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●『神に選ばれし無敵の男』
りというものが一昨日取り上げた『ハヌッセン』にはあった。同じ実在の人物を取り上げながらヘルツォークのこの映画はデジタル時代特有のと言えばよいか、奥行きに乏しいような、また鮮明過ぎる画面で、監督としては小道具や化粧など、苦労するところが大きかったように思う。



●『神に選ばれし無敵の男』_d0053294_1242211.jpg本作を見たのは1年ほど前だ。ヘルツォークのまだ見ていない映画として気になっていて、中古のDVDを買った。見た直後に感想を書けばいいものを、同じ人物を取り上げた『ハヌッセン』と題する映画が13年前の1988年に撮影されていることを知り、それを見てからにしようと決めた。同作はDVDがないようで、中古ビデオを探し続け、ネット・オークションで手に入れた。同作と本作を比べて何がどう違うのかを考えるのが面倒というか、本作を半ば以上忘れてしまい、結局どちらの感想も書かなかった。だが、ずっと気にはなっていた。それがようやく今頃になったのは、『八月の砲声』を見たことによる。本作はヒトラーが政権を握る直前の1932年のおよそ1年における、ハヌッセンの館で雇われるユダヤ人青年ジシェの物語だ。ハヌッセンは脇役に近いため、『ハヌッセン』に比べると焦点がぼやけている気もするが、ユダヤ人の物語という視座は明確だ。特典映像にあったと記憶するが、本作製作の資金を出したのがアメリカのユダヤ人の金持ちのようだ。それで本作は全員が英語を話すという、かなりの違和感を与えるものとなったし、また『ハヌッセン』のように照明が乏しく、全体に暗い場面が多いものとは違うものを意図されたのであろう。もちろんこの「暗い」は「色彩が」の意味で、映画を見ていて気分が暗くなるというのではない。ナチが登場するので、どちらの作も恐怖を与え、それゆえに気分が暗くなると言えるが、本作では先に書いたように画面が明るく、また凄惨な場面すなわち血が流れる場面はほとんどなく、ナチの残虐な行為は観客の想像に委ねられるのみだ。たとえば、映画の終わり近くでハヌッセンはナチ党員に連行され、その後森の中で死体で発見されるが、ヘルツォークが写すのは彼の靴のみだ。そして20発ほど銃弾を撃ち込まれ、顔や体の半分ほどが猪に食べられていると立ち合ったジシェに検視官は告げる。ナチは残虐なことを平気でハヌッセンに対して行なったが、そのおぞましさはいわば観客はナチの行為として、あるいは殺人事件の多さによって慣れ、不感症になっている。それよりも印象深いのは、ハヌッセンがナチに連行される際、死ぬ間際まで華麗でいたいと主張し、党員を少し待たせてマントを羽織る場面だ。ナチは制服によって自分たちがいかに格好よく人々に見えるかを意識した。ところが実際は格好悪い連中で、暴力者の集団であったことは本作でも描かれる。それに対しハヌッセンはどうかと言えば、伊達男であって、ナチを手玉に取って大金をつかみ、観客に対しては巧妙な騙しの技術で超能力を信じ込ませる。その危うい綱渡りを彼は自覚していた。それでもその危険な生き方を止めなかったのは、ナチを侮っていたからだろう。ナチも普通の連中と変わらないどころか、もっとオカルトに関心があり、信じ込みやすい性質と看破していた。ではなぜそういうハヌッセンがナチに殺されたか。本作では彼がユダヤ人であることをジシェによって法廷で暴露されてしまうことと理由づけている。ナチがユダヤ人嫌いであったことを知っていたハヌッセンはそのことを隠し、またいくつもの名前を持って各地を転々としながら生き延びて来たのに、ついに運が尽きたと言えばよいか、あるいはジシェの素朴で素直な心に同意したと言うか、自己の出自を認めることになる。
