのことだ。千葉で開催されたものが巡回して来たのか、それともたまたま重なったのか、そのことも調べていない。細見美術館は若冲と琳派の作品で有名だが、芳中は収集の対象になっていたのだろう。とはいえ、本展の芳中画に同館の所蔵作品があるのかわからない。筆者が芳中の名を知ったのはいつのことだろう。友禅工房にいた頃には知っていたが、関心はなく、琳派のひとり程度としか思わなかった。「派」というのは、何と言っても創始者が一番で、その後はみな小粒だ。同じことは上田秋成も書いている。四条派や円山派など、どれも最初の人物が高い峰で、その後は坂が下がる一方で、やがて平らになる。光琳以降琳派の代表格と言えば何と言っても酒井抱一だろう。そのことを如実に示すのが、1970年の大阪万博時に発売された切手だ。数種発売された最高額の50円は2種あって、最初は光琳の「燕子花図屏風」が選ばれた。その翌年だったか、万博が開催されるという日に、今度は抱一の「秋草図屏風」が図案に採用された。前者は金地、後者は銀地の絵であるからちょうど対になってよいと考えられたのであろう。琳派からふたりの代表作を選ぶとすると、それらの作しか思い浮かばず、よい選択であった。ではもし3種が発売される予定であればもうひとりは誰の何の作品が選ばれたであろうか。抱一と同時代に生きた芳中も光琳に私淑し、さらに琳派そのものの絵をたくさん描いたが、誰もが知る代表作はない。それどころか知名度もほとんどない。そのために本展が今頃開かれた。もっと早く評価し、研究が進んでいればと思うが、過去の画家にしても今の人気に左右される。とはいえ、一度でも展覧会が開催されると認知度が大きくなり、作品を欲する人が出て来て古美術商も埋もれていた作品をさらに熱心に探す。

切手つながりで書いておくと、芳中の絵は切手図案に採用されたことがある。20年ほど前か、琳派シリーズとして8種が出た。中途半端な数で、よほど図案のネタに困ったのだろう。渡辺始興が62円のアザミ、光琳が41円の桔梗と50円の梅、抱一が62円の桜、80円の寒椿、其一が41円の百合と62円の菊、そして芳中が41円の芥子で、これが一番目立つ赤い花だ。額面がいろいろで、はがきが41円から50円に、封書が62円から80円に値上がりした頃の発売であることがわかる。始興と芳中のみ1点で、これは琳派に占める位置をよく表わしている。始興に始まって芳中で琳派は終わったという見方でもあるが、芳中の1点は抱一や其一に比べると知名度も画家としての格も半分ということを示している。またそのことに異存はないだろう。本展はそういう一般的な見方に異論を唱えるために企画されたかと言えば、それは見る者次第で、やはり今までの評価は当たっているなと思う人と、今後は大いに再評価し、琳派を今一度考えてみようと言う人もある。細見美術館としては、おそらく系統的に琳派の作品を集めて来たこともあって当然後者の牽引役を担おうという自負があるだろうが、本展は芳中の作品だけではなく、同時代の大阪の画家の作も並び、どちらかと言えば琳派の中での位置より、芳中が生きた時代の大阪画壇の中での見え方を紹介したかったように見えた。その点は大阪画壇展があまりにも少ないので非常に好ましいが、京都で大阪画壇を紹介しても人気は得られないだろう。前にも書いたが、大阪人は京都に頻繁に来るが、京都人は大阪に関心がない。それはいいとして、芳中は生まれた年がわからず、それほどに画家としては小粒ということも出来る。だが大阪の画家は家業を持つ傍ら手すさびに描き始めるといった人が少なくなく、また大阪ではそういう旦那芸を持つことがいいとされた。今はそんな旦那はおそらく皆無で、外車に乗ってゴルフ三昧が上流の証しと思っている。ま、それもいいとして、芳中の絵は次第に認められるようになって行ったようで、その点は岡田米山人と同じだが、芳中は漢詩を詠み、それを自作の絵に書き込むといった趣味はなかったようで、光琳風の絵を好んだ。