縄張りがとても広いということはそれだけ個体の数が少ないと思うが、一昨日のNHKの『ダーウィンが来た!』で取り上げられたリカオンとかいう狼のような肉食動物は四国ほどの面積で10のグループが生息するという。各グループは20匹前後で、四国ほどの面積に200匹とはあまりに少なく、絶滅に瀕する稀な種だと思うが、棲息地のアフリカは四国の何十倍もあるから、数千や万単位の数が生息しているかもしれない。
それはともかく、同番組で群れから孤立した雌が一回り体の小さな同じ犬科の動物のジャッカルの数匹の子に関心を示し、ジャッカルの父母を退け、代わりに子どもの面倒を見る様子が紹介された。母性本能があって、小さな命を育みたかったのだろう。だが、ジャッカルの両親はたまったものではない。わが子を取り戻そうとまた巣穴の近くに戻って来る。そうこうしていると、今度はリカオンよりさらに大きなハイエナが一匹やって来てジャッカルの子を狙おうとした。それを見たリカオンは激怒してハイエナに立ち向かい、ちょうど居合わせたジャッカルもそれに加勢してハイエナを追い払うことが出来た。その後はジャッカルの両親はリカオンの雌と一緒に暮らすようになった。リカオンはもともと群れで餌を獲るから、ジャッカルとの共同生活はいいことづくめだ。そういうところにリカオンの別の群れがやって来たが、その中に若い雌がいることを察したジャッカルと暮らし始めたリカオンは、群れに発見されないように姿をくらまし、群れが去ってからジャッカルの親子のもとに戻って来る。同種の群れとは一緒に暮らさないことを選んだのだが、近いとはいえ、異なる種の動物が一緒に暮らすのは生きるためであり、またリカオンの方からすれば孤独に耐えられないからだ。人間にもそういう本能はあるだろう。人間の場合は縄張りの範囲がはるかに狭く、壁一枚を隔てて見知らぬ人が暮らす場合はいくらでもある。ま、その近くて遠いような関係によって孤独を噛みしめながらもひとりではないという思いを抱くことは出来るのだろうが、そう言えば最近起こった事件に、成人男性による小学生女子の誘拐があった。それは先の雌リカオンの行為とは似ていなくもない。ジャッカルの生活に法律はないので犯罪の意識がなく、わが子をリカオンが育てることに憤慨しながらもやがては仕方がないと共同生活するが、人間の場合はたとえば先の誘拐した男のように、自分好みの女に育てて将来結婚するつもりであると図々しいことを言う。リカオンのように、ジャッカルの子に餌を与え、純粋に子育てだけをしたいのであれば、親のない子を引き取って大事に育てることは出来るが、そこまでして他人が生んだ子に天塩をかけたいと考えるひとり暮らしの成人男性はいないであろう。特に日本ではそうだと言ってよい。それで子どもが生まれない夫婦は精子や卵子の提供を受けてでも子がほしいと考える。その一方で親に捨てられた子がたくさんいる。
先週ファスビンダーのDVDを取り出して適当に1本選んで見た。それが今日取り上げる『不安は魂を食いつぶす』(ANGUST ESSEN SEELE AUF)で、1974年のTV用に撮った93分のカラー作品だ。外国人労働者を扱う点で『出稼ぎ野郎』に通じるが、同作より5年後の作で、しかも社会から疎外される人たちへのファスビンダーの温かい眼差しがうかがえる点で共通している。日本は少子高齢化が今後ますます進み、肉体労働者の確保のためには東南アジアなどの外国人労働者に頼らねばならず、またすでにそうなっている状態だが、そこで危惧されることはそうした労働者と日本人との摩擦だ。その例は殺人事件となって昔からそれなりにある。20年ほど前か、小牧市のブラジル人の子どもがいじめに遭って殺された事件があった。その父親が二度と同じような事件が起こってほしくないと考えて、あるドキュメンタリー作品に登場したことがある。その事件は全国的にはさほど大きく話題にならなかったのは、トヨタに遡及する問題でもあったからだろう。外国人労働者に頼らねばならないトヨタの下請け会社が多い小牧やその周辺では、外国人労働者が蔑視され、挙句の果てにリンチに似た行為によって殺されるとなると、世界から批判を浴びかねない。