 本作で描かれるようにハヌッセンはナチが政権を獲得するとそのオカルト省の大臣になることを夢想していた。それでナチのお偉方に接近し、仲良くもなったものの、夢はかなわないままに死んだ。ナチに殺されたのは確かなのだろう。その理由はユダヤ人であり、また彼の千里眼はすべて助手をうまくつかったイカサマであったことをナチが知って憤慨したというのが本作の考えで、それは多くの人々に事実として認められているのだろう。何しろ13年前に映画『ハヌッセン』が世に出ているから、ヘルツオークは新たな物語を書く必要に迫られ、また投資してくれたユダヤ人の意向もあって、ユダヤ物語の側面を強調すべく、ハヌッセンと同格かそれ以上に重要なジシェという青年を持ち出すことにした。彼も実在の人物であることは本作の最後のテロップでわかるが、有名であるのはユダヤ人社会のみではないかと思う。それに1932年という昔であり、本作が撮られた当時のジシェの有名度はユダヤ人社会でもかなり低かったのではないか。あるいはヘルツォークは投資家にジシェのことを教えてもらったかもしれない。それはともかく、ジシェはポーランド東部のユダヤ人村で鍛冶屋の父を手伝っている。力持ちで有名で、ユダヤ人の間で「現代のサムソン」と呼ばれるようになる。「サムソン」と聞けば「デリラ」で、これは誰でも知っている名前だが、その物語となると旧約聖書であるから、聖書好きでなければ深く理解することは難しい。筆者はその口で、本作が暗示する旧約聖書がどの部分でそれが現在どういう意味を持っているのかさっぱりわからない。たぶんユダヤ人はわかるのだろう。あるいはキリスト教に馴染みのある人ならばわかるか。本作の始まりはジシェとその小さな弟が登場し、ふたりが一羽の雄鶏を目の前にして語る。弟は頭がよく、そのことをジシェは自慢もし、一目置いてもいる。弟は雄鶏に関する寓話を兄に話す。それが本作全体にどういう影を落としているかは本作を一度見ただけはわかりにくい。その話はだいたいこういうものであったと思う。雄鶏は裸で孤独に暮らしていた。そこに服を着た王子が現われ、ふたりは仲良くなって雄鶏も服を着る。だが、雄鶏は雄鶏であって、服を着てもそのことは変わらない。弟が兄に話すこととしてはえらく大人びているし、またその話が実際は何を意味するつもりであるかはわかりにくい。ユダヤ人はどれほど自分の出自を偽ってもユダヤ人であることに変わりがないという意味だとすれば、弟は早くも世界を達観して将来を絶望しているようでもあるし、またユダヤ人としての矜持を持っているとも言える。おそらくそのどちらの意味も込めているのだろう。この弟の話に続いて起こることはジシェの力持ちぶりが遠くに轟き、ベルリンから興行師がやって来てベルリンに来ないかと誘う場面だ。ユダヤ村にいて鍛冶の仕事をして一生暮らすのもいいが、せっかくの才能を使うことを試してみたい。ここには聖書のサムソンの物語の反映がある。サムソンは妻にしたいペリシテ人の女性がいて、それがやがてデリラとなって行くが、ジシェも同じように女性と出会いたいと思っている。そしてベルリンに行けば田舎では出会えない女がたくさんいるといった話も耳にする。ポーランド東部からベルリンまでの一等席の切符をもらったというのに、倹約家の彼はそれを換金して子だくさんの母親にわたすつもりで、徒歩でベルリンに向かう。それはかつて青年のヘルツォークが敢行したミュンヘンからパリへひとりで向かう徒歩旅行を想像させ、また距離は短いが、それでも500キロはある。面白いことに本作においてヘルツォークは、ジシェのその旅の場面でユダヤ人の若者の集団と出会わせる。彼らは農民で、数人は楽器を手にして音楽を奏で、ジシェは歓迎される。その中のひとりの若い女性は色目を使いながらジシェに接近し、ジシェがサムソンと呼ばれて有名であること、そして自分の名前はデリラだと言う。その後ふたりは一夜を明かしたかもしれないが、ヘルツォークは集団が平原を歩んで行くところで場面を切る。本当のデリラはベルリンにいるとの設定だ。
