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●『バルテュス展』
でもくれると思ったのか、昨夜表に出て満月が雲の隙間から全身を見せるのを30分ほど待ち続けていると、赤い首輪をつけた白猫が筆者に向かってゆっくりとやって来て、1・5メートルほどのところで招き猫のような形で固まった。



●『バルテュス展』_d0053294_22563368.jpgもちろん招き猫のようにどちらかの手を挙げたのではないが、何となく筆者の方から今度は近寄ってくれることを期待している様子だ。筆者は犬も猫も苦手な方で、白猫には素知らぬ顔でまた仰角45度ほどにある満月を半ば隠し続ける厚い斑雲を見上げた。その猫は本当に空腹であれば筆者にもっと接近し、甘える鳴き声を発した。そうでなかったところ、さほど空腹でもなく、また首輪をしているので飼い主から充分食べさせてもらっているに違いない。では近寄って来たのはさびしさからか。それとも変なおっさんが暗闇に立ち尽くしているのが気になったのか。猫は人間より暗いところがよく見える。それで筆者の興味なさそうな表情を読み取り、「ふん! 何だ、遊んでくれないのか」と思ったかもしれない。さて、今日取り上げる展覧会は京都市美術館で9月7日まで公開しているバルテュス展だ。TVで同展の特集番組を家内が見た。何年も前にもバルテュスの日本人の奥さんである節子夫人がTVに出たことがあって、その番組も家内はよく覚えていて、それでふたりで本展を見に行くことにした。今回の展覧会のチラシには『「20世紀最後の巨匠」再び、京都へ』と最上段に赤で印刷されている。筆者が最初のバルテュス展を見たのはいつのことか。確か図録を買ったはずだ。先週調べたが、見当たらない。買っていないかもしれないと思い直し、また別に日にもっと時間をかけて調べた。それでも見つからない。だが確かその特徴的なデザインの「Baithus」という文字を図録の背文字にあるのを記憶している。そしてその背表紙は白で文字は黒であった記憶がある。つまり、図録は絶対にわが家のどこかにある。それでまた調べることにし、今度は最も時間をかけることにした。そしてようやく見つけたが、背表紙は黒に近く、文字は白抜きであった。だが特徴的なタイポグラフィは記憶どおりで、また図録の厚さや版型もそうであった。二度目となる今回の展覧会の図録はもっと小型で、印刷もあまりよくないので買わなかった。というより、最初の展覧会の図録を持っているのでその必要がないと考えた。ようやく図録が出て来たのでこれを書くことを決心したが、その図録の表紙裏に記してある購入年月日を見て驚いた。1984年6月17日だ。30年ぶりに展覧会が日本で開かれた。当時筆者はひとりで同じ会場の京都市美術館に見に行ったのか。記憶が定かでない。同展はよく覚えているが、鮮明な記憶のひとつは阪急松尾駅に貼ってあったポスターで、それは車窓からもよく見えた。そこに印刷される作品が今回も並んだ「金魚」と題する油彩画であった。そのポスターを見てからもう30年も経つとは信じられない。今も松尾駅に行けばそれが貼られている気がする。駅の様子は全く変わらないからでもある。
●『バルテュス展』_d0053294_2256597.jpg

 当時バルテュスは健在で、彼の望みどおりに自然光が入る京都市美術館が会場に選ばれた。アトリエと同じ自然光の下で作品を見てもらいたかったのだ。つまり、当時は同館のみの開催で、その特筆すべきことから大いに話題になり、筆者は大勢の客に混じって鑑賞した。30年も経つと新たな世代が育っているから再度バルテュス展が開催されるのは望まれるところだろうが、前回と同様にポスターは自治会の掲示板に貼られているにもかかわらず、人の入りはさほどでもないのではないか。それはともかく、今回は作品の選定や照明に関してどれほどバルテュスの望みが実現したのか。