それは図案的すなわち装飾的で、描くのも速かったと想像出来る。たっぷりと墨を含ませた筆で太い線を引くからで、対象はかなりおおまかに捉えられ、漫画的すなわちどこか微笑ましい、ゆったりとした絵になる。そういう画風は同時代に松本奉時や耳鳥斎にも見られ、また味わいの点では米山人にも通じる。そうした画家は大阪ならではの特質を示していると言ってよく、またその特質は今は漫才に伝わっているし、戦後すぐ辺りでは漫画があった。となると、大阪文化がもっと評価されると芳中の画業ももっと見直されるのではないか。何しろ耳鳥斎や奉時、それに米山人にしても同じだが、あまりにも一般的には知られない。そう言えば本展では珍しいことに奉時や蒹葭堂の作品が多少並んだが、それだけでも本展を訪れる価値があった。
芳中の作品は最初の部屋の正面に梅を描いた金地の二枚折り屏風が展示されたが、筆者は感心しなかった。芳中の持ち味はよく出ていたが、光琳を田舎っぽくし、また極限まで単純化した様子は、梅の香りがどうのこうのという前に一種の抽象画を思い出させ、耳鳥斎ほどではないが、光琳を笑い飛ばしているように感じされる。「慕う」というのはもっとしっとりした情感を意味するが、芳中にはそれは欠如している。そのため、よく言えば逞しさだが、悪く言えば光琳をおちょくっていて、またあまりにも大味で、抱一のような繊細さは皆無だ。そこが町人と殿様の資質の違い、そして大阪と江戸との違いかもしれない。とはいえ、乙に済ました抱一より開けっぴろげな芳中の方が親しみが湧くという人も多いだろう。抱一のなよっとした感じは芳中にはなく、かと言って粗放でもなく、おおらかで温かい。また、光琳と同じような筆法と意匠化でありながら、芳中らしさがあるのは筆の無限の妙味と言うか、書道に似た味わいを感じさせる。そういう見方は光琳や宗達の絵にもあって、現代の鑑識によっても光琳や宗達の絵は真筆かどうかわからないものがおそらくかなり混じる。そこで真筆の疑いのない作を基準として、それと同じ味わいを漂わせている作品を「ま、真筆としてよいか」といった判断を下す。そしてそうした光琳や宗達の作品が決して芳中の作と言われないのは、芳中の代表作に彼独特の雰囲気があるからだ。梅を同じ単純な曲線によって墨で描きながら、光琳であったり宗達であったり、また芳中であるのは、まさに書と同じではないか。同じ「梅」という漢字を書いても、人によって感じが違う。だが、筆を日常的に使わなくなった今、光琳や宗達のような梅を描いても、そこに見るべき個性を込めることは難しい。その意味で芳中や雪佳は琳派の最後を飾ったと言える。話を戻して、芳中の画風は先の切手からもわかる。8種のうち、筆者が今なおよく覚えているのは芳中の芥子で、それは切手図案にふさわしいほどに大胆であり、また目立つ。言い代えればまさに図案的で、したがって切手にはふさわしく、その分現代的ということだ。だが、それは匠になろうとして獲得した技術ではないような気がする。とても光琳に肩を並べるほどの才能がないという自覚があり、どうにか光琳風を目指した結果辿り着いた境地で、屏風のような大作より、本の大きさ程度の小さな画面にいい持ち味が出ている。そう思わせるのは江戸で刊行した『光琳画譜』で、これは抱一の『琳派百図』より早かった。また『光琳画譜』は光琳の絵をそっくり縮小して本に収めるものではなく、どの図も芳中ならでは描き方となっていて、全体にユーモアが強い。それを光琳が見ればどう思ったか。だが100年も減れば世の中はすっかり変わる。光琳の神髄は伝達されるが、それに私淑した者はそこに自分の個性を積極的に盛ろうとしなくても時代性は込められてしまう。芳中はそのことをよく自覚しながら、光琳はまなぶべき先達で、また学ぶほどに自己表現も出来ると思っていたであろう。これは光琳が何もかもやり尽くしたようでいて実際はそうではないことを意味している。そして今なおそうとみなし、光琳の後塵を拝しようとする人はいるだろう。