 ベルリンに着いたジシェはローマ時代のグラエィエーターのような格好をさせられてハヌッセンのショーに力持ちとして参加する。その演目はたとえば体中に鉄の鎖を巻き、それを一気に切るといったことで、まさにサムソンそのものだ。重量挙げの芸もあって、これらは実際にジシェ役を演じたフィンランドの大工であるヨウコ・アホラの能力で、見事な筋肉ぶりを見せる。本作にはヘルツォークのこだわり派である側面が特によく目立っている。金のかけどころをよく知っていて、ほんの1,2秒に大金を投じる。細部の手抜きが全体を台無しにしてしまうことをよく知っているからだ。だが21世紀に入って1930年代の世界をきめ細やかに見せるのは難しい。どこまで凝るかは金次第で、またどこまで凝っても切りがない。CGを使えばいいようなものだが、それは全くヘルツォークの考えに反する。彼はドキュメンタリー向きで、事実は小説より奇なりを信じているところがある。どっち道、金をとって見せる映画であるから面白ければいいという考えによって、細部に何のこだわりも示さない映画があるが、ヘルツォークは出来れば映画の出来事が現実にあったことで、観客が見ている前で起こっていることは、演技ではなく、本当のことだと思わせたい。だが観客は、俳優たちがどのように演技しようが、また監督がセットに凝ろうが、それらはみな作り事であることを知っている。それでもなお迫真性にこだわるヘルツォークは、ジシェのような世界一の力持ちを演じるには同様の力持ちでなければならず、またジシェが出会うベルリンの女性であるハヌッセンの愛人兼ピアニストのマルタの場合は本物のピアニストを探して来て演技させる。それらは言われなければ観客にはわからないこととも言えるが、ヨウコ・ホコラの見事な体格やマルタを演じるアンナ・ゴウラリの演奏ぶりは見て即座に本物とわかる迫真性を持っていて、それらは映画に風格や気品を持たせる。それでもなお、映画を見ている間、見終わってからも、作り物という感覚は拭えない。そのことをも知っているヘルツォークは別の工夫を凝らす。それはジシェが見る夢で、二度出て来る。どちらも大量の赤い蟹が海岸を埋め尽くし、そこにたたずむジシェの姿だ。その夢はいかにも夢とわかる色彩の加工を施さないから、映画の他の部分すなわちジシェが現実として動き回る映像部分と一見見分けがつかないが、夢であると断られているので観客は夢と思い込むし、また赤い蟹の集団は夢のような奇妙な光景だ。ところが、その蟹の蠢きはたいていの人に不気味さを感じさせるので、その点でとても現実的で、ドキュメンタリー映像的とも言える。そうなると、一気にその夢以外の本編映像は夢に思える。そして本編が夢であれば、多少資金のかけ具合がわかるような、つまり作り事が感じられる場面があってもさほどそれが不自然とは思えなくなる。蟹の登場はほとんど最後近くにももう一度ある。そこではジシェの弟も登場し、ジシェは彼を猫を扱うように後ろ襟をつまんで目の高さに上げて、赤い蟹が這い回る岩場を移動する。そして弟はジシェの手を離れて空中に浮遊し、ゆっくりと飛び去って行く。その場面は夢であるからそういう奇妙なことがあっていいと観客は納得しながらも、筆者は感動した。その飛び去る姿はたぶん3秒ほどか。たったそれだけのためにクレーンをどう海の岩場に持って行ったのかとか、撮影の苦労を想像してしまうが、それより印象的なことは、その空中浮遊しながら去って行く姿はシエナ派の画家サセッタが描いたことがあるもので、ヘルツォークの美的感覚がわかって興味深い。また、その弟が去って行く場面は何を意味しているかだが、その後のジシェの運命を暗示している。彼はハヌッセンが殺された後、ポーランドに戻って来る。実家を出たのが1932年5月で、戻ったのが12月であるから8か月をハヌッセンの館で働いた。その間にマルタと出会ったものの、ふたりは結ばれることはなかった。つまり、デリラとは出会わずに故郷に戻った。