そうなれば自動車の売れ行きが鈍るという思いがあるだろうし、なるべく事件は小さく報じられて、出来れば数か月も経たずに忘れられるのがよい。だが、同様の事件が頻出すれば企業も行政も動かねばならない。そうならないように努力して、その後はそのように痛ましい事件は起こっていないと思うし、またブラジルからやって来た日系人はそれなりの社会を作って地元に溶け込んでいる番組がたまに放送される。だが、油断は禁物だ。今後ますます外国人労働者に頼るならば、新たな摩擦は必ず生じ、排斥運動が活発化するだろう。それは最初に書いたリカオンの行動からすれば実に情けないことだが、人間にも縄張りがあり、同じ国の者同士ですら、いがみ合うことは日常的なことだ。そう言えば先日若い人気女性タレントの父がバングラデシュに逃げていたのに、来日して警察に出頭した。彼女の好感度があまりによいので、父の詐欺罪は娘とは無関係とみなされ、娘のTVへの露出が減ることはないようだが、その娘が美人でなければ世間はどう彼女を貶めたか。まず言われるのは、「日本から出て行け!」だ。それほどに美人は得だが、それは彼女が「お馬鹿キャラ」を売りにし、日本にとって害がなく、むしろ日本人が彼女の鈍さのようなものに優越感を覚えるからだ。つまり、美女でなくて大学教授並みの頭を持っていても、「日本から出て行け!」と言われる。頭のよさは目障りなのだ。頭のよさに劣等感を抱く人が圧倒的に多いからだ。それは日本だけのことではない。人間はみな昔からそうで、外国人に対しては嫌悪とその反対の憧れがある。日本の場合は欧米人には憧れて、アジア人には蔑視であって、ブラジル人もまあアジア人と同じ扱いだ。肌が黒いアフリカ人も同じだが、日本に滞在する人数が少ないので、摩擦は目立たない。
さて、本作はモロッコから来た労働者と60少しの年齢のドイツ人女性エミとの恋物語だ。ただし、女性は名字の末尾に「スキ」がついて、東欧やロシアからの移民の子であることがわかる。エミには子どもが3人いて、みな所帯を持っている。エミはひとり暮らしが長く、掃除婦をしてひとりで暮らしているが、その仕事は8階建てのアパートを4人で受け持ち、楽ではない。それに子どもたちはどちらかと言えば世間体を気にし、あまり働かず、男尊女卑的な考えを持っている。そういう子たちであるのに、エミは人種差別主義者ではない。この設定は多少無理がある。普通そういう優しい母親から、母親の行動を憎む子が育つだろうか。ま、そこは現実はさまざまだ。本作では3人の子はエミの行為すなわちエミが酒場で知り合った外国人労働者アリと仲良くなることが許せない。それはそうかもしれない。3人の子がそれぞれ家庭を持っているほどの老いた母親が、うんと年下の肉体逞しいアリを家に連れ込み、挙句の果てに結婚を言い出すと、ついに狂ったかと思うだろう。そういうセリフを口にするのが、ファスビンダーが演じる次男だ。彼はろくに働かずに昼間から酒ばかり飲んでいる。そういうファスビンダーが本作の監督であるから、製作の裏側を想像すると面白い。また本作のDVDには特典映像がついていて、そのひとつにファスビンダーの母親が出ている。彼女が本作に出ていることをそれで知って確認すると、エミの掃除仲間のひとりで、人種差別主義者を演じている。その様子と、特典映像での姿があまりにも違い、前者は全くどこにでもいるおばさん、後者はさすがファスビンダーの母親といった気高さがある。人は演技によってこうも雰囲気が変わるのかと思う。ファスビンダーは本作では頭のあまりよくない暴力的な背年を演じる。それはそういう人物に関心があるのではなく、世間にはそういう輩が多いことを知り、半ば彼らを嘲笑するためだろう。実際のファスビンダーは本作を撮ったことからわかるように、社会から疎外された底辺の人物に優しい。
