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●『ハヌッセン』
傷の程度はわからないが、頭部から流れ出た血が顔中を覆った状態で一命を取り留めたオーストリア軍の軍曹クラウス・シュナイダーは、担当医の努力もあって快復し、またその際に予知能力を獲得する。



●『ハヌッセン』_d0053294_2328937.jpgそして病院で親しくなった興業主に目をつけられてハヌッセンと改名し、やがてベルリンで荒稼ぎするが、政権を握ったばかりのヒトラーに嫌われて暗殺されるという話を描く映画だ。ハヌッセンは興業主がつけた芸名とされるが、実在の人物で、実際は本作に描かれるのとは多少違ったようだ。わからない部分があるので、そこを監督が補って物語を作った。この映画を思い出したのは昨日取り上げた『八月の砲声』の続きとしてだ。中古ビデオを買って見たのは去年の秋で、感想をブログに書く機会を逸した。しかし今日は書く気になった。2,3日前、出口直や出口王仁三郎を取り上げた番組がNHKであった。全部見ていないが、筆者があまり知らなかったことがあった。大本教には昔から何となく関心がある。出口日出麿の本は同じものを2冊買ったりもしたほどで、宗教の純粋性を考える時に大本を思い出す。大本は二度大きな迫害を日本の国家権力から受けた。二度目は1934年だったか、ヒトラーが政権を取った翌年で、今日取り上げる映画の主人公のハヌッセンがナチに暗殺されるのとさほど変わらない。本作ではハヌッセンはベルリンの国会議事堂が燃えることを観衆の前で予言して間もなく殺されるから、それは1933年であったことになり、ドイツと日本は似た状況であった。ハヌッセンは予知能力があったとはいえ、あくまでも興業すなわち娯楽として人々を驚かせ、楽しませただけと言ってよいのに対し、大本は数多くの信者を得て教組の直やその娘婿の王仁三郎の言動は日本政府にとっては無視し難いものとなっていた。前述の番組では、第2次の迫害を受ける直前の大本の行為が紹介された。それは神として天皇を頂点にした思想によるもので、当時の日本国家とほとんど同じ考えであったのに、なぜ迫害されたのかという疑問が湧く。それに対して、どこかの大学の名誉教授が意見したのは、ファシズムは自分と似た存在が鬱陶しいということだ。1930年代の日本は大本が大きな人気を得ることが目障りであったのだ。同じ思想を持っているならば協力すればよいと考えるのは甘い。特にファシズムは自分たちのまとまった集団が残ればよいと考える。ヒトラー政権がそうだ。ヒトラーがハヌッセンの予知能力を警戒し、それが自分たちの役に立てばいいが、計画の暴露を観客の前でしてもらっては大いに迷惑で、口を封じなければならないと思うのは当然だろう。ドイツに自分以外の予言者や人気者があってはならず、邪魔となれば殺す。ナチはベルリンの国会議事堂を放火しようと考えていた矢先、ハヌッセンがそれを予知したから、もう生かしておくことは出来ない。大本を弾圧した日本政府も似たようなものだ。そういうことがあったので、戦後は新興宗教に寛大になり、やがてはオウム真理教が出現するまでになった。話の脱線ついでに書くと、わが自治会に宗教団体から税金を徴収すれば日本の財政は楽になり、消費税も上げずに済むと意見する人がある。一方、これは数日前に奈良のとある寺の住職と談笑して聞いた話だが、宗教法人に対しては宗教とは関係のない土地建物はかなり綿密に調べられて課税されるようになっているそうだ。また新興宗教は昔のようには簡単には設立出来ないらしい。最低10人の信者が必要というのはえらく緩い規則と思うが、祭壇を設置する礼拝堂その他、明らかに宗教施設とわかる環境を整える必要がある。そのような事情から、新たに設立するより、昔認可を得ながら、活動をほとんど休止している宗教団体からその権利をうまく買い取ろうとする人もあるらしい。金儲けには宗教法人は最適ということなのだろう。そういう考えの宗教が増えると国も課税を強化するのは当然だ。ただし、信仰の自由が憲法で保障されている中、政治家がどの宗教法人からも税金を取ることは不可能だろう。政治にそんな力があれば宗教は政治の言いなりとなる。そこで政治を取り込んだ宗教も出て来るのかもしれないが、大本は政治とは無関係であった。それなのに問答無用で神殿が破壊され、王仁三郎が長い懲役刑を食らったのであるから、ファシズムは恐ろしい。日本はヒトラーのような目立った人物は生まなかったが、ナチと同じようなひどいことを戦前は大本に対して行なった。