また気になったのは会場を出てすぐの大きな部屋でのグッズ販売だ。そんなものは30年前にはなかった。今回はさまざまな食べ物や紅茶から置物、豪華な限定本、絵具、フィギアの類まであって、百貨店売り場と変わらない。最近は同様のグッズ販売が展覧会では常識化している。何か記念になるものがほしいという客の要望に応えるためという理由だが、本音は金儲けだ。それは節子夫人や娘さんの望みでもあるのだろうか。本会場を出てすぐ、グッズ販売の大部屋の最初のコーナーでは篠山紀信が撮影したバルテュス一家の大判の写真がたくさん飾られていた。どれも初めて見るもので面白かったが、いつ頃の撮影なのだろう。節子夫人はいつもキモノ姿だが、バルテュスは紋付袴で写真に収まり、バルテュスによく似た娘さんが20代半ばくらいに見えていた。今調べると1993年にその豪華写真集が出版されている。日本での展覧会の9年後で、同展以降急速に人気が高まったのだろう。ま、その写真集の延長に本展、そして多彩なグッズ販売で、バルテュスは日本のタレント並みに有名になった。30年ぶりの展覧会であれば大半が同じ作品であってもいいようなものだが、筆者のように30年前のことをよく覚えている美術ファンが大勢いるはずで、特別の何かがほしい。そうして選ばれたのがバルテュスの最後のアトリエの再現だ。使っていた絵具やタバコの吸い殻まで持って来られ、会場の片隅にアトリエの一角が出現した。ただし窓枠の外は写真であるし、全体が作り物であることはいやでもわかる。むしろ映像の方が実感があって、そういう考えを予期したためか、アトリエで絵の説明をする生前のバルテュスの映像が場内で見ることが出来た。それは若い頃の面影を残しつつも死期が遠くない痩せた老人で、また怒りやすくなっていることもうかがえた。バルテュスは1908年にパリに生まれている。亡くなったのは2001年で、ピカソ並みに長命であった。晩年のピカソにはエロティックな作品がたくさんあるが、バルテュスもエロティシズムを感じさせる作品で有名だ。それも少女を描くのでロリータ趣味かと誤解される向きがある。そのことをバルテュスは気にしていたようだが、少女すなわち処女には大人になり切った女性とは違う無垢性があり、その神々しさを描きたいと考えていた。つまり、卑猥な連想をするのは間違いで、それは鑑賞者が穢れているからということになる。グッズ売り場の大部屋の写真の中に、キモノ姿のバルテュスが10歳くらいの少女をソファに座らせ、彼女を描いている様子を背後から撮ったカラー写真があった。それを見た観客の中年のおばさんは、「何かおかしいね、近所にこんなおじさんがいれば怖いわ」と言っていた。90近い老人が幼ない少女を前に描くことに異様さを見ているのだが、筆者はそうは思わなかった。90になって突然少女に興味を抱いたというのではなく、20代後半にはもう描いている。それを最晩年まで繰り返し描いたに過ぎない。それにバルテュスは風景画にもいいものがたくさんある。
 バルテュスはルネサンス以降のヨーロッパ絵画によく学び、特にピエロ・デラ・フランチェスカやシエナ派の画家に関心を持った。最晩年と思うが、シエナ派の絵画とアジア美術、そしてもうひとつ何か取り上げていたが、それらはみな同じといった発言をしている。それは彼の作品を理解するのに便利な言葉だ。繰り返し描いた少女像はシエナ派のたとえばシモーネ・マルティーニの聖母の顔に似たものがあり、雰囲気も共通している。特にマルティーニの絵に似ているのは、彼が1962年に日本に初めてやって来た時に知り合った節子夫人を描いた絵だ。彼女とは5年後に結婚するが、節子夫人は究極のバルテュス好みの女性であったのだろう。30年前展には持って来られなかった彼女を描いた代表作「朱色の机と日本の女」は、今回は本画や習作2点が並んだが、習作は64年、本画は67年から76年の製作と目録に記されている。10年以上要しての完成で、それほど時間がかかったのは彼女を描いた最高の作品にしたかったからであろう。