結論を言えば、エミとアリは多くの障害をものともせずに結婚し、それまで差別していた人たちも掌を返すようにおべっかを使い始める。そうなると、今度はエミとアリとの間に隙間が生じる。そしてアリは通っていた酒場の女主と一夜を明かし、さらにはエミとふたりで貯めたお金を酒場での賭博で使う。心が離れかけたアリを求めてエミはまた出会った酒場を訪れ、出会った夜にジュークボックスで鳴らした曲をまたリクエストし、その曲に合わせてまたアリと踊ると、その途中でアリは苦しみの声を挙げて倒れ込んでしまう。アリは入院し、エミは病状を医師に訊くと、ストレスから胃を傷めたとのこと。心配そうに病床のアリを見つめるエミで、そこで映画は終わる。たぶんふたりはまた仲良く暮らして行くのだろう。そのように描いている、つまり後味のよさを暗示しているところは『出稼ぎ野郎』と同じで、ファスビンダーは疎外される人たちの末路を虚しく描くことを望まなかった。だが、それは本作という区切りの中であって、アリが退院した後のエミとのことはまた別の物語で、幸福が待っているか、不幸がやって来るのかはわからない。どちらであってもいいわけで、そう思うと本作の結末も不幸を暗示させるものであってもかまわなかったことになるし、実際そのとおりだ。これは解説書に書いてあることだが、本作はファスビンダーが尊敬したダグラス・サークのハリウッド映画『天が許し給うすべて』のリメイクだそうだ。ファスビンダーが同作をヒントに書いた『人間の天国』というあらすじは、サークの同映画のようなハッピーエンドではなく、ふたりは結ばれない。そのふたりとは本作で言えばエミとアリだが、ファスビンダーは『人間の天国』があまりにサークの映画に似ているのでそれを破棄し、別の物語を書く。それが本作になるのだが、その物語は1970年の『アメリカの兵士』に同作とは全く関係のない話として挿入されていた。つまり、ファスビンダーはサークの映画を知る以前にすでに書いて撮っていた自作から、その部分を抽出して本作に拡大した。音楽で言えばザッパの手法と同様で、よく同じ俳優を使って映画を撮ったファスビンダーの作品の構造がザッパを連想させることは無理がないでのはないか。
それはともかく、『アメリカの兵士』で語られる掃除婦エミの物語は本作そのままのあらすじと言ってよいが、ひとつ大きく異なる点がある。それは同作ではエミはトルコからの労働者と一緒に暮らし、その人物かどうかはわからないが、トルコ人労働者によって殺されるという結末だ。本作ではトルコ人がモロッコ人に代わっていて、ファスビンダーはトルコ人を起用したいと思いながら、その夢は生涯かなわなかったらしい。60代前半のエミが逞しい肉体の外国人労働者によって殺されたという物語を1970年の映画に挿入したファスビンダーは、それをそのまま拡大せずに、結末を変えて本作としたことは、外国人労働者や孤独な寡婦に同情的であったからだろう。本作でエミの掃除仲間は、外国人労働者が駅前で朝からたむろして働かず、国が生活の面倒を見ているというのに、一方では毎日のようにそうした連中が女性を強姦する事件があると、眉をひそめて言う。それは当時の、そして今もなおドイツの現実であろう。そういう世間の見方に対してエミはアリを擁護するが、通っている店がエミには売らなくなり、エミの子どもたちはみな激怒し、おまけにエミのアパートの住民は噂話に花を咲かせる。孤独なふたりがただ一緒に暮らすことがなぜそれほどにみなに嫌悪の情を抱かせるのか。ふたりは世間に悪いことをしたのだろうか。世間がふたりを目障りとみなすのは、ひとつにはふたりがタブーを恐れていないことだ。60代の寡婦が20数歳下の男と一緒になるというのは、どう考えてもおかしいというわけだ。『アメリカの兵士』では、エミは男と出会って後ろ姿が30歳も若返ったとある。それは本作でも同じだろう。60代の女性が若い男に抱かれて若返るということは、芸能人でもなければ世間は絶対に許さない。自分たちがそういうこととは無縁であるからで、誰もが嫉妬する。そして、どうせ年配の女は若い男に金を巻き上げられるはずで、もっと悪くすれば殺されると揶揄する。その思いがファスビンダーにも1970年の時点ではあったのかもしれない。