 クラウス・シュナイダーは第1次世界大戦の東欧の戦線で負傷し、ユダヤ系の軍医によって快復すると同時に催眠術に目覚める。それはかなりの部分は読心術と言ってよく、超能力を信じない人にとってはタネも仕掛けもあるイカサマに映り、実際そういう部分が大きい。だが出口直を初め、新興宗教の教祖には大なり小なり、神がかり的な能力があって、それゆえに多くの人が集まるから、どこからどこまでがタネでイカサマであるかは言い切れない。教組にはカリスマがあると言ってしまえば便利だが、そのカリスマは獲得しようと思って出来る部分が大きいのかそうでないのか。筆者は後天的に努力して獲得するものと考えるが、そうした多大な努力や才能の遺伝子のようなものは生まれた時から保持しているかもしれず、そうなると気が楽な人とその反対に人生は予め決まっていて面白くないと思う人がある。どのように考えようと、誰しもなるようになって行くのが人生で、その中で努力する人はするし、しない人はしない。本作ではヒトラーはニュース映画でのみ少し登場するだけだ。そのことによってハヌッセンとは桁違いの人物すなわち稀代の詐欺師ないし予知能力者であることが暗示され、またナチ党員にかしずかれる神のような存在というニュアンスが本作を見る者は悟るが、本作はヒトラーに予知能力があったとは描かず、宣伝が大いに得意な興業主的才能を持っていたことを誇張する。それはたとえばレニ・リーフェンシュタールそっくりな名前の若い女性カメラマンが現われ、ハヌッセンに接近するが、彼女は芸術を信奉し、またどうすれば神々しいイメージを人体に付与出来るかを知っていて、ヒトラーは演説の才能は抜群だが、カメラ映りがよくないことをハヌッセンに言い、まずハヌッセンが興業するのに役立つ肖像写真を撮らせてほしいと申し出る。彼女のスタジオに赴いたハヌッセンは見事な写真を数枚撮影してもらうが、翌日の新聞にはヒトラーが全く同じポーズと照明で撮影された写真が新聞に載る。それに激怒したハヌッセンだが、その時はもうナチからは用なしと思われていた。ヒトラーはどのように演説すれば人が喜ぶかを熟知し、周囲に宣伝術に長けた才能を集め、人々の歓心を煽った。第1次大戦の西部戦線が泥沼化して何年も続いたのは、継続中の物事を止めることが難しいからという意見がある。これは一旦火がついたことは一気に拡大することと対にしてよい。本作で描かれるように、最初はナチを苦々しげに見る人が多かった。国会議事堂の炎上はナチの仕業であろうが、そのことはやがて議事堂がなくてもよい政治、つまり一党独裁をナチが始めたことからも想像がつく。ハヌッセンという目立つ才能がベルリンに興業に来た時、ナチは最初は自分たちの役に立たせることを目論んだが、ハヌッセンは政治に関与しない姿勢を貫いた。戦線で知り合った興業主と意見が合ったのもその点だ。ところがヒトラーが台頭して来ると、ハヌッセンは記者かちから政治に関する質問を受ける。誘導質問と言ってよい。そこでハヌッセンは言わねばいいのに、ヒトラーが政権を取ることを予知して発言する。それ切りにしてドイツを後にして渡米すればよかったものを、なぜかハヌッセンはベルリンに留まった。知人はみな危機を感じて散らばって行ったのに、なぜハヌッセンは自分の将来を予知出来なかったのか。それを言えばヒトラーはもっとだ。ナチ党員に銃殺される直前、ハヌッセンはナチが滅びると言う。それは彼に優れた予知能力があったためか、単なる恨み節かはわからない。