本画は肌の白と朱色の机の対比が肉筆浮世絵で裸の女性を描いた作品を想起させ、バルテュスはそうした作品を知っていたのだろう。ただし、絵に近づくとマチエールの粗さにびっくりさせられる。遠目にはそうは見えないが、近づくとまるでざらざらの壁面のようで、筆ではなく鏝を使って描いたかのような絵具の凹凸ぶりだ。カゼインとテンペラを使ったことが記され、技法にこだわったことがわかる。会場の中間にある休憩所ではバルテュスを紹介するTV番組だと思うが、10数分の映像を見ることが出来た。その中で彼は自分のことを職人と呼んでいる。そしてどのような芸術でもまず職人であることが求められると語っていたが、彼の言うようにそのことはいつの時代でも忘れられがちだ。職人ということは毎日仕事をするという意味で、また巧みな手仕事も意味する。頭だけでは作品を生み出し得ない。頭と手がうまく連動して初めて名作が生まれる。そしてその手技は何十年もの間、毎日精進することで維持出来る。小手先で真似をしてもすぐに底が知れてしまうもので、そういうことは「朱色の机と日本の女」を見ればわかるし、またその製作年月の長さを知ると、納得行くまでにどれほどの推敲が必要かも理解出来る。また同作は節子夫人を前にして彼女の神秘を画布に定着させるのに、今までとは違う構図や色合い、また技法を持ち出さねばならなかったかを示しているが、描きたい少女に出会うとまた同じことを振り出しから始める。それには時に過去の巨匠の作品が模範となる。バルテュスは自分の審美眼にしたがってそれらの作品のある部分に執着し、転用したが、それは表面的な模倣ではない。それら気になる過去の巨匠の作に潜む謎めいた神秘性とでもいうものを、換骨奪胎して自作に蘇らせる。それは西洋絵画の偉大な歴史につながることで、一方ではアジア美術にも強い関心があって、日本の女性と結婚したほどだ。
 本展で最初に目を引いたのは、前回は展示されなかった『ミツ』と題する本だ。これはバルテュスが13歳で描いた40枚の絵をまとめたもので、序文を母が親しかった詩人リルケが寄せている。『ミツ』は飼っていた猫の名前で、日本名だ。バルテュスは10代から日本や中国に関心があった。これはバルテュス以前のフランスにおけるジャポニズムやシノワズリの流行と関係がある。遠い異国に神秘性を求めた西洋人で、その伝統上に少年バルテュスはいた。そして、第1、2次世界大戦以降、日本とヨーロッパの距離はうんと縮まり、62年にアンドレ・マルローの要請を受けて日本の古美術を選定するために来日した時には節子譲と出会う。それはともかく、『ミツ』の50枚の黒一色の絵はもう後の画業を予告している。バルテュスはイギリスのエミリー・ブロンテの小説『嵐が丘』に心酔したようで、その墨一色の挿絵をヒトラーが政権を握った1933年から3年要して17枚描いている。30年前とは違って今回はその全点が展示され、バルテュスが同小説のヒースクリフに自己投影しているように思えた。バルテュスの生涯や絵画は静謐だが、その底には激しい情念が渦巻いていると見るべきかもしれない。またそのことはシュルレアリスムのグループでもジョルジュ・バタイユと仲がよかったことからわかる。またシュルレアリストたちは過去のヨーロッパ絵画を再評価したが、バルテュスもそうであった。だが、グループを作ってその一員として行動するというところはほとんどなかったようで、名声も他の巨匠とは違って孤立している。その点は猫好きという性質から説明出来そうだ。30年前に松尾駅のポスターに印刷されていた「金魚」と題する絵にも猫は描かれているし、同展の図録にも餌をこっそり取ろうとしている猫が、少女が前屈みになるテーブルの下にいる。30年前展ではミロとその娘を正面から描いた全身像の油彩画が出品され、バルテュスがいわゆるまともな、つまり写真のように正確な肖像画を描く才能を持ち合わせていたことがわかるが、ミロとそれなりに交友があったのが興味深い。