 ジシェがベルリンで見たのはナチの横暴さだ。そしてナチがユダヤ人を嫌悪していることを目の当たりにし、もはやベルリンに用はないと考える。まだヒトラーは政権を獲得していないが、本作の中ではヒムラーやゲッベルスがハヌッセンのショーの常連で、早くも国会議事堂の放火を計画していることが話される。着々と計画を進めていたナチだが、ジシェが舞台で自分なユダヤであると告白することに拍手を送る人がまだベルリンにはいた。それどころか、ユダヤ人にサムソンばりの怪力がいると知ったユダヤ人たちは翌日から長蛇の列を作ってハヌッセンのショーを見に来るようになる。しかしそれも呆気ない。ナチが政権を取るのは目前だ。故郷に戻ったジシェは田舎から一歩も出たことのないような同胞に向かってやがてユダヤ人に大きな災難が降りかかると言うのに、誰ひとりそれを相手にせず、むしろ怖いのはロシアだと言う。そしてある日、ジシェの力強さを疑った老人が釘を手で木材に打ち込めと言い、それをやすやすとこなすジシェだが、錆びた長い釘を打ち込んだ時、木片を貫通させて自分の膝を傷つける。すぐにウォッカで殺菌しようと老人に言われるが、酒は飲むものだと言って手当をしないジシェは、結局その傷が原因で片足を切断、またそれがもとで死んでしまう。それはヒトラーが政権を取る数日前のことであった。本作ではジシェが主人公と言ってよいが、ジシェはただの力持ちで、ハヌッセンのように金の力を信じてそれをたくさん得ることに執着がない。ハヌッセンは金庫を開けてジシェに札束を示し、いかに世界は金の力が大きいかと解く。それは大金がなければ映画など撮れない監督業のつらい立場をほのめかしている。資金提供を受けて本作を撮ったにしても、それはただということではないはずで、公開して得た金で返すというのが常識だ。そしてもし返せない場合は何らかの取り決めがあるだろうが、大金を扱うだけに監督はそれこそどの場面も資金を睨みながらこだわって全力投球をする。そういう態度が本作は特によくうかがえる。DVDの特典映像にヘルツォークの舞台裏の話がいろいろと語られていた。1年前のことなのでうろ覚えだが、資金の半分か4割程度を費やしたのが、ジシェがベルリンにやって来てすぐ、ブランデンブルグ門の前でうろたえる場面だ。それは20秒ほどではないだろうか。1930年代を見せるには動き回る車や人々しかないが、それら大勢の人と行き交う車は0.1秒単位で行動が計画されたに違いない。0.1秒は映画では長い。その瞬間のような長さに観客は安っぽさを見抜く。そのためヘルツォークは念入りにその場面を撮った。しかし映っては困る現代の雰囲気を外す必要上、カメラは固定で、多少の物足りなさがある。とはいえ欲を言えば切りがなく、そうなればCGを使うことになる。実写で1930年代を見せるにはどれほどの骨董屋が出入りし、またファッションやヘア・デザイナー、室内インテリアなどに迫真性を求める必要があったかと思う。『ハヌッセン』にはチャールストンを踊る場面があった。また女装の男も登場して頽廃ムードはよく演出していたが、本作でのチャールストンは10名ほどの女性の踊り子を舞台で踊らせ、観客の若い女性は30年代ファッションとメイクで全くそれらしく決め、娯楽映画であることを確認させてくれた。結論を書くと、ハヌッセンはハヌッセンなりにユダヤ人を意識して生きたが、ナチにはかなわなかった。ハヌッセンが最後にジシェに言うのは、もっと仲良くなれたかもしれないという言葉だ。それはユダヤであることを人前で明かせばよかったとの意味だろう。雄鶏のハヌッセンは服を着て人間になったと思ったが、雄鶏は雄鶏なのだ。ジシェはベルリンの、そしてハヌッセンの虚飾を知って、「ユダヤ人、何が悪い」と自覚したが、故郷に戻っても誰も自分の言うことに耳を貸さず、つまらないことで命を落としてしまう。それもただの裸の雄鶏であったと言える。では政権を取ったナチやヒトラーがただの雄鶏ではなかったかと言えば、彼らもまたそうだ。
by uuuzen | 2014-08-09 23:59 | ●その他の映画など
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