ファスビンダーの映画に出演する俳優は同じ顔ぶれが多く、エミを演じるブリギッテ・ミラとアリ役のエル・ヘディ・ベン・サレムもそうだ。前者は筆者は『不安が不安』で見た。これは1975年のTV用作品で、以前取り上げた。1910年にロシア移民の父でピアニストの子として生まれ、8歳から歌とバレエを学び、19歳でスメタナの歌劇『売られた花嫁』に美女役としてデビューした。戦時中はユダヤ系ということでナチの宣伝映画にユダヤ人女性約を演じさせられたというが、そういう経験は演技を磨いたはずで、戦後はTVや映画に進出し、ファスビンダーが目を留めることにもなる。2005年に94で亡くなっているが、ベルリン市よりベルリナー・ベアー賞の生涯貢献賞を贈られたそうで、とても有名であったことがわかる。DVDの特典映像には彼女がファスビンダーの母と同席して質問を受けるものが入っていて、ファスビンダーと一緒に本作がカンヌ映画祭で受賞した際に出席した時の思い出を快活に語っている。彼女は大きな拍手が沸き起こった時、それが自分に向けられたものとは思わなかったらしい。それほどに60代前半の女性が主役を演じ、また賞を獲得することは珍しかったようだ。本作で彼女は若作りするのではなく、実年齢そのままの主人公を演じていて、それはアリ役のベン・サレムも同じだ。彼は1935年にモロッコに生まれた。ふたりの子をもうけた後、生活のために出稼ぎでマルセイユに行き、71年にファスビンダーと出会う。その様子は本作と同じ74年に撮影された『自由の代償』に描かれ、また71年の『四季を売る男』にアラブ人役として少しだけ出ている。彼は75年にファスビンダーとの同性愛関係が終わり、酒におぼれて酒場で喧嘩して3人を刺殺、マルセイユに送還後にフランス南部のニームの刑務所で服役、82年に独房で自殺した。
これを知ったファスビンダーは82年の『ケレル』を彼に捧げ、同年6月に死ぬ。筆者は当分『ケレル』を見る気がしないので、ファスビンダーがどのようにベン・サレムのことを思っていたのかはわからない。サレムは本作を見る限り、等身大で自身をそのまま演じているようで、その様子にはとても好感が持てる。外国人労働者での設定であるから、言葉数は少なく、語彙も乏しいが、自分の思っていることを相手に伝える能力には長けている。そのため、エミとアリの会話は独特の味があって印象に強く残る。『不安は魂を食いつくす』という題名もアリがエミを鼓舞するために口にする言葉で、それはサレムが考えた表現だという。そういう一種のセンスのよさにもファスビンダーは魅せられたのかもしれない。酒癖が悪かったことが命取りになってしまったが、ブリギッテ・ミラも彼がそういう運命になったことを惜しがっていた。『出稼ぎ野郎』ではファスビンダーがイタリアからの出稼ぎ人を演じたが、サレムの演技はそれとは格段の違いで、もっと自然で、彼がいなければ本作は成立しなかった。本作での演技は、彼が短期間に英、仏、独の言葉をマスターしたという優れた言語能力と、本当に出稼ぎする必要があったゆえのものだが、ファスビンダーは俳優を見出す能力に長けていたと言うべきだろう。DVDの解説書によれば、もうひとり詳しく紹介されている。バーバラ・ヴァレンティンだ。彼女は『自由の代償』では恋人役を演じたというが、筆者の記憶からは消えている。ロンドンでロック・バンドのクイーンのフレディ・マーキュリーと暮らし、彼が91年にエイズで亡くなった後、自身も発症して2002年にミュンヘンの病院で死んだ。話を戻して、本作の最後はあまり印象に残らないが、その後ふたりがたとえ数年であっても仲良く生活したと想像したい。ふたりが新婚旅行から戻ってしばらくしてアリはよく通ったアラブ人専門のような酒場にまた戻り、ついには酒場の若い女主人と寝るようになるのに、それを知ったエミは自分にはない若さをアリが求めることを非難しない。それはアリを失う怖さがあるからで、結局アリはそういうエミのもとに戻る。高齢者と外国人労働者が増加する一方の日本では本作は改めて評価される時代が来るかもしれない。