バルテュスはジャコメッティと一番親しかったのかどうか、彼を正面から描く鉛筆による素描が今回展示され、またアトリエに彼の彫刻がある様子の写真もあった。30年前展ではマティスやボナール風の作品も並び、それなりに同時代に生きた画家とのつながりがうかがえるが、代表作はバルテュスならでは世界を描き、ルネサンス時代の巨匠を除けばあまり他の画家とのつながりが見えない。つまり、猫のように孤独に充足している。その猫が10代の『ミツ」では主人公になっているから、彼の芸術は最初から最後まで一貫している。
 もうひとつ強く目を引いたのは10代半ばに箪笥に描いた絵だ。その家具は最初からどうかわからないが、全体が水色で、その扉や側面などに濃い青で中国の山水画の略画が描かれている。家具に描くのであるから装飾画ということになるが、10代半ばにそうした絵を描いたことは、先に書いたシエナ派とアジア美術は同根という言葉をやがて述べることを納得させる。その同根性は装飾性であり、また神秘性でもある。中国の山水画の実物をどれほどバルテュスが知っていたかはわからないが、その神秘性は見抜き、また強い憧れがあったようだ。それがやがて独自の風景画へとつながって行くが、最晩年の風景画は中国の山水画の西洋からの返答といったもので、バルテュスは仕上がりを大いに満足していたようだ。そのことは映像での表情からわかった。シノワズリの流行によって、たとえば日常使う磁器に中国の風俗を描いた文様がたくさん用いられたが、そういうものにバルテュスは生まれながらに接してやがて意識し、箪笥に描いた。10代ではまだ本格的に関心を持って探究しようという段階ではなかったが、自己を見つめるほどに幼少年時の出会いは膨張し、また決定的な意味を持っていると自覚するようになる。30年前展で最もよく記憶する作品は縦245、横353センチの巨大な油彩画「山(夏)」で、これは風景画とも言えるし、人物画とも言える作で、一度見れば忘れ難い。アメリカのグランドキャニオンのような場所を描いた作で、それもあってニューヨークのメトロポリタン美術館にあるのかもしれない。図録には説明がないのでどこを写生したのかわからないが、バルテュスはクールベも好んだようで、スイスに近い彼の故郷の山地かもしれない。この作品は写実的な風景の中にさまざまなポーズを取った男女を近景から中景、遠景に7名配置するが、どの人物も眼を合わさず、またばらばらのようでいて、構図は練りに練られている。その点は若冲的でもある。バルテュスは構図には特にこだわったようで、少女を描くにしても幾何学的構成を忘れなかった。その「夏」に出会えると期待したが、出品の交渉がうまく行かなかったのかもしれない。バルテュスの生前とはやはり違うということか。その代わりと言っては何だが、「山(夏)」の習作が持って来られた。これもメトロポリタン美にあるが、本画とは違って人物は少ない。大画面に引き伸ばすに当たってもっと多くの人物の必要を思ったのだろう。植田正治の写真を思わせるが、30年前展に並んだ「コメルス・サンタンドレ小路」はまさにそんな作品で、個々に写生した人物を街角に配置した作だ。「20世紀最後の巨匠」という呼び名はもう何となく古くさいし、また「巨匠」とわざわざ呼ばなくてもいい気がするが、そのようにでも書いて多くの人に見て知ってもらおうという思いはわかる。それは30年前展以降に日本のTVなどでよく顔が知られるようになった節子夫人の思いであろう。バルテュス亡き後、彼女の役割はそれこそ20世紀の絵画の歴史に夫の名前が巨匠として輝き続けさせることだ。とはいえ、人の命は短い。後は作品だけが残る。
by uuuzen | 2014-08-12 22:57 | ●展覧会SOON評SO ON
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