 本作は全体に暗い場面が多く、また声も小さく発せられる。画面の暗さは照明の少なさだが、それよりも陰鬱な時代を表現するための監督のこだわりだろう。画面の暗さは『八月の砲声』の白黒映像に色をつけたような感じで、監督は記録映画に見えるようにしたかったとも思える。ハヌッセン役は、彼が詐欺師ではなく、真面目で反ファシズムの立場を取ることを示すために選ばれたに違いない。これがどこか軽い、イカサマぶりが似合う俳優ならば、映画はかなり違った受け取られ方をする。そのことから監督の思惑が見える。本作ではハヌッセンは舞台でイカサマを全くしない人物として描かれる。予知能力も人から強く求められた時に思い浮かんだことを口にするだけで、その予知が当たったことを自己宣伝の道具に使ったり、また金を請求したりしない。そのような人はたまにいる。筆者の家内の母も若い頃は予知能力が人並み以上にあって、未来を教えてほしいと言って訪問する人が何人もあったらしい。新興宗教の教祖もそういう能力を持っている場合が多く、ハヌッセンが本作で言い当てた未来はさほど驚くべきことではないだろう。よく言われるように、未来がわかるのであれば、なぜ自分の死期がわからないのかだ。ナチが煙たがっていること、またナチの横暴さからは自分に危害が加わることは、ハヌッセンであれば当然予期出来た。監督はその疑問に答えを出さないが、ハヌッセンはいつの時代にもいるちょっとした予知能力者で、そのために虫けらのようにナチに消されたと言いたいのかもしれない。つまり、ハヌッセンを通じてナチの恐さを描く考えだ。あるいはハヌッセンもナチも、人を煽って信じさせた点は同じで、どちらもイカサマであったと言いたいのか。頭に大けがをしたハヌッセンであるから、脳に何らかのダメージを受け、それによって今までになかった能力が芽生えたという見方も出来るが、反ナチの立場は第1次大戦での悲惨な経験から二度と戦争はごめんというまともな考えゆえとも受け取られる。ハヌッセンはヒトラーと同じ年月日に同じオーストリアで生まれたが、前者は劇場という狭い空間で知られ、後者は世界に知れわたった。これをカリスマの大きさの違いという見方も出来るが、ヒトラーが宣伝専門の側近を抱えていたことを思えば、大きなカリスマ性が元来あったと言えるかとなれば、さてどうだろう。大本の出口直や王仁三郎は、直接会った人の意見がいくつも残されていて、それらによればほかには見られない大きな人柄であったようだ。ヒトラーについても同様の意見が残っているのかどうか知らないが、だいたいはその演説の巧みさに魅せられたのであって、対面すればただのおっさんという雰囲気ではなかったかと思う。本作はかなり地味で、少し長すぎるかと思うカットも目立つ。ハンガリー巨匠とされるイシュトバン・サポー監督が1988年に撮った。ハヌッセン役は名優とされるクラウス・マリア・ブランダウアーで、筆者は本作で初めて彼の演技を見た。目立つ女性は2,3人登場するが、さほど活躍はしない。ベルリンでハヌッセンが記者たちに語る場面に、当時のベルリンの頽廃ぶりの強調がある。金持ちはホテルで豪華な食事をし、また食べ物はあまっているのにホテルの外には浮浪者がたくさんたむろし、若者の失業者も溢れ、女装趣味の男が売春し、15歳の少女は早く処女を捨てたがって変態行為をする、といったことで、現在の日本とさほど変わらない。そういう時代であるからこそ、人々はよりどころを求めて超常現象に関心を抱き、ハヌッセンの劇場に通う一方でヒトラーの演説に酔ってナチ党員になる。同じ時代、日本では大本が力をつけて亀岡に大きな神殿をかまえるが、大日本帝国によってダイナマイトで破壊され、出口直の墓は暴かれて蹂躙された。ヒトラーやその時代を描く映画は多いが、当時の日本の国家による弾圧を描くものはどれほどあるのだろう。忘れやすいのか、見て見ぬふりをするのか。日本でハヌッセンの映画を見るのは『八月の砲声』と同じで、あまり実感が湧かないかもしれない。それは想像力の欠如で、煽動者がどのように人々の心を操るのかという眼差しを忘れてはならない。ハヌッセンは第1次大戦で死んでいてもおかしくなかったが、結局ヒトラーに殺された。その15年生き延びた人生にどういう意味があったかと言えば、本作が作られたことと言えるか。
by uuuzen | 2014-08-07 23:59 | ●